第21話 隣に座る 2.選択
夕飯が終わり、お風呂から上がった岬は部屋に戻った。帰ってからずっと離れようとしなかった雪も今はベッドの上で丸くなっている。その姿を眺めながら濡れた髪を拭いていると、部屋のドアが丁寧にノックされた。
「はい。」
「僕です。開けるよ。」
顔を出したのは渚だった。
「あ、お風呂上がりだったんだ。」
「はい。」
「髪を乾かしてからで良いから、ちょっと時間あるかな。」
「はい。大丈夫ですよ。」
「うん。じゃあ、用意できたら事務所に来てくれる?」
「あ、‥はい。分かりました。」
岬が頷くと、「じゃあ、後でね」と言って渚はドアを閉めた。
ホームの一階の半分は渚の探偵事務所になっている。仕事場なのでほとんど岬が入る機会はないし、今までそこに来て欲しいなんて言われたことなどない。
何故わざわざ事務所へ降りるのか。疑問に思いつつも髪をドライヤーで乾かし、岬は階段を降りた。
「失礼します。」
一声かけて事務所のドアを開ける。すると来客用のソファに渚が座っていた。彼に手招きされて岬も向かいの席に腰を下ろす。クーラーが効いているせいか、黒の革張りのソファは少し冷たく感じた。木製のローテーブルの上にはガラス製の灰皿が置いてある。二階のリビングにはないそれを見て、改めてここが仕事場なんだと思った。
「ごめんね。合宿帰りで疲れてるのに。」
「いえ。大丈夫ですよ。所で、お話って言うのは・・」
「あ、うん。」
渚の手元には数枚の書類がある。一度それに目を落としてから、渚は口を開いた。その顔にいつもの笑顔はない。
「昨日、事務所に来客があったんだ。まだ社会人一年目の若い男性でね。人を捜して欲しいって言う依頼だった。」
またクリスマスの時のように、人捜しを手伝って欲しいという話だろうか。
「山科さんって人なんだけど。」
そこで、渚は岬の表情を確認するように目線を飛ばす。だが、彼女に変わった様子はない。岬はただ黙って話を聞いている。
そこで渚は書類の中から一枚を抜いて目の前に置いた。岬はそれを手にとって上から眺める。すると、すぐにその顔色が変わった。書類を持つ手に力が入り、困惑した表情で渚の顔を見る。渚は一度頷くと話を続けた。
「依頼人は山科峡さん。23歳。旅行会社に勤めるサラリーマン。彼は9歳まで東京にある孤児院で暮らしていた。それから京都に住む今の両親に引き取られている。」
岬はもう書類を見ていなかった。縋るような目でただ渚を見つめている。
「旧姓は葉陰峡。捜しているのは孤児院で離ればなれになった妹。葉陰岬。」
びくっと岬の肩が震える。岬は視線を膝の上に落とした。
「岬ちゃんのことで、間違いないね?」
気遣うように優しく問いかける渚の声に、岬は静かに頷いた。
ずっと待っていた。兄が自分を迎えに来てくれるのを、一人でずっと待っていた。かつてロングヘアだったその髪も、兄に見つけてもらう為に伸ばしていたのだ。でも、今は――
「岬ちゃん。」
渚の声に、そっと岬は顔を上げた。同時に短くなった髪が揺れる。
「僕は、まだこの依頼を受けた訳じゃないんだ。」
「え?」
「当然、この依頼を受ければ事実関係の裏を取って、山科さんに報告することになる。岬ちゃんが今ここに住んでいることも。」
「・・はい。」
「でも、もしそれが嫌ならこの依頼を断っても良い。山科さんは他の所で同じ依頼を頼むかもしれないけど、少なくとも岬ちゃんの心の整理が出来るまでの時間稼ぎにはなると思う。」
「渚さん‥。」
依頼人が来た時、渚はそこまで自分のことを考えていてくれたのだ。渚の優しさに触れて、岬は少し心の落ち着きを取り戻した。
「山科さんは今も京都に住んでいるんだけど、丁度今週から二週間東京に出張に来ているんだ。依頼を受けるかどうかは明後日までには返事をすることになってる。それまで、少し考えてみて。」
「はい・・。」
頷くと、渚に促され二人で事務所を出た。自室に戻ってすっかり寝入ってしまっている雪の寝顔を見ながら、その日岬は眠れぬ夜を過ごした。
* * *
翌日。昼食を済ませると、岬は一人で電車に乗っていた。予定があるわけではなかったが、ホームにいるのも落ち着かなくてフラッと出てきてしまったのだ。頭の中は昨夜渚から聞いた兄のことで一杯だった。
岬の兄は峡と言って、よく自分は彼の後ろをくっついて歩いていた。歳は離れていたが、岬のことをよく面倒見てくれて、兄さえ居てくれれば孤児院でも寂しくなんてなかった。孤児院に預けられた時、岬はまだ赤ん坊だったが、兄は7歳。きっと親のことも覚えていただろう。今思えば、一人で辛い思いを沢山したに違いない。
気がつけば、岬は自分がかつていた孤児院の前に来ていた。古びたコンクリートの壁。小さな庭には花壇があって、そこには数本のひまわりが咲いている。壁際には朝顔の鉢植えもあった。今は庭に誰もいない。建物の中を見ると、そこには忙しそうに右往左往している大人の姿が見えた。何も考えずに眺めていると、水色のエプロンをした女性と目が合う。岬は我に返り、慌ててその場から離れた。
孤児院には錆びたブランコがあって、いつも子供達で取り合いになっていた。順番を待ちきれず岬がぐずりだしてしまうと、なだめるように兄が自分の頭を撫でてくれた。岬に折り紙を教えてくれたのも、一緒に砂場で遊んでくれたのも、先生達ではなくて兄だった。もっと同い年の子達と遊びたかった筈なのに、いつもべったりな岬に嫌な顔一つせずに一緒に居てくれた。
兄との記憶を一つ思い出す度会いたい気持ちが募る。けれど怖い。今兄に会って、自分はどんな顔をしたら良いのだろう。岬は兄を待つを諦め、仲間達と共に過ごしている。けれど兄は別れた妹を忘れてはおらず、ここまで探しに来てくれた。自分は忘れようとしていたのに、それなのに兄を兄と慕う事は許されるのだろうか。
岬はホームの近所にある公園に足を向けた。イーグルと散歩をする時に来る場所だ。敷地の広い公園で、芝のある広場もある。そこを横切ると家族連れが沢山いた。犬と遊んだり、親子でキャッチボールやバトミントンをしている人もいる。その姿を見ていると岬の胸が痛んだ。
兄には今新しい家族が居る。渚の話では彼は里親に申し訳なくてずっと孤児院の事を聞けなかったのだという。きっと妹を捜していることも両親には秘密なのだろう。自分の存在は新しい家族にとってきっと邪魔になる。ならば会わない方がいいに決まってる。
あれほど会いたいと思っていたのに?孤児院で里親の希望を断り続け、迎えに来て欲しいと願い続けていたのに?
どうして今なのだろう。兄を待っていたあの頃だったら、きっと素直に会うことが出来た。けれど今の自分は待つ事を止めたのだ。過去ではなく、今を見ることを決意して。
岬は広場から離れた人気のないベンチに腰を下ろした。日の当たらない場所だが、静かで冷たい空気が心地良い。時刻はすでに夕方。けれど空はまだまだ明るくて昼間のようだった。
目を閉じて兄のことを思い浮かべる。どうして今自分のことを捜しているのだろう。兄のことは正直気になる。もし渚にYESと答えれば、兄が東京にいる一週間の間に確実に彼と顔を合わせることになる。自分にその勇気が出せるだろうか。
近くで何かが動く気配を感じて、岬は目を開いた。ふと横を見ると、岬が座っているベンチの背もたれに黒いものが留まっている。他の誰でもない。瑠璃だった。
「瑠璃・・。」
周りに人が居ないことを確認して、そっと声をかける。すると瑠璃が岬の方に顔を向けた。じっと見つめられるが、居心地は悪くない。
「瑠璃も散歩中?」
空が明るい時間にこんな風に声をかけるのは久しぶりだった。しばらく瑠璃と並んでベンチに座っていると、広場に続く小道の方から人影が見えた。瑠璃から目線を外し、そちらを伺う。現れたのは聖だった。
「・・・橘くん・・。」
岬が驚き見上げると、ベンチの前に立って聖がボソリと呟いた。
「・・アンタか。」
「え?」
「いや、瑠璃がここに来いって言うから。」
「瑠璃が?」
隣の瑠璃を見る。瑠璃は岬のパートナーじゃない。言葉も分からなければ、当然岬の心の内など知る筈もない。それでも、何かを感じ取ってくれたのだろうか。
「何かあったのか?」
聖は岬の隣に腰を下ろしながらそう問いかけた。岬は話すべきがどうか逡巡する。聖には以前兄の話をしたことがある。それに今は誰かに話を聞いて欲しかった。
岬は昨夜渚から聞いた話を全て聖に話した。聖は最後まで黙って話を聞いてくれた。
「・・正直、会うべきかどうか迷ってる。」
その言葉に、聖は岬の顔を見て口を開く。
「『べき』って何?」
「え?」
言葉の意味が分からず聖を見返すと、彼ははっきりとした口調で続けた。
「そうするべきってのは相手の事情とか世間体とか気にしてるから出る言葉だろ。そうじゃなくて、アンタ自身はどうなんだ?会いたいのか?」
「・・・。私、は・・。」
昨夜から何度となく自分に問いかけた疑問が蘇る。自分はずっと待っていたのだ。会いたい。顔が見たい。声が聞きたい。けれど、
「怖い・・。」
岬の掠れた声に、聖の表情が曇る。
「会いたいけど、会ってどうすればいいのか分からない・・。」
膝の上で組まれていた両手がぎゅっと握られる。
何かが変わってしまう瞬間は誰だって怖い。何が起こるのか、何を言われるのか、相手にどんな顔をされるのか。きっと相手の反応が岬は一番怖いのだろう。
「会ってどうするかなんて、会ってから考えろ。」
冷酷とも取れる聖の言葉に、岬は顔を上げる。
「どっちみち、会ってみなきゃどうなるかなんて誰にも分からない。」
「・・・うん。」
突き放すような言葉。冷静な口調。けれど、冷たいとは思わない。むしろ岬には励ましの言葉に聞こえた。
自分に足りないのは勇気だ。未知に踏み出す為の。相手のことを受け入れる為の。そして自分を変える為の。聖の言葉はその勇気を与えてくれた。
その日初めての笑みが岬の表情に現れる。
「ありがとう。橘くん。」
そっと頷く聖の横で、岬は「瑠璃もね」とずっと傍に居てくれた仲間に声をかけた。
ベンチから立ち上がると同時に携帯が振動して岬は薄手のパーカーのポケットに手を入れた。公園の出口への道を歩きながらそれを開く。画面にはメール受信が通知されている。宛名を見ると桐生からだった。
「あ、桐生くん・・。」
思わず声に出してしまうと、隣を歩いていた聖が反応した。
「・・桐生が、何?」
「え?」
開いたメールには合宿お疲れ様、という言葉と昨日話していたお祭りの事が書かれている。
「あ、土曜日のお祭りのことみたい。」
「祭り?」
「うん。一緒に行こうって昨日話してて・・。」
するとわずかに聖の眉間に皺が寄る。
(・・桐生くんと、仲悪いんだっけ?)
思ったが口に出来ずにいると、聖がポツリと言った。
「・・二人で?」
「え?どうだろう。なにも言ってなかったけど。」
そう言えば、他に誰が来ると言う話はしなかった。その説明に聖は「ふーん」と言っただけだ。
(聖くんも行きたいのかな。どうしよう。誘ってみる?)
けれど桐生と仲が悪かったら誘っても来ないかもしれない。あれこれ悩んでいる内にホームに着いてしまい、結局それ以上お祭りの話は出来なかった。
その日夜。夕食の片づけを手伝いながら、岬は隣で食器を片づけている渚に声をかけた。
「渚さん。」
「ん?」
「昨日の話なんですけど。」
渚は一瞬手を止めてリビング振り返る。そこでは大と夕が聖と遊んでいた。少し声を落として渚は岬を見返す。
「それで?」
「私・・、会いたいです。」
「本当に、いいの?」
「はい。」
岬の表情にはまだ少し不安の色が見える。けれど、その声ははっきりと彼女の意志を伝えていた。
「分かった。思ったより結論出すのが早かったね。」
「あ、橘くんが相談にのってくれたので。」
「へぇ・・。聖くんが。」
渚はちらりとソファに座る聖の横顔を見た。無愛想なその表情を見て、思わず笑ってしまう。
「渚さん?」
「あぁ。ごめん。ちょっと意外だったから。」
「?」
渚の言葉を不思議に思いつつも、岬はそれ以上何も訊かなかった。渚の表情はなんだか楽しそうだし、多分それほど悪い意味ではないのだろう。一方、食後のお茶を煎れている岬を横目に、渚はにやりと笑った。
(あの聖くんがねぇ・・・。)
自分と出会ったばかりの聖は、誰も自分に近寄らせないような雰囲気があった。渚を仲間だと知った後も、あまり自分の話をするような子供ではなかったし、自分から他人の話に耳を傾けたりもしなかった。そのスタンスは今もそれ程変わっていないように見える。
(そういえば、岬ちゃんが合宿に行ってる間もなんか落ち着かなかったよねぇ・・・)
心ここにあらず、と言った感じでぼーっとしていることが多かった。大が「聖が遊んでくれない」と自分に言いに来た程だ。
(これは何やら面白いことになりそうな予感。)
ふっふっふっ、と心の中だけで気持ち悪い笑いを浮かべながら、渚はいつ梓達にこの事を話そうか一人画策するのだった。