第19話 愛しさに迷う 1.夏休み
梅雨が終われば夏の空気に変わるのはあっという間だ。真っ青な空には白い太陽の光が照りつける。強くなる日差しと上昇する気温。季節の移り変わりを感じると、岬はいつも時間が過ぎていく速さに戸惑う。
七月に入り、岬達は期末試験の勉強に追われていた。それが終われば夏休みだが、そんな暢気なことも言っていられない。目の前の試験を乗り越える事でしばらく頭の中は一杯だ。
今日も岬は学校から帰ると早々に試験勉強を始める。英語に手をつけようと思ってノートを開いた。だが、何度見ても丸々一日分ノートが抜けている。
(え・・。何で・・)
思い返してみれば、考え事をしていて全然授業を聞いていない日があった。けれど試験日は三日後に迫っている。岬は慌てて部屋を出ると、向かいのドアをノックした。
「はい。」
聖の返事が聞こえて岬はそっとドアを開ける。聖は勉強机の椅子に座り雑誌を読んでいた。
「邪魔してごめんね。あの、英語のノート貸して貰えないかな。」
「あぁ。」
聖はバッグの中を覗きこんでノートを出した。それを受け取ると、何気なく岬は聖の机の上を見る。けれどどこにも勉強道具は見当たらない。
「橘君は、試験勉強しないの?」
「・・・・。いつだっけ?」
「え!!中間テストまで後三日だよ!」
「あぁ・・。そうか。」
唖然と見つめる岬の前でめんどくさそうに聖はノートを広げ始めた。その余裕な態度に驚かされるが、岬にも時間はない。「ノートすぐ返すね」と言って部屋を出ようとすると、聖から名前を呼ばれた。
「葉陰、待った。」
「へ?」
「俺もそっちに行く。・・日本史のノート貸して。」
先月まで聖はほとんど日本史の授業をサボっていた。そのことは当然岬も承知しているので、笑って共に自室に戻る。日本史のノートとプリントを手渡すと、岬の部屋にいた雪が聖に飛びついた。
「あ、ちょっと雪!」
聖はノートを持ったまま片手で器用に雪を抱き上げる。すると、嬉しそうに雪が額をその肩に摺り寄せた。
「橘君。もし一緒に部屋に戻るんだったら気をつけてね。雪、勉強してるとノートの上に座ったりして邪魔してくるから。」
「分かった。」
目を細めて聖が笑う。聖は雪を抱いたまま部屋を出て行った。
ドアが閉まると、岬は無意識に止めていた息を吐き出した。聖が見せた笑顔に思わず呼吸を止めて見入ってしまったのだ。
最近聖は笑顔が増えた、と思う。以前のように口元だけで笑うのではなく、今みたいに目も頬も緩め、顔全体で微笑んでいる。そんな表情に見慣れていないせいか、ついつい見入ってしまうのだ。
岬と聖はもう付き合うフリは止めている。けれど、時間が合えば登下校を共にしていた。嘘のない自然な距離。だから変に力を入れずに一緒にいられるのかもしれない。
「私も勉強しなくちゃ。」
岬は椅子に座って英語のノートを開くと、なんとか授業内容を思い出しながらペンを進めた。
試験一日目。なんとか試験を終えて、岬は朋恵と共に帰路についていた。話題はやはり試験の事。自信のない問題について、二人で答え合わせをしながら歩く。
「そう言えば、化学は大丈夫だったの?」
「うん。今回は大丈夫そう。」
「へぇ。岬って化学苦手じゃなかったっけ?」
「実は、分からなかった所は橘君に教えて貰ったんだ。」
「そっか。」
穏やかな表情で岬が聖の事を話してくれたので、朋恵も笑顔でそれに応えた。二人が別れたのはつい先月の事だったが、最近二人の間の空気は以前よりも柔らかなものになっている。付き合っていた時よりも今の方がいい感じに見えるなんて可笑しな話だが、実際朋恵から見てもそうだった。二人の間には他人には入る事の出来ない何かがある気がする。お陰で二人は復活するんじゃないか、との噂も流れている程だ。
真相は分からないがいつか岬が話してくれる時まで待てばいい。朋恵はいつもの別れ道で岬に手を振り、家に向かって歩いていった。
試験最終日。学校が終わり、岬は朋恵と共に寄り道して帰ろうと駅前のカフェに入った。後はテストの結果が気になる所だが、一先ず試験から開放された気分だ。席に着いてオーダーを終えると、「そういえば、」と朋恵が口を開いた。
