第25話 指先に震える 1.温度(1)
バイトを終えて本屋の自動ドアをくぐる。外の暑さと太陽の眩しさに岬は目を細めた。今日は朝からフルタイムで店に入り、17時にバイト終了。だが8月の今は夕方でも陽が高い。住宅街でも鳴き続けるセミの声が煩いくらい聞こえている。
ホームへと続く帰り道。そこで静かに後ろから黒いバンが横付けされた。岬の前で止まった車のサイドウィンドウが静かに開き、一人の男性が顔を出す。その顔を見て岬は足を止めた。
「シンさん?」
「こんにちは。岬さん。」
穏やかに微笑み、車から出てきたのは仲間の一人、シン=ルウォン。夏にも関わらず黒の長袖シャツに黒のスラックス。けれど彼の表情からは夏の暑さを感じない。まるで彼の周りだけ季節が違うようかのようだ。
「偶然ですね。ミサキさんはこれからお帰りですか?」
「はい。そうです。」
「もしこの後お暇なら、少しお付き合いいただけませんか?」
「え?」
突然の誘いに驚きはしたものの、この後特に予定はない。あまり遅くならなければ、と岬が答えるとシンが微笑む。そしてすかさず運転手が車から降りてきて後部座席のドアを開けてくれた。促されてシンの隣に座れば運転手によってドアが閉められ、車はするりと走り出した。
30分程で車は10階建てビルの駐車場へと入っていく。この辺りは都内のオフィス街。丁度仕事を終えた社員達が駅へと向かっている所だ。
岬はシンに続いてビルの中に入り、キョロキョロと周りを見渡した。彼の説明によるとここは会社の本社ビルらしい。初めて入ったシンの会社の中は周りの目が気になって落ち着かない。一方、社員でない者を入れているのにシン自身は気にしていないらしく、すたすたと奥へ進み、エレベーターで最上階へ上がった。正面の木製のドアは社長室になっていて、岬はその部屋に通される。
正面はガラス張り、その目前に大きなデスク。来客用の革張りソファや調度品などはどれも高価そうなものばかりだ。
シンに勧められソファに座ると、すぐにスーツを着た女性の人がお茶を持ってきてくれた。フレームのない眼鏡をかけた知的な女性で、きっちりと着込んだスーツや結い上げた髪型からはクールな印象を受ける。彼女に一言お礼を言い、岬は正面に座ったシンを見た。
「あの、今日はどうしてわざわざここに連れてきてくれたんですか?」
「もう一度岬さんと話をしてみたいと思っていたのですが、経営者としては中々会社の外で時間を作るのは難しいものですから。」
「やっぱりお忙しいんですね。」
「まぁ。責任者ですから。」
すると唐突に向かいに座っていたシンが岬の隣に移動した。普通に座るよりもずっと近い距離にシンがいて思わず腰が引けてしまう。けれど当の本人にそれを気にした様子はない。彼は顔を近づけると何も言わずにじっと岬を見つめた。驚きと緊張で岬は動けず、ただ口元に笑みを刻んだそ表情を見返すことしか出来ない。シンに見られていると呼吸さえ自由に出来ない気がして、岬は弱々しく声を出した。
「あの・・・」
すると彼の冷たい手が膝の上にのせていた岬の手に重なる。ビクッと身が竦んでしまうが、構わずその手は岬の腕をすべり、着ていた七分袖の袖口のボタンを外した。袖の中にその指が入ってきて岬は息を飲む。その反応にシンは薄く笑っただけで、無言のまま指を滑らせ細い二の腕に触れた。
「っ、シンさん・・。」
「肌。」
「え?」
「キレイですね。」
「あ、ありがとうございます・・。」
今度は反対の手が岬の顎のラインをなぞる。背筋がゾクッとして岬は身を硬くした。動揺してうるさく鳴り続ける心臓は、自分で自分の不安を煽る。
(怖い・・・。)
触れられているだけで何故そう思うのか分からない。けれど、その言葉が岬の心を支配した。以前巽に触れられた時とは明らかに違う。それが一体何なのか今の岬には考える余裕などない。
顎に触れていた指が首筋へと降りていく。鎖骨の位置を確かめるように動く指がブラウスのボタンに触れた。その時、オフィスの内線電話がコールされる。無機質なコール音は岬の耳には何かの警告のように聞こえた。シンはちらりとそちらに目を向けると、しばらくしてから席を立って電話をとる。彼が電話口で話をしている間に、岬は無意識の内に止めていた息をそっと吐き出した。
「岬さん。」
「あ・・、はい。」
何もなかったかのようなシンの声に、岬はなんとか答える。どうやら先程の内線電話は来客を告げるものだったようだ。
「折角ご足労いただいたのに、申し訳ありません。」
「・・いえ。大丈夫です。」
「今車を用意しますので。」
「あ、いえ。自分で帰れますから。」
送迎の車を出してくれるという申し出を断り、岬はその場でシンと別れ会社を出た。エアコンの効いていた社内から出るとむっとした夏の空気が岬を包む。けれどそれを暑いと感じる余裕もなく、岬は足早に駅へと向かった。
「ただいま。」
ホームに着いて玄関を開けるが中は静かだ。どことなく一人でいるのが不安になり、岬は自室に戻らずにそのままリビングを覗いてみる。だがやはり誰もいない。渚達だけではなく雪やイーグル、蛍も居なかった。
(なんで・・・・)
自室のドアを開けて荷物を下ろす。すると向かいの部屋から物が聞こえた。聖が居るのかもしれないと思って慌てて部屋を出る。向かいのドアに手を伸ばそうとして、岬は一瞬躊躇した。けれどこのまま一人でいたくなくて、控えめにノックする。
「はい。」
聖の声が聞こえたものの、何か用があるわけではない。顔を合わせてもなんて言えばいいのか分からなくて思わず立ちすくんでしまう。あれこれ言い訳を考えている内に中からドアが開いた。
「あ、アンタか。お帰り。」
「・・ただいま。」
いつも通りに振舞おうとしても声に力が入らない。そんな岬を見て、様子がおかしいことに気づいた聖はうつむき加減の顔を覗き込んだ。
「どうした?」
「あ、あの、雪ここにいるかな?」
「いや。あいつらは渚がまとめて動物病院の検診につれて行ってる。」
「そうなんだ・・・。」
すっと伸びてきた聖の手。岬は思わず後ずさりしてしまった。
「あ・・・。」
聖も一瞬驚いた顔を見せる。拒絶するような態度をとってしまった事に気付いて、罪悪感で岬の瞳が揺れる。
「悪い。なんか、アンタ顔色悪いな。」
「え?そ・・かな。」
「体調悪いのか?」
岬は首を横に振る。けれど聖の目には今にも倒れてしまいそうに見える。
「部屋に戻って休んでた方が・・」
「あ・・。」
部屋に戻されそうになって、思わず聖の顔を見上げた。何か言いたげにしている岬に気がつくと、聖はドアを大きく開けてくた。
「入るか?」
「・・うん。ありがとう。」
岬をベッドに座らせ、聖はつけていた冷房のスイッチを切ってその隣に腰を下ろした。
「なんかあったのか?」
声をかければ、彼女の手が微かに震えている。
「葉陰?」
「わか・・ない。」
「え?」
「・・分かんないの。なんで、私・・・」
何故彼はあんなことをしたのか。どうしてそれを怖いと思ったのか。何故独りが怖いのか。何もかも分からない。なんて言葉にしたらいいのかさえ、今の岬には分からなかった。
岬は泣いていない。けれど、その声は泣いているかのようにか細く震えている。聖はそんな彼女の為に何をすればいいのか分からなかった。なんて声をかけてやれば彼女の気持ちが楽になるのか分からない。
聖が困っているのを感じたのか、岬はなんとか顔を上げて微笑んだ。
「ごめんね。・・大丈夫だから。」
だか、力のないその笑顔はすぐに崩れて消えていく。何があったのか知らないが、こんな時にも無理して笑う岬を見て、聖は衝動的に彼女へ両腕を伸ばした。
「橘くん・・。」
気づけば、岬は聖の両腕に包まれていた。温かい温度が全身に伝わってくる。岬はそのまま彼の肩に額を寄せた。力を抜いて体重を預けると、更に聖の腕に力がこもる。
今はただ、この温もりに浸っていたかった。自分は何も言わないままで、こんなのはずるいのかもしれない。けれどそれでも構わなかった。
聖の穏やかな心音がTシャツ越しに聞こえてくる。それがまるで子守歌のように岬の心を溶かしていった。
しばらくすると岬の体から力が抜けて、体重が自分にかかる。聖が岬の顔を覗くと、彼女は眠ってしまったようだった。起こさないようそっとベッドに横にして、薄手の毛布を上からかける。
閉じられた彼女の目元はうっすら涙で塗れていた。彼女に一体何があったのか、聖では予想もつかない。けれど、自分の前であんな風に笑って欲しくなかった。
聖は自分でも岬に心を許していると思う。今まで自分から家のことや姉のことを話したことなどなかった。だから、彼女にとっても自分がそんな存在であって欲しいと思っている。無理をせず何でも話せる相手に。増して今となっては特別な想いを寄せている女性なのだ。
ずれた毛布を直そうとして聖が手をかけると、岬が着ているブラウスの袖口のボタンが片方だけ外れているのが見えた。かけ忘れかと思ったが、よく見ればその下の腕が赤くなっている。誰かに強く掴まれたような跡だ。
(何があったんだ・・。)
毛布を掛け直し、聖はベッドに座ったまま岬の寝顔を見る。そっと頬に触れて涙の跡を拭った。目を離したらいなくなってしまいそうで、聖はそこから離れることが出来なかった。