第18話 背中を押す 3.橘ひかり
農村地が広がる一角に大きな屋敷がある。広い庭園を持つ伝統的な日本家屋。けれど少しも古さを感じさせないほど、庭も屋敷も綺麗に手入れされている。屋敷の門には桐の表札がかかっていて、橘の一字が刻まれていた。
ここ一帯は橘家が所有する土地の為周囲にも多くの分家の屋敷がある。橘は地主の家系で、代々の家主が社長も勤めているのは地元に根付いた大きな建築会社だった。会社の幹部も橘の縁者がほとんどを占めている。その為この辺りで暮らす人達は土地や仕事で何かしら橘の家と縁のある者達ばかりだ。故に橘家はこの土地の有力者としてあまりにも有名だった。
橘の現当主には子供が四人居る。長男の要、次男の燕、三男の聖、そして長女のひかりだ。当主でもある父はとても厳格な人物で、決して家名に泥を塗るなと厳しく子供達を躾てきた。特に大学生の要は会社を継ぐ為、その期待に応えようと必死に勉強に明け暮れている。そんな兄の姿を見てきたせいか、同じく大学生のひかりや中学生の燕も優秀な成績を残していた。
子供達には全員自室が与えられていたが、彼らがそれを行き来することはほとんどない。学校から家に帰れば待っているのは家庭教師や習い事の先生。自分の趣味を持つような時間は無かった。だから聖は兄達と遊んだ記憶がない。唯一姉のひかりだけは少しでも時間があれば聖の部屋を訪れて話をしたり、休日には一緒に出かけてくれた。その様子を見て要がよく「女は気楽でいいよな」と呟いているのを聖は知っていた。けれど同時にその言葉が正しくない事も分かっていた。
同じ女でも母親がこんな風に接してくれたことはない。彼女はいつも父親の機嫌を窺っていて、子供達に構っている暇などなさそうだった。地元でも有名な綺麗な人だが、母親と言うより屋敷のお手伝いさんの一人のようだった。だから、聖にとってはひかりが母親代わりでもあったのだ。
家でも学校でも聖は大抵一人。生徒は勿論、教師でさえ自分を地主の子として扱う。仲良くなろうとして話しかけてくる生徒もいたが、どいつもこいつも親に言い含められていることを聖は知っていた。
聖に何の裏もない笑顔を向けてくれるのはひかりだけだ。だからと言って姉は聖を特別扱いしている訳ではない。誰に対してもひかりは優しく穏やかで、いつもにこやかに微笑んでいた。そんなひかりを要は気に入らなかったようだが、兄と父のプレッシャーを受けていた燕にとっても、姉の存在は救いのようだった。
ある日の夜。聖は父親の部屋から言い争う声が聞こえてそちらに足を向けた。すると父の部屋から聞こえてきたのはひかりの声。いつも穏やかな姉が今まで聞いたことがないような大きな声を上げている。何があったのかと思ってその場に立ちすくんでいると要に肩を掴まれた。
「聖。お前ここで何やってるんだ。」
「・・・。声が聞こえたから。」
上から睨まれ、聖はそれに負けぬよう兄を見返す。するとフンッと鼻を鳴らし、要は聖の腕を引っ張った。
「いいから部屋に戻れ。こんな所で立ち聞きしていたのがバレたらお説教じゃ済まないぞ。」
部屋に押し込まれそうになった所で、聖は取っ手を掴み襖が閉まるのを防いだ。
「兄貴は何があったのか知ってるんだろ?」
「お前がひかりの心配か?ガキは暇でいいなぁ。」
「誤魔化すなよ!」
「・・・。」
すると要は真面目な顔になって聖の部屋に入ってきた。面白くなさそうに部屋を一瞥すると、「燕もお前くらい骨があれば良かったのにな」とぼそりと呟いて聖のベッドに座る。
立ったまま、聖は要の顔を見た。
「どこで知り合ったんだか知らないが、最近ひかりが中国人と仲良くしてるんだとよ。」
彼女は大学二年生だ。当然知り合いも増えるだろうし、大学なら留学生がいてもおかしくない。それなのに何故それが問題になるのか聖には分からなかった。
「・・別に学校に外人ぐらいいるだろ。」
「大学の人間じゃないんだよ。どこの誰だか分からないから、あれだけ親父がイカってんだろ。」
友人くらい誰だっていいじゃないか。そう思ったが、どうやらそうもいかないらしい。相手が男である事が父にとっては何より問題だったのだ。
「あいつはこの家の一人娘だ。当然、親父の頭の中では将来それなりの所に嫁ぐ算段になってる。それがどこぞの馬の骨にかっさらわれたんじゃたまんないんだろ。」
「それが恋人とは限らないじゃないか。」
「それを確かめる為に部屋に呼んだんだろ?あの様子じゃ、図星だったんじゃねぇの。」
「・・・・。」
恋人も自由に選べない。どこまで行っても橘の名前に縛られる。うんざりだ。
聖の表情を見て要は溜息をついた。聖が家のことや父親のことを気に入らないのは分かっている。だからと言って何が出来るわけでもない。この家から逃げることなど出来ないのだ。
要とて何もかも父親の言いなりになる事に抵抗が無い訳ではない。だからこそ、今は黙って従っている。いずれ自分はこの家と会社を継ぐ身。遠くない将来、父親の上に立つ日がやってくる。それまでに何も言わせないくらい力をつければ良いのだから。
要は立ち上がると聖を見下ろした。
「お前はこの件に口を出すなよ。いいな。」
聖は黙ってドアの閉まる音を聞いていた。恐らく今日は姉の部屋に行くことは許されないだろう。
(姉さん・・・)
何も出来ない自分が悔しくて、聖は拳を握った。
姉が家を出ていったのはその三日後だった。聖が学校に行っている間に行ってしまったらしい。父や兄達も会社や学校に行っていてその場にはいなかった。母だけが居合わせたのだが、家を出たのは父からの命だったらしく、母が姉を止めることはなかった。
父が出ていくように言った理由は知っている。例の中国人の恋人のことだ。ひかりが黙って居なくなってしまったことは寂しかったが、今頃恋人と一緒に居ると思えばそれはそれで良かったのかもしれないと納得できた。
ひかりが出ていった日の夜。聖は姉の部屋にいた。荷物のほとんどはそのままになっていて、すぐにでも姉が戻ってきそうな気がする。廊下から足音が聞こえてきて聖は自分の部屋に戻った。姉の部屋に入ったことがバレたら色々うるさいに違いない。
部屋に戻って机を見ると、そこに見慣れない本があることに気がついた。分厚い星の図鑑。姉が好きだった本だ。彼女は部屋の窓から星を見るのが好きだった。季節ごとの星座の神話を昔はよく聖に話してくれた。
その本を手に取り、何気なくパラパラと捲る。すると天秤座のページに封筒が挟まっていた。天秤座は聖の星座だ。ひかりからのメッセージかもしれない。そう思って、聖は襖を開けて一度部屋の周りに人がいないことを確認し、封筒を開けた。中に入っていたのはたった一枚の白い便せん。それは姉の字で綴られた手紙だった。黙っていなくなってしまったことへの謝罪。そして、その理由の全てがそこに書かれていた。
その時の聖には信じられなかった。父親にも言えなかった中国人男性のこと。他人とは違う絆で結ばれたパートナーという存在。けれど、どんな理由だとしても聖にとって姉が傍にいないという事実には変わりはない。
どんなに信じられないようなことでも、ひかりが今まで嘘をついたことはない。聖に出来ることは姉の言葉を信じ、彼女の幸せを祈ることだけだった。
そして三年後。ひかりが亡くなったと実家に連絡が入った。連絡してきた相手は例の中国人、シン=ルウォンと彼は名乗った。
葬儀は実家で行うことになり、多くの参列者が集まった。親戚関係は勿論、ひかりには学生時代に多くの友人が居た。けれどそこにシンが現れることはなかった。父がそれを許さなかったのだ。中国人の男と一緒に居る為、娘が家を出たという事実が外に漏れるのを防ぐ為に。どこまでも勝手な父親やり方に聖の怒りが収まることはなかった。
悔しくて悔しくて。葬儀を終えた日の夜、聖は誰もいないひかりの部屋で初めて涙を流した。
姉が亡くなって聖の態度は一変した。ろくに学校へ行かなくなり、喧嘩で警察に補導されることもあった。そんな風に過ごす内に、いつの間にか地元では喧嘩が強いと名前が知られるようになっていた。父親も兄達も聖には関わらないようにしているは分かっていた。でもそれで良かった。誰の顔も見たくなかったから。
瑠璃に出会ったのは中学三年の春のこと。夜、公園のベンチで時間を潰していると一羽のカラスがベンチの背もたれに留まった。人が座っている所にわざわざ留まるなんて珍しい。だが、何をするわけでもなくじっとしている。何故か聖はそのベンチから離れる気にならなくて、しばらく二人で静かな時間を過ごした。
翌日も、その翌日も。そのカラスは聖がいる所に姿を現すようになった。カラスなんて皆真っ黒で個体の区別なんか付く筈がない。それでも聖にはそのカラスのことだけは判別出来た。このカラスだけは特別なんだ。そう気づいた瞬間、聖は覚醒した。
聖はカラスとの絆を混乱することなく受け入れた。何故ならひかりの手紙に同じ事が書いてあったからだ。こういう事だったのか、とあの時は分からなかった手紙の内容を理解することが出来た。
深い海のような青い瞳。聖は彼に瑠璃と名前を付けた。彼は聖が名前を呼ぶと、暖かな感情と共にいつでも傍に居てくれる。何もかもどうでも良くなっていた聖にとって、瑠璃はこの世でたった一つしかない大切な存在になったのだ。