「岬って、今年もバイトで忙しい?」
去年はアルバイトを三つ掛け持ちしていて、夏休みのほとんどをバイトして過ごしていた。夏休みは生活費を稼ぐチャンスだったからだ。だがホームに引っ越してからバイトは一つだけに減らした。それは渚からの希望でもあった。
「バイトは減らしたし、去年ほど忙しくはないと思うけど。」
そう答えると、朋恵は少し表情を明るくした。
「そっか。じゃあさ、お願いがあるんだけど。」
「お願い?」
「うん。うちのバレー部7月の20日から2泊3日で合宿があるんだけど、手伝いに来てくれないかな?」
朋恵が所属しているバレーボール部は練習が厳しいことで有名だ。岬も一度は朋恵の試合を見に行きたいと思っていたが、運動部の手伝いとなると経験がない。
「手伝いって何すればいいの?」
「実はね、女子も男子もマネージャー不足なの。去年までは3人いたんだけど、2人は今年の三年生でもう引退しちゃったし。残ってるのは二年生の1人だけなんだよね。今までは一年生も手伝ったりしてなんとかやってたんだけど、流石に合宿は一年生も練習に集中させてあげたいんだ。」
「そっか。マネージャーの手伝いが必要なんだ。」
「そ。大々的に募集すると合宿で遊びたい人とか、男子目当ての女の子とかが集まるからやだっていう意見があってね。うちは顧問も厳しいし、出来れば真面目にやってくれる人にそれぞれ声をかけてみようって事になって。」
朋恵は岬の前で手を合わせた。
「もしバイトが大丈夫だったら、手伝ってくれないかな?」
岬はアルバイトの為に今まで部活には入っていなかった。勿論合宿の経験もない。参加してみたいし、朋恵がバレーボールをしている姿を見たい気持ちもある。
「分かった。じゃあ、バイトのシフト確認してみるね。」
「ホント!助かる。」
2人で夏休みの予定をアレコレ話しながら、ウェイトレスが運んできたケーキに手を伸ばす。夏、というだけで不思議と心が弾んだ。
「合宿?」
箸を持ったまま渚が首を傾げる。ダイニングテーブルには今日の夕飯のおかずが湯気を立てていて、隣で聖がサラダに手を伸ばした。
「はい。20日から2泊3日で、バレーボール部のお手伝いに参加することにしたんです。」
「へぇ~。お手伝いが必要なくらいバレー部の合宿って大変なの?」
「いえ。今年はたまたまみたいなんですけど、マネージャーが一人しかいないそうなんです。それで。」
「そうなんだ。いいなぁ、合宿かぁ。青春だね!」
満面の笑顔で言う渚を見て、岬も思わず笑ってしまう。
「場所は?どこ行くの?」
「毎年山梨にある体育館付きの施設でやってるそうです。」
「じゃあこっちより涼しそうだね。そう言えば、岬ちゃん友達に女子バレー部の子がいるって言ってたもんね。」
「はい。その子から手伝って欲しいって頼まれたんです。合宿は男子バレー部も一緒だから尚更人手がいるみたいで。」
一瞬箸を持つ聖の手が止まる。それに気づいて渚が聖の顔を覗き込んだ。
「聖くん?なんか嫌いなものあった?」
ハンバーグにポテトサラダ。野菜たっぷりのコンソメスープ。今日の夕飯はどれも大と夕の好物で揃えてあるが、聖が苦手な食べ物は見当たらない。
「いや。」
それだけ言うと、聖は再び箸を動かした。
終業式後、岬は女子バレー部の部室に顔を出していた。合宿の打ち合わせの為だ。今日はミーティング後に部員達に紹介してもらう事になっている。
部員達がミーティング中は、マネージャーに合宿中のことを教えてもらうことになった。唯一のマネージャーは岬も初めて見る顔で、ハキハキした同じ二年の野島有希。もう一人のお手伝いは一年生の添田真琴という背の小さな、可愛らしい女子だった。合宿の流れ、マネージャーの仕事を一通り教えてもらう。だが、審判は手伝いの二人には無理なので、それ以外の雑用を中心にやることになった。
部員達のミーティングが終わると、マネージャーも参加して合宿の説明に入る。岬達が部室に顔を出すと、桐生が岬の姿を見つけて言葉を失った。口をポカンと開けたまま、岬の顔を凝視する。
部室ではホワイトボードの前に女バレ・男バレの部長がそれぞれ立って合宿の説明を始める。日程、往復のバス、食事に練習メニューまで。一通り終えると、部長である朋恵がマネージャーを前に呼んだ。
「以前から皆には話をしたと思うけど、今回の合宿ではこちらの二人がお手伝いとして参加してくれることになりました。じゃあ、簡単に自己紹介してもらおっか。」
朋恵に促されて岬と添田が自己紹介して頭を下げる。岬はこちらを眺めている桐生と目が合うと、にこっと笑った。それに気づいた桐生がパッと顔を赤くする。
「桐生ー?聞いてる?」
その様子を見ていた朋恵がからかうように声をかける。
「へ?」
「ちょっと、こっちの話全然聞いてなかったでしょ?」
「いや、聞いてるよ!!」
間抜けな声を上げてしまった桐生に部員達が笑う。いつものやり取りのようで、男バレの部長、高島が「圭吾がバスの出発時間に遅刻しても待ってやらないからな」とヤジを飛ばした。
「えー!!俺どうすんの?走ってバス追いかけんの?」
「いいじゃん。トレーニングになって。」
「ぶちょー!勘弁してー!」
二人の会話に、朋恵も呆れ顔で言葉を投げる。
「その前に遅刻しなきゃいいでしょ。はい。次いくよー。」
脱線した話を戻して最後に顧問の話で締めくくり、その場は解散になった。
ミーティングが終わり部室を出ると、岬は背の高い女子部員に声をかけられた。顎のラインで切りそえられたボブに目元が涼しげで大人びている。先輩かと思ったが、彼女の言葉を聞いてそれは違うと分かった。
「あなたが葉陰さんねー。私、副部長の早川玲。よろしく。」
「あ、はい。よろしくお願いします。」
思わず畏まってしまうと、玲は目を細めて笑った。
「あはははっ。タメなのに硬いなぁ。噂とは違うのね。」
「え?噂?」
「だって有名じゃない。あの橘を落とした女って。」
「・・・・。」
噂になっているとは思っていたが、こうもはっきりと言われると言葉に詰まってしまう。すると、その様子を見かねた朋恵が渋い顔で横から口を挟んだ。
「玲。岬をいじめないでくれる?」
「いじめてるつもりはないんだけど。」
とぼける玲に朋恵は硬い声でそれを諫める。
「嘘つき。」
「あら、バレた?でもやっぱり気になるじゃない?」
「もう。ごめんね、岬。」
朋恵は岬が気を悪くしたんじゃないかと気遣ってくれたが、玲のようにあっけらかんと言われると、不思議なことにそれほど嫌な気もしない。岬は微笑んで首を振った。
「ううん。大丈夫だから。」
「あら、岬ちゃんはやっさしー。朋みたいな堅物にならない様に気をつけてね。」
「余計なお世話よ。」
「ごめんごめん。怒った?」
「いつものことでしょ。」
二人の会話を聞きながら一緒に校門に向かって歩いていると、玲が岬を見下ろした。
「そう言えば、岬ちゃんてさぁ。」
「うん。」
「圭吾とどういう関係?」
「え?圭吾って・・桐生くん?」
唐突に桐生の事を訊かれ、岬は訳が分からず首を傾げる。それを聞いた朋恵が再び鋭い声を出した。
「ちょっと玲!!」
「これもダメなの?まぁ、いいわ。合宿中にゆっくり訊くから。」
「はぁ・・。」
岬が気の抜けた返事をすると、玲は交差点に差し掛かった所で手を振った。
「あ、じゃあ、私こっちだから。じゃあね、二人とも。」
「じゃあね。」
「うん。バイバイ。」
岬も手を振ってそれに応える。玲と別れて二人が大通りに向かって歩き出すと、朋恵が困った顔で笑った。
「なんかごめんね。玲はしっかりしてるし、頼りになるんだけど、言葉に遠慮がないというか・・。」
「ふふふっ。全然気にしてないよ。」
「なら、良かったけど。」
朋恵は岬が聖と偽りのつき合いを止めてからその話題には触れないようにしてくれている。改めてお礼を言うのもおかしいのでそのことについて言及したことはないが感謝していた。出来るだけ朋恵に気を使わせないようにしようと、彼女の隣でひっそり思った