第17話 頬を濡らす 2.別れ(1)
「キミ、2年5組だよね?」
授業間の休憩時間中、廊下を歩いていた聖はそう声をかけられた。振り返った表情は不機嫌そのもの。その理由はわざとらしく声をかけてきた相手が燕だと分かっていたからだった。目の前でにこやかに微笑むその表情に、ますます気分が悪くなる。
「次の時間のプリントを持っていってもらいたいんだ。一緒に来てもらってもいいかな?」
「・・・。」
彼が声を掛けてきたのには理由がある筈だ。心底嫌だが、仕方なく黙って燕の後をついていく。周りに生徒達の姿が少なくなった所で聖は口を開いた。
「どうゆうつもりだ。」
「葉陰さんって可愛い子だな。」
「・・は?」
突然出てきた岬の名前に聖は眉根を寄せる。その理由を求めるように燕の顔を見ると、彼は聖の表情を吟味するような目を向けた。
「お前、あの子と付き合ってるんだって?」
「・・・・。」
「お前たちこの学校じゃ有名なんだな。女の子達に聞いたら色々教えてくれたよ。」
「お前には関係ないだろ。」
「関係あったら?」
「・・何?」
聖は周囲も気にせずに燕を睨みつける。だが、燕はそれをあっさりと受け流した。
「もし、お前が実家に帰らない理由に彼女のことがあるなら、と思ってさ。」
「あいつは関係ない。」
思わず声が大きくなる。そんな聖を見た燕の考えは聖の言葉とは違うものだった。
(そんな顔で関係ないなんて言われてもね。)
本人に自覚がないのか。それとも誤魔化しているだけなのか。どちらにせよ聖の表情は無関心とはかけ離れている。彼女に対して何かしら思うところがある証拠だ。
職員室まで来ると燕は聖にプリントを渡した。それを受け取り聖はさっさと出ていってしまう。その後ろ姿を見ながら、燕は何かを考えているようだった。
昼休み。岬は一人で図書室に来ていた。今日は朋恵が部活のミーティングに行ってしまったし、丁度先日借りた本の期限が迫っていたのだ。本を返却し、また何か借りようかと本棚を行き来する。10分ほどブラブラしていると「葉陰さん?」と声がかかった。
見ていた本から顔を上げる。いつの間にか隣には教育実習生の橘燕が立っていた。
「はい。」
「良かった、知ってる子が居て。ちょっと手伝ってもらってもいいかな?」
「いいですよ。」
燕について行った先は図書室の奥にある、貸し出し禁止の書籍のみがおいてある小部屋だった。先に岬を通すと、燕がドアを閉める。
「どの本を運ぶんですか?」
振り返って岬が訊く。同時に燕はそれまで見せていた笑顔を消した。
「先生?」
「ごめんね。お手伝いは口実なんだ。」
「口実、ですか?」
「うん。聖のことで君に話があってね。」
岬は一瞬言葉を失った。彼が言っている聖、というのは橘聖の事だろう。けれど、燕は彼の事を名前で呼び捨てした。二人の関係が分からず、岬は困惑する。
「あの、先生は・・」
「分からない?橘聖の兄です。まぁ、俺と聖はあまり似てないからね。」
「・・お兄さん・・?」
橘なんてよく聞く苗字だ。初めての授業の日、燕の自己紹介を聞いたクラスメイト達だってまさか聖と兄弟だなんて気がつかなかっただろう。初めて聞かされる事実に、失礼とは分かっていても岬は燕の顔じっと見てしまう。だが燕は気にせず先を続けた。
「そう。あいつが実家を出ているのは知ってる?」
「はい。」
「実家のことは聞いてるかな?」
聖からホームで暮らしている理由について聞いたことはない。気になったこともあったが、わざわざ聞くことではないと思っていた。それが、こんな形で知ることