第25話 指先に震える 2.約束
「おはようさん。」
翌朝、岬がリビングに顔を出すと、珍しく早い時間から来ている巽と顔を合わせた。ダメージジーンズに黒のデザインTシャツ。筋肉質な二の腕が際立っていて、黒が似合うなぁなんて感想を思わず抱く。
「おはよう。早いね。」
時計を見ればまだ7時半。テレビもニュースしかやっていないような時間だ。ホームに来る時は大体昼前ぐらいに顔出すのに。そう思って彼を見れば、じっと岬の顔を見つめていた。
「巽君?」
「体調は?」
「え?」
「昨日、調子あかんかったって聞いた。もうええんか?」
「あ、うん。大丈夫。」
何で知ってるんだろう。そう思ったが、その答えを見つけるのは簡単だった。ソファに座った巽に抱きついている蛍が彼同様岬を見上げていたのだ。蛍から聞いて、わざわざ様子を見に来てくれたのだろうか。
「ならええねん。」
そう言って巽がポンポンと自分の隣を叩く。座れ、という事だろう。
「ありがとう。」
「・・・。」
「蛍もね。」
照れているのか、巽はそれには答えない。隣に座って蛍の頭を撫でれば、いつかのように逃げたりはしなかった。ほっとして岬は頬を緩める。
テレビではニュースキャスターの女性が更新している猛暑日の記録を告げている。夏休みも8月に入り、うだるような暑さが続いているがエアコンのおかげか、皆のパートナー達も暑さに負けず元気に過ごしていた。
「何か飲む?」
「えぇから、座っとれ。」
「うん。渚さんはイーグルの散歩?」
「あぁ。二十分ぐらい前に出とったわ。もうすぐ帰ってくるんちゃう?」
「最近は暑いから、昼間に散歩できないもんね。」
「コンクリで足が焼けるわ。雪は?ダレとらんか?」
「うん。大丈夫みたい。上手く木陰見つけて散歩してるよ。」
「岬。」
「ん?」
名前を呼ばれ、テレビを見ていた岬の目が隣に移る。同時に巽の手が岬の手に触れ、その不意打ちに心臓が跳ねた。
「巽く・・」
「朝飯食うたら部屋に行きたい。」
「部屋って・・・。私の?」
「ダラダラしゃべるだけでええねん。ええやろ?」
仲間とではなく二人きりで時間を過ごしたい。その直球の誘いに岬はフリーズした。顔が熱くなるのが自分でも分かる。断る理由は特に見つからない。けれど、断らなければあの告白の返事にOKしたことになるのだろうか。
「コラ。」
「いたっ!」
軽くおでこを指ではじかれ、岬は反射的に目をつぶった。感触の残る額に手を当てれば、目の前で巽がちょっとへそを曲げた顔をしている。
「あんまややこしく考えんなや。話すだけって言うとるやんか。」
「あ、うん。ごめん。」
確かにあの日の返事をしなきゃ、と意識しすぎているのかもしれない。
結局、散歩から帰ってきた渚を待って皆で朝食を食べ、渚は一階の仕事場へ、聖が大と夕を保育園まで送っている間に二人は岬の部屋へと移動した。
「本屋って時給何ぼ?」
「950円。」
「へー。そないなもんか。」
「バイトしたいの?」
「せやなぁ。中坊でも雇ってくれるとトコがあったらな。」
「あ、中学生はバイトしちゃいけないもんね。」
「言うなや。」
「ふふっ、ごめん。」
勉強机の椅子に座ってくすくすと笑う岬に、巽は眩しいものでも見るように目を細めた。体調が心配だったのは本当だが、顔を見に行く体の良い言い訳にしたのも確かだ。話だけ、とは言ったけれどそれだけで満足する筈もない。
「なー。」
「ん?」
「ずっとバイトなん?」
「そんなことないよ。」
「シフトはいつ?」
「夏休み中は基本日・月・木。」
「なら金曜どっか行こうや。」
「・・・・・。」
サラッとさりげなく言ったつもりだが、岬は完璧に固まっていた。まぎれもないデートの誘い。それにどう答えるべきか頭の中で必死に考えているのだろう。
「なんか予定があんのか?」
「え・・、ううん。」
困ってるならあると言えばいいのに。そういう嘘をつくことも最初から頭にないのだろう。岬らしい素直さに巽は喜ぶと共に半ば呆れる思いもある。
「ならええな?」
人の良い岬は多分追い詰めれば嫌とは言わない。再度問い詰める巽にやはり岬は頷いた。卑怯だとは思うが、巽にも焦りはあるのだ。
蛍が巽に伝えたのは彼女が昨日体調不良だったことだけではない。向かいの部屋にいる聖のベッドで彼女が休んでいたことも蛍を通して同時に知ったのだ。その時の二人に男女を意識させるような空気なかったとしても、巽が嫉妬するには十分だった。聖とは違い岬の傍にいつもいられないことは、不安材料として頭にこびりついている。
少しでも早く彼女を手に入れたい。余裕のないガキだと言われても、それが巽の本音だった。
「警戒しとる?」
「え・・いや、そうじゃないけど・・。」
それまでベッドに座っていた巽は立ち上がり、岬の前に立つ。そうして彼女の勉強机に両手を付いた。椅子に座った彼女を腕の中に閉じ込めた形で。
触れそうなほど近い距離で自分を上から覗き込む巽に、岬ははっと息を呑む。
「意識してるならそれでええねん。」
「え?」
「俺が、岬を好きなんは変わらんし。」
バクバクと自分の心臓が煩い。岬は緊張で動けないまま、ただじっと目の前の巽を見ていることしか出来なかった。彼の右手が頬に触れる。その手を冷たく感じて、それ程自分の顔が熱くなっているのかと思うと余計に恥ずかしかった。相手が年下だろうと、恋愛経験値ほぼ皆無の岬に当然余裕なんてない。あまりの混乱に目にはじわりと涙が浮かぶ。それに気づいた巽は毒気を抜かれたような顔をして岬から離れた。
「・・・・そんな顔すな。」
「え?・・・ごめん。」
自分が今どんな顔をしているかなんて分かるはずもない。慌てて滲んだ涙を拭くと、ぐちゃぐちゃと乱暴に頭を撫でられた。
「わっ・・巽君?」
乱れた髪の毛を手ぐしで梳きながら隣を見れば、再び巽がベッドに腰掛けている。そして岬が落ち着いたのを見計らい、ベッドの空いたスペースをポンポンと叩いた。まるで朝食前の再現のようだ。岬が黙ってそこに腰掛けると、巽の頭がのっかってきた。
「巽くん!?」
「んー。三十分。」
それだけ言うと、あっという間に規則正しい寝息が聞こえてくる。きっと今日は朝が早かったからまだ眠かったのだろう。岬はベッドに隅にたたんであったタオルケットをそっと巽の上にかけた。
膝にかかる重さはなんだか気恥ずかしく、けれど自身の膝枕で眠る巽はそんなこと気にしていないかのように穏やかな寝顔を見せている。
(巽くんは、どうして私なんかが良いんだろう・・。)
巽は中三。自分は高二。二歳も歳が離れている。大人になってからならいざ知らず、今の年代で二歳差というのは結構大きい。巽も同世代の女の子の方が一緒にいて楽しいのではないだろうか。増して岬は自分のことをそれ程明るい性格だとは思っていない。自分から目立つことはしないし、面白い話が出来るわけでもないのに。
何故、と訊けば巽は答えをくれるのだろうか。その答え聞けば、岬が彼をどう思っているか分かるのだろうか。
(服とか食べ物みたいに好き嫌いなんて簡単に言えるものじゃないよね。)
それでも巽は自分が好きだと言ってくれた。本人を前にしたら恥ずかしさの方が勝ってしまうけれど、好意を向けてくれるのはやっぱり嬉しい。巽と付き合ったら、なんてそれまで考えた事もなかった。
(デート、か・・・)
次の金曜日が来て欲しいような、来るのが怖いような。岬は複雑な自分の気持ちをもてあましていた。