第2話 未知に戸惑う 1.銀色
いつもと変わらぬ自分の部屋。だが、いつもこの時間には用意されている筈の夕飯は、部屋の数少ない家具であるちゃぶ台の上には置かれていない。まだ何も用意していないのだ。その理由は、今、岬の目の前にある。
それは小さな子猫だった。真っ白な毛並みに、目の色は右が金色、左は銀色をしている。それ以上のことはまだ分からない。
その猫は、岬が家庭科の授業で作ったクッションの上でなにやら毛並みを整えている。手作りにしては綺麗に作られたもので、猫は岬部屋に入るとすぐにその上へと駆け寄ったのだ。そしてしばらく岬を見ていたが、岬が何もしないと分かると、毛並みを整えてくつろぎ始めたのである。
岬はどうしたらいいか分からず、この行動を見ているしかなかった。
(この子が私のパートナーであることは間違いないんだ。でも、何をどうしたら・・)
その猫を初めて見た時すぐに分かった。それが自分のパートナーであるということを。どうしてとかそんな理屈ではない。そう感じたのだ。そしてその感覚が確信に変わるのはすぐだった。もうすでに、自分の中で当たり前のことになっていた。疑いようの無いとはこの事だ。ただ、その感覚を与えてくれた相手はマイペースに自分の毛を舐めている。
ぼうっと自分のパートナー見つめながら、岬はあることに気付いた。
(この子は私に話しかけてくれたけど、私がこの子に話しかけるにはどうしたらいいんだろう。)
岬はその猫が自分に話しかけてくれた時のことを思い出してみる。頭の中で響くような感覚。だが、今日パートナーである瑠璃というカラスに話しかけていた時の聖は声を出して話しかけていた。
(普通に話しかければ、向こうには聞こえるのかな。)
初めての試みでどこか緊張しながら、岬はじっとパートナーを見つめる。そうして、本当に小さな声を発した。どこか恥ずかしいという思いがあったからかもしれない。
「あ・・・あの・・・・。」
その瞬間、その猫が岬の方を見る。クッションから立ち上がり、岬の方に歩いてきた。その目は何か言いたげに見えるが、何も言葉を返さない。
(やっぱり何か違ったかな・・・・。こんな簡単なことじゃないのかも。)
すると、今まで何も言わなかった子猫が急に鳴き出した。
「えっ、なに?ちょっと・・・。」
岬は狼狽しているが、子猫は構わず鳴き続ける。そのまま岬の横を走り抜けたと思ったら、台所の下の棚を爪でガリガリと引っ掻いた。
「やだっ、何やってんの!」
慌てて岬が止めに入り抱き上げるが、子猫は手の中で暴れたままだ。しかし、今まで動物を飼ったことの無い岬にはどうしていいか分からない。
「あっ、もしかして・・・。」
思わず声を上げて、岬は何とか猫を抱いたまま棚の扉を開ける。そして中を探り鰹節を取り出した。途端、その猫は身をよじって岬の手の中から飛び出し、鰹節に飛びついた。
「なんだ・・・。お腹が減ってたのか。」
だが、これでは普通の猫を飼っているのと同じだ。よく見ると、あったとき銀色に見えた左目は、今は右目と同じ金色になっている。
聖は瑠璃を飼っているのではないと言っていた。それを今の岬では理解することは出来そうにない。この子猫の本当パートナーになるにはどうしたらいいのだろう。
「また、話しかけてくれないかな・・・・・。」
そう言いながら、岬は自分のパートナーをただ眺めるしかなかった。自分の夕食のことも忘れたまま。
朝。岬はいつものように目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。いつも同じ時間に目が覚めるので目覚ましをかける必要は無いのだが、必ずその時間に目が覚めるとは限らないのでどうしてもかけてしまうのだ。
寝ぼけ眼で布団から起きると洗面所で顔を洗う。一回欠伸をしてからテキパキと布団をたたみ、カーテンと窓を開けた。窓からは少し冷たい空気が流れ込んでくる。
「ん―――っ。」
両腕を上に上げて、背を反らして体を伸ばす。
「ニャーッ」
「へっ・・・・。」
岬がたたんだ布団を振り返ると、布団が何やらもぞもぞ動いている。その時やっと岬は猫が同居していることを思い出した。
「あっ、ごめん!」
急いで布団を広げると、そこから子猫が飛び出した。猫はそのまま勢い余って岬の足に体当たりしてしまう。
「痛っ」
『イタッ』
しばらくの間岬の中に沈黙が流れる。今、自分と同時に痛いと言ったのは・・・・。
「まさか、君・・・?」
岬は、小さなパートナーを見下ろした。
『ミサ・・・キ。』
どうしてだろう。その時、急に岬の目からは涙が溢れそうになっていた。安堵感が急速に岬の胸の中に広がっていく。この小さな声が、こんなにも自分を安心させてくれることに、言い知れぬ思いを感じていた。
一粒の涙が、岬の頬を伝ってパートナーの上にこぼれ落ちる。その猫は不思議そうに、岬を見上げている。自分の手の上に落ちた涙を舐めた。その味に、一体何を思うのだろう。
『ミ・・・・サキ・・?』
その声を聞いたとき、何だか左目がうずくのに気付いた。なんだろうと洗面所に行き、鏡を見る。
そこに映っていたのは、今までと変わらぬ自分の顔の筈だった。だが、すぐに岬はその変化に気付く。鏡に映る自分の左目は、右目の色とは明らかに違う。
銀。一見灰色にも見える涙に濡れたその左目は、よく見ればそれは確かに銀色だった。そしてこの色は、出会った時のあの猫の左目と同じ色だ。
驚いて声も出ない岬は、急いでパートナーの下へ行く。そこで岬を迎えた猫の左目は、またもや銀色に変わっていた。
「すごい・・・。橘君と瑠璃って子と一緒だ。」
岬は、言うと同時に昨日の橘達の変化した左目を思い出していた。全く同じ色の左目を持つ二人。
「でも、何で急に変わっちゃったんだろう。」
『食べたい・・・。』
「へっ?」
場違いなその猫の要求に、岬は一瞬何を言ってるのか理解できなかった。だが、すぐにそれは餌が欲しいのだと分かる。猫にとってはやはり純粋な欲求の方が優先なのだろう。その声に混乱していた頭の中が、一気に冷める。岬が慌てているのを尻目に、マイペースに普段の生活をしているパートナーを見て橘の言葉を思い出した。
〝別に、しなくちゃいけないことなんて何も無い。″
本当にそうなのかもしれない。子猫の餌になりそうなものを探しながら、岬はそう思っていた。だが、岬はまだ気付いていない。その左目が、銀色のままだということに。
* * *
朝の学校は騒がしい。大勢の生徒達が、同じ時間帯に学校に流れ込み、それぞれがお互いに朝の挨拶を交わすので 昇降口の辺りや教室などは挨拶の合唱が所々で聞こえる。廊下も生徒だらけで騒がしさは中々静まらない。
東川朋恵も教室に入り、クラスメートと挨拶を交わしていた。だが、いつも一緒に登校している親友、葉陰岬の姿は隣には無い。
「あれー、岬は?」
「分かんない。待ち合わせの時間に来なかったから先に来たんだけど。岬が今まで時間に遅刻したことなんてなかったから、今日学校休むのかも。」
「携帯・・あっ、そっか。岬、携帯持ってないんだっけ。」
「うん。だから分かんないんだよね。後で家の方に電話してみる。」
岬は一人暮らしで節約の為に携帯は持っていない。本当は家の固定電話も必要ないと思っていたのだが、緊急の連絡があるかもしれないからと学校側に言われ、一応固定電話は備え付けてある。
(どうしたんだろ。風邪かな?一人暮らしだし大変なのかも・・・)
ホームルームの時間になり担任の先生が教室に入ってくる。すると、教室の騒がしさも納まり、担任が今日の連絡を始めた。
「あっ、そうだ。今日葉陰は休みだそうだ。今朝連絡があった。宿題とか出たら誰か教えてやれよー。」
「先生。葉陰さんどうかしたんですかー?」
その質問は岡崎だ。
「あぁ。風邪で熱が出たそうだ。そんな酷くはないらしいが。」
(やっぱり風邪なのか。岬は一人暮らしだし。様子見に行った方がいいかな・・。)
朋恵は今日の部活は早退しようと考えていた。実は岬が一人暮らしをしていることは先生達以外は朋恵しか知らない。あまり周りに知られると危ないし、友達が遊びに行きたがったりしたら大変だと思ったからだ。
朋恵は岬が一人でバイトに明け暮れているのも知っていた。あまり、負担はかけるべきではないと岬に言ったのは朋恵だった。
(あの子ちゃんとご飯食べれてるのかしら・・・。無理するタイプだから、なんか心配になってきた。)
こういう時に、岬が携帯を持っていればメールで様子を知ることが出来るのにと、歯がゆく思う。だが、岬の生活が豊かでないことを知っているからそんなことは本人の前では言えない。それでも朋恵の人をほっとけない性格が心配に拍車を書ける。
(本当に、大丈夫かな・・・・。)
朋恵は珍しく先生の話を右から左に流しながら、岬の心配をしていた。
「橘、おはよ。」
「おう。」
聖は教室に入り自分の席に鞄を置いた。だが、席には着かずに窓の方を向き外を見てみる。すると案の定、予想通りのモノがそこにあった。
それは瑠璃だ。今日は必要ないというのに、昨日と同じ桜の木に瑠璃が留まっている。昨日、岬と別れてからずっと彼女のことを気にしていた。それは彼女が瑠璃に多大な影響を与えたからであろうが、とは言え瑠璃は何故ここにいるのだろうか。
聖は他の生徒から見えないよう目を閉じて瑠璃に離しかける。パートナー特有の声帯ではなく思念で発する会話。目を閉じたのはそうすることで集中することができるし、その力を使おうとすれば目が深い青色に変化してしまう為だ。その為、人の居る場所で力を使う時は目を閉じるなど、見られない工夫をしなければならない。
『おい。何やってんだ。』
『ミサキ気になる。会いたい。』
『・・あ、そっ。』
その答えに聖はそっけなく答える。どうやら瑠璃は彼女のことを気に入ってしまったようだ。ここまで人のことを気にする瑠璃を見たのは初めてだった。間違いなく“あの言葉”が瑠璃を変えてしまったのだろう。
(逆に言えば、よほど瑠璃は今まで傷ついていたということか・・・・)
聖は瑠璃に伝わらないように密かに思いながら、相棒ともいえるカラスの境遇を改めて思い知らされた。
目を開けると、そこには閉じる前と同じ黒い瞳の両目が現れる。その瞳に浮かぶのは深い情だ。だが一体それが何の感情か見ただけでは分からない。
(そういえば、葉陰はあれからどうしたかな。)
窓から離れ、隣の4組の教室の前に向かう。ドアから覗くがそこに岬の姿は無い。まだ来ていないのだろうか。だが、もう担任の先生達が教室に来る頃だ。このままだと遅刻だろう。
(遅刻なんてするようなタイプには見えなかったけどな。)
だが、誰だってたまには遅刻ぐらいするだろう。そう思い、聖は自分の教室に戻った。
2時間目の現代社会の授業中、聖は瑠璃から話しかけられた。
『来ない。』
『あっ?何が?』
『ミサキ。』
『・・・・休みなんじゃないのか?』
『ヤスミ?』
『今日は学校に来ないってことだよ。』
『・・・・・・・。家、行く。』
『あっ、おい!』
瑠璃は聖の静止も聞かず、岬の家に向かってしまった。こんな時、動物は本当に素直だと思う。聖も勿論気になっていたが、そんな風にすぐ様子を見に行こうとは思えない。こんな時何のしがらみや立場の無い瑠璃を羨ましくも思う。
(まぁ、瑠璃が様子を見に行ってくれるならいいか。)
社会の先生の授業を聞きもせず、聖は相変わらず退屈そうだった。
* * *
家から出られない。その事に気付いたのは制服に着替えて、まさに出かけようとした時だ。岬はどうしていいか分からず、呆然と立っていることしか出来ないでいた。
パートナーである子猫と話すことが出来た。そこまでは良かったのだが、それと連動して起こる左目の変化が元に戻らないのだ。岬の左目も、猫の左目も銀色のままだった。これでは人前に出ることは出来ない。その内時間が経てば元に戻るのかと思ったが、結局学校が始まる時間になっても戻らなかったので岬は学校に休みの電話を入れた。
(学校休むなんて、小学校以来かも・・・・)
『ショ・・・ガッコ?』
「あっ、ごめん。なんでもない。」
この子猫とは、さっきからこの調子で声に出したことも、思ったことも全て伝わってしまう。そのおかけで岬は驚きっぱなしでびくびくしていた。何を言っても思っても理解は出来ないかもしれないが、だからと言ってその全てに反応されてしまっては困る。
(橘君に助けてもらいたいけど、外に出れないし、連絡も取れないし・・どうしよう。)
昨日が初対面の橘の連絡先を岬が知っているわけもなく、同じ学校の同学年で、3組という事しか知らないのだ。
(このまま元に戻らなかったらどうしよう・・・・。)
もう何度鏡を見ただろうか。それでも戻る気配は一向に無い。何だか頭が重く感じる。もしそうなったら自分はどうするのか。そんな答えの出ない無駄なことをつい考えてしまう。
岬の感情が伝わったようで、子猫は岬の足に擦り寄ってきた。
「気を使ってくれてるの?」
本人の意思はともかく、岬はそれだけで嬉しくなる。今まで動物を飼ったことの無い岬は今更ながら、子猫の仕草の可愛さに心惹かれていた。ついつい構いたくなってしまうのだ。
すると、猫は部屋の中に干してあったタオルが風に揺れているのが気になったのだろう、突然そのタオル向かって飛びついた。そのじゃれている姿に岬は益々かまいたい衝動に拍車をかけられる。ついついそのタオルを手にして、猫の触れるか触れないかぐらいの所で左右にぶらぶらさせると、岬の思惑通り、猫はそれを捕獲しようと飛びついた。結局、タオルを猫じゃらし代わりにして遊んでしまう。
そのまま、十分ほど遊んでいただろうか。岬のお腹から妙な音が部屋の中に鳴り響いた。そこで岬は夕べからこのパートナーに気を取られてマシなものを食べていないことに気がついた。この衝動は止められそうに無い。じゃれるのは一旦中断して、食事作りを始める。ふと、時計を見ればもうお昼に近い。
(そういえばこの子の餌を今日買ってこようと思ってたのに。何も無いなぁ。あっ、このまま外に出れなかったら私の食べるものも無い・・・・・。)
さっきまですっかり自分の置かれている状況を忘れていた岬に再び不安が押し寄せる。このまま、また食事をとるのも忘れてしまいそうだった。
どうにか冷蔵庫の中の物で食事をとり終え、岬が鏡とにらめっこしている頃、瑠璃が岬の家に向かっていた。彼は今学校から岬の家への最短距離を飛んでいる。
こんなに懸命に何かを目指して飛ぶのは久しぶりではなかろうか。パートナーが人だと分かった時から始まった人との共存。その為かいつも間近に死を感じ、生への渇望に向かって飛んでいたのはいつだったか定かではない。
今、空を飛ぶ彼の中にあるのはかつてのそれとは似ても似つかない感情だ。だが、生きる意味を問う上で、全く同じところにあるとも言える。それは生きる意味。自分を、自分の生をより上へと導く存在。それはヒジリであり、今まさに彼が求めているミサキなのである。
乾いた秋の風が、瑠璃を乗せてゆっくりと上昇した。どこかで咲いているキンモクセイの残り香が、風に混じってやがて瑠璃の前から消えていく。
瑠璃の目が目的の四角い建物を捉えた。羽の動きを止めて、羽にいっぱいの風を受けてゆっくり下降していく。どんどんミサキとそのパートナーの存在を強く感じる。
瑠璃はその時何を思ったのだろう。自分が必要としているものに会える喜びか、それとも受け入れてもらえるかの不安か。それが分かるのは、瑠璃とそのパートナーである聖だけだ。