第21話 隣に座る 3.橘聖
エンジンを停止させた車は少し肌寒い。段々と空の明るさの代わりに街灯が道を照らし始め、渚は冷めた缶に残ったブラックコーヒーを飲み干した。ちらりと腕時計に目を落とす。針が示しているのは19時。3時間ほど前から目的の人物が家に帰ってくるのを待っているのだが、まだその姿を見ることは出来ないでいる。
中学生にしては少し遅すぎないだろうか。もしかすると裏口から家の中に入ったのかもしれない。
左手を見る。そこには木造の立派な門構えの家屋があった。家屋と言っても渚が車を留めている正面、入口前の道路からはその建物を見ることは出来ない。見えるのは20メートルほど続く木造の垣根と庭の木々、そして中心に位置する瓦屋根の門。門の横には檜の表札があり、『橘』と書かれている。どこからどう見ても古い歴史を持つ名家、金持ちの家だ。実際、この土地で橘といえば知らないものは居ないほどの有力者。その家に生まれた子供はどんな風に育つのだろうか。
渚は手元の資料に目を落とした。薄暗い車内の中では読み辛いが明かりを点けるわけにはいかないのが辛いところだ。
そこには現在の橘家について渚が調べ上げた情報が書かれている。家のこと、土地のこと、家族構成とそれぞれの職業、そして飼っているペットまで。渚は助手席に置いていた茶封筒から数枚の写真を取り出す。それらは全て家族写真だった。中心に父親と母親。そして左から長男、次男、長女、そして三男。時にはお客さんや親戚の人達も一緒に写っている。だがどの写真も撮った場所は違えど、彼らの立ち位置は同じだった。親がきっちりとしているのか、ただ細かい性格なのか。どれも同じというのは逆に違和感がある。
渚の目的は右端に写る三男だ。どの写真を見ても笑っていないその顔は兄弟に似て整っており、綺麗な黒髪をしていた。だが、どこか子供らしさが感じられない。
足音が耳に届く。同時に渚は顔を上げた。
奥の道から段々と街灯に近づいてくるその影は、静かに橘家の玄関に入って行った。短い間だったが間違いない。橘家の三男、橘聖だ。
渚は覚えのある心の動きを感じていた。喜びと不安の入り混じる感情がゆっくりと広がっていく。そしてそれは渚のパートナーにも伝わり、その感情が2倍に増えた。
渚は静かにエンジンをかけ、その日は屋敷から離れた。
* * *
少年が顔を上げる。渚を見る彼の目は睨むような鋭さがあった。いや、睨むというよりは見極めようとしているのか。
「よう。」
渚は軽く笑顔で彼、橘聖に声をかけ、ゆっくりと彼の座っているベンチに歩いていった。歩く度に紅葉し、地面に散った渇いた葉が踏みしめられて軽い音を立てる。
今二人がいる公園には他に誰もいない。それもそうだろう。時間はもう夜の20時。秋が終わりつつあり、冬の近づくこの時期の時間に公園をうろうろする者なんて居る筈もない。ならば中学校の学ランを着たままの聖は一体ここで何をしているのか。答えは聞くまでもなく分かっていた。
聖の座っている位置の少し右。ベンチの背もたれに留まるその黒い姿は、渚が近づいても逃げる様子は無い。
「なんか用?」
聖から発せられた一言で渚は立ち止まった。近づく自分を止める為に声をかけたと分かったから。上着のポケットに両手を突っ込み、彼のピリピリした雰囲気も気にせずにこやかに言った。
「用はあるよ。君と、その隣の彼にね。」
すると聖の表情が急に崩れる。そこから読み取れるのは困惑。恐らく目の前の男が“知っている”とは思っていなかったに違いない。その表情を見せたことで渚も確信を持つことが出来た。
彼はもう覚醒している。覚醒し、なおかつ一人でこの現実を受け止めているのだ。
聖の隣、渚が彼と呼んだカラスは身動き一つせずじっとこちらを見ていた。薄暗い公園で微動だにしないその姿はまるで置物のようにも見える。
「何言ってんだ、あんた。」
迷った結果、聖が選んだのは敵意だった。中学生とは思えないその暗い感情に、渚は一瞬家に残している愛しい二人を思い出した。少し、似ている。
自分達はやはり其れゆえの苦しみを抱えてしまうものなのだろうか。しかし、渚の調べでは彼は覚醒してまだ一年にも満たない筈。ならば彼のこの暗さは一体どこから?その時思い当たる事があって、渚は悲しい過去の片鱗を思い浮かべた。
(そうか。この子は彼女の弟だったんだ・・。)
渚は一歩近づく。同時に聖は少し表情を険しくした。
「俺にもいるんだ。君にとっての彼のような存在が。」
また少し動揺を見せる。そしてちらりと隣のカラスを見た。渚の前で力を見せる気はないのか、それをしようとはしない。
「・・・・。」
「彼の名前を聞いていい?」
「・・・・。」
「あ、ごめん。女の子だった?」
渚の言葉に、聖は初めて気の抜けた表情を見せる。下を向き、右手でゆっくりと髪を掻き上げた。その動作で、聖が自分に対する態度に迷っていることが分かる。渚は更に言葉を重ねた。
「君が彼と意志が通じるようになったのはいつ?結構最近なんじゃない?」
顔を上げた聖は、なんで知っている?と目で訴える。渚はまた一歩、脚を前に出した。
「俺も君のように心の通じる相手がいるんだ。」
口元に笑みを浮かべる。渚は誇りを持ってその言葉を彼に聞かせた。そして体の中心に、パートナーの心の膨らみを感じる。渚のパートナーが心の反応を見せたのだ。渚は少しずつ胸の中心が暖かくなっていくのを感じながら聖の目を見た。
「俺、俺達はそういう相手の事をパートナーって呼んでるけど。」
そして渚はパートナーに呼びかけた。すると体の中に温かいものが広がり、左目にほんの少し動きを感じる。
あぁ、繋がった。
それは、聖の驚きの表情からも確認することが出来た。
「アンタ・・・。」
「言ったろ?同じだって。」
その時、初めて隣の彼が動きを見せた。身じろぎし、小さな鳴き声を上げたのだ。
「・・・・。」
「彼、なんだって?」
鳴き声に応えるように聖がカラスを見て口を開きかけたので、何かを伝えられたのだと分かった。だから訊いてみた。正直、興味もあった。
「あんたのこと、仲間だって。」
「そう。君は、それを聞いてどう思った?橘聖君。」
彼は再び表情を険しくした。自分が彼の名前を知っていたことに関してだろう。
「俺の名前・・」
「調べたんだ。」
「なんで。」
「うーん、確かに君に声をかけるだけなら、調べる必要は無かったんだけど。まぁ、職業病みたいなもんだから許してよ。」
渚は悪びれもせず、睨んでくる聖に対して両手を上げて降参のポーズを取る。
「職業病?」
「そ。俺探偵なんだ。」
今度は聖が呆れ顔になった。明らかに渚に対する評価は下がったに違いない。胡散臭い、とその顔は語っていた。
「信用できない?」
「出来ない。大体あんたまだ二十歳そこそこじゃねぇのか?」
「歳は関係ないでしょ。」
渚は公園中心にある街頭に照らされた時計を見上げる。もうすぐ21時になろうとしているところだった。
「それより、もう遅いから家に帰った方がいい。家の人も心配するよ。」
「・・・・。」
聖はそれには答えず下を向く。その理由は分かっていたが言及はしなかった。この年頃なら、慰められても諌められても納得は出来ないだろう。それは自分にも覚えのある感覚だ。
「まだ俺に聞きたいことあるだろ?俺も話したいことあるし、明日の17時に駅前で待ってるよ。」
聖が顔を上げる。そこで渚は軽く手を挙げ、二人に「じゃあね」と言って公園を後にした。
翌日。渚は聖に全てを話した。パートナーの事、そして仲間の事。その時の聖はシン=ルウォンに興味を持っているようだった。彼に会ってみたいと言ったのだ。聖の姉の事を考えれば当然だと思う。けれど、渚は「慌てなくてもその内会えるよ」と言っただけで、二人が会う算段をつけることはしなかった。
それから一週間後、聖は実家を出て瑠璃と共に東京に来た。すぐに渚に連絡を取り、ホームで下宿する事となった。理由を訊いても「追い出された」と言うだけ。それも事実なのだろうが、今まで溜め込んできたものもあるのだろう。
渚は橘の家の事は閃から聞いていたのである程度は知っている。まさか彼女の弟も仲間だとは思わなかった。
辛い思いを抱えてきた少年。大切な姉を失った弟。少しでもパートナーが、そして仲間達が彼の支えになれれば良い。そしていつか、彼の心からの笑顔を見ることが出来たなら。そう願わずにはいられなかった。