第18話 背中を押す 2.今
放課後の屋上。聖と燕の二人がいる。聖は話があると、その日燕を呼び出していた。
「俺は、家には帰らない。」
それは燕にとっては予想できた言葉なのだろう。特に驚いた様子も見せずに、燕は硬い表情で聖を見返した。
「父さんのことなら俺が説得する。要兄さんも結婚して今は実家に居ないし・・」
「そうじゃない。」
はっきりとした声で聖は燕の言葉を遮った。聖の意図が分からず、燕は眉根を寄せる。
「ここには俺にとって大切な人達が居るんだ。」
「・・大切?葉陰さんとは別れたんじゃないのか?」
一瞬聖の瞳が揺れる。けれど目を逸らす事はしなかった。
「あいつは、・・付き合ってなくたって、俺にとっては大切だ。」
大切。聖の口からそんな言葉を聞くのは初めてだった。いや。果たして自分は今まで聖の話を聞こうとしたことがあっただろうか。あの頃の自分は父親の期待に沿うことばかりで、弟の事などロクに見はしなかった。じゃあ、今は?
「・・・・。」
目の間に立っている聖は、あの頃の弟じゃない。身長は自分と同じくらいまで伸びて、その目には強い意志が感じられる。聖は自分が知らない場所で大切なものを見つけていたのだ。未だ父親から、橘の名前から逃れる事の出来ない自分には羨ましいことだった。
「・・・。お前、今下宿してるんだって?」
それは岬から聞いた情報だった。彼女は自分の知らない聖を知っている。それに嫉妬したのかもしれない。だから、彼女を巻き込んでしまったのだろうか。
「あぁ。」
「なら、挨拶くらいさせろ。」
「・・・兄貴・・。」
その言葉を聖は信じられない思いで聞いていた。兄が分かってくれた。今の自分の言葉を受け入れてくれた。驚きと同時に喜びが湧き上がる。だが、それをなんて表現したら良いのか分からず、言葉にならない。
こんなにも簡単に話がつくとは思っていなかった。聖自身も兄のことを分かっていなかったのだ。どうせ自分のことなど理解してくれないだろうと彼のことを突っぱね、拒絶していたせいで何も見えていなかった。距離を作っていたのは自分の方だった。
「これからもお世話になるんだろう。兄としてそれぐらいさせくれ。」
今まで兄らしい事など何もしてこなかった。罪滅ぼしのつもりは無い。聖が前に進んでいる。ならば自分も進まなくては、情けないだけで終わってしまう。
「でないと、姉さんに申し訳が立たないからな。」
「・・分かった。」
その言葉を聞いて思い出したことがあった。燕にとっても姉は大切な存在であった事。姉が実家を出て行った時、燕はずっと彼女の安否を気遣っていた。
二人は一緒に屋上を後にした。久しぶりに天気の良い今日は、夕暮れの太陽が二人の周りに注いでいる。その空気が温かく感じられるのは夕日に染まった空気のせいかもしれなかった。
校舎内で燕と分かれ、聖は玄関へ向かって階段を降りた。靴箱で靴を履き替え、玄関口を出る。するとその横に立っている人影が見えた。
「葉陰・・。」
驚いて聖の口から思わずその人物の名前が出る。呼ばれた岬は振り向くと聖に向かって微笑んだ。
「終わった?」
「あぁ。」
「そっか。」
岬は聖のことを待っていてくれたのだ。きっと心配してくれていたのだろう。聖は口元を緩めると、岬に言葉をかけた。
「帰ろう。」
「・・うん。」
久しぶりに二人並んで歩く帰り道。聖は二人の間の穏やかな空気を感じると、昨日までの苛々が嘘のようだった。オレンジ色の空に黒い影がしなやかな動きで飛んでいく。それを見上げて、二人は顔を合わせて微笑んだ。
* * *
教育実習期間の最終日。担当していたクラスの生徒達から寄せ書きを受け取ると、帰りのHR後は生徒達から写真をせがまれた。それに笑顔で応じるが、燕は中々生徒達から解放されずに居た。それでも何とか生徒達との別れを済ませ、実習生に与えられた教室へ入る。そこでは女性の実習生が感動のあまりに涙を流していた。その手には小さな花束が握られている。皆でレポートと日報の作成を終わらせ、担当教諭達へ挨拶に行く。勿論これで全てが終わるわけではない。大学でも論文を提出し、その後は教員免許試験も控えている。
一先ず実習を終わらせた実習生達は、記念写真を撮った後に学校を出た。既に時刻は7時を過ぎていて、外は暗い。今日は皆で打ち上げをする約束だった。だが、燕は先に寄りたい所があると皆と別れてタクシーを拾った。聖に教えて貰った住所を伝えて車を走らせる。タクシーを降りるとそこにあったのは二階建ての建物。一階には木登探偵事務所と書かれた看板が設置されている。間違えたのかと思って確認するが、やはり住所は合っていた。一階の事務所は既に明かりが消えていてので、外階段を上がってみる。すると二階には住居用の玄関があって、燕はチャイムを鳴らした。それほど時間を空けずにドアが開く。出迎えてくれたのは聖だった。
「聖・・。」
「上がって。」
「あぁ。」
玄関を入ると、大きなダルメシアンが座っていた。聖がリビングへ向かうとその後についていく。
(随分懐いているんだな・・)
そんなことを思いながら、燕もそれに続いてリビングに入る。すると、夕食の準備中だったようで、美味しそうな匂いが漂ってきた。
「渚。お客さん。」
聖が声をかけると、キッチンから男性が顔を出した。
「いらっしゃいませ~。」
伸ばした髪を茶色に染めた若い男性。どうみてもクラブで遊んでそうな風貌に一瞬燕はたじろぐが、すぐに「お邪魔します」と言って頭を下げた。
聖に案内されてソファに座る。キッチンでは先ほどの男性の隣に若い女性が立っていて、「じゃあ、後は私がやっておきますよ」と声をかけていた。彼女は炊飯器を開けると、手際よくお茶碗にご飯をよそっていく。その横顔を見て燕は唖然とした。
「葉陰さん・・?」
その声を聞いて、岬は照れくさそうに笑って会釈する。
「先生。こんばんは。」
「あぁ。どうも・・。」
すると立っていた聖が「葉陰もここで下宿してるんだ」と説明してくれた。
「そうだったのか。」
燕が彼女を眺めていると、聖が彼女の隣に立って夕食の準備を手伝い始めた。初めて見る光景に燕は言葉を失う。すると先ほどの男性が二人分のお茶を持って、燕の向かいに腰を下ろした。
「はじめまして。ここの家主をしてます、木登渚といいます。」
燕は差し出された名刺を受け取ると、軽く会釈する。
「いつも弟がお世話になっております。橘燕と言います。ご挨拶が遅くなりまして申し訳ございません。」
「いえ、とんでもない。」
キッチンの周りではまだ幼稚園児くらいの子供が二人ははしゃぎまわっている。その前には白い猫がいて、二人でその猫を追い掛け回しているようだった。
「ここは、賑やかですね。」
燕が呟くと、渚は穏やかな表情で笑う。
「えぇ。まだ幼い子供が居ますからね。聖君が面倒見てくれるので助かっています。」
「え?聖が?」
「はい。僕の代わりに保育園へ迎えに行ってくれることもありますし、よく遊び相手もしてくれますよ。」
初めて知る聖の素顔に、燕は目を細める。子供の笑い声がするリビング。温かい食卓。隣で笑ってくれる人。どれもあの家にはなかったものだ。聖が大切な人、と言った言葉が燕にも理解できる。
「もしよろしければ、ご一緒に夕飯食べていきませんか?」
渚の提案に、燕は首を横に振った。
「いえ。これから友人達と打ち上げがあるので、ここで失礼します。」
「あぁ。教育実習でしたっけ?」
「えぇ。」
燕は立ち上がると、渚に向かって深く頭を下げる。もしかしたら、これが初めての兄らしい事なのかもしれない。
「ご迷惑をかけることもあるかと思いますが、弟をよろしくお願いします。」
頭を上げると、渚は「はい」と返事をしてくれた。再度会釈して渚と共に燕はリビングを出る。すると聖と岬が玄関まで見送りに来てくれた。
靴を履き、上着を羽織ると燕は岬に向き直る。
「葉陰さん。こちらの都合でご迷惑をかけてすいませんでした。」
「あ、いえ。先生とお話が出来てよかったです。」
笑って言う岬に、虚を突かれたように燕は目を丸くした。
「葉陰さんは、随分お人よしなんだね。」
「へ?」
「そこは怒り狂ってもいい所だと思うけど。」
「怒り、狂う、ですか・・・。」
岬はその意味がよく分からず首を傾げる。脅しに近いことをして聖との別れを強要した。それに対して彼女は燕を恨んだりしていないようだ。随分と暢気な彼女を見て燕は思わず口元を緩めた。
「聖をよろしくお願いします。」
「あ、いえ。こちらこそ。」
燕に頭を下げられ、岬も慌てて下げる。お互いにお辞儀し合う姿を見て渚が笑った。
「なんか、聖君がお嫁に行くみたいだね。」
その言葉を聞いて、燕と岬が顔を見合わせて笑う。最後に聖を見ると、燕は苦笑した。
「色々悪かったな。」
「別に。」
「家に顔を出さなくてもいいから、姉さんの墓参りくらいは来いよ。」
「あぁ。」
「じゃあな。」
「気をつけて。」
他人から見れば素っ気無い会話だったかもしれないが、二人にはそれで十分だった。燕にはちゃんと聖の今を知っている。それはとても大きな意味を持っていた。
お邪魔しました、と声をかけて燕は玄関のドアを開けた。会釈して玄関を出る。階段を降りると、そこで上を見上げた。二階の窓からは温かな光が漏れている。その光の中に聖がいるのかと思うと羨ましい思いがした。
再度タクシーを拾って乗り込む。行き先を告げると、燕は離れていくホームを見つめた。
今の聖を姉にも見せてやりたい。きっと彼女は喜んでくれるだろう。例え聖にとって大切なものが自分達ではなかったとしても。それに負けぬよう自分も未来を見つけていかなくてはならない。月島高校に来て、そしてここを訪れて本当に良かった。二人の間にどれだけ時間が空いてしまったとしても、手遅れな事などきっと無い。
燕は聖に会って一つの決心をしていた。本当は自分も大学を卒業したら父の会社に入る予定だった。教員免許を取る事も父には反対されていたのだ。けれど、燕はずっと教師になりたいと思っていた。後悔はしたくない。前に進みたい。
燕はホームから目を離し前を向いた。自分だけの道を見つけようと決意して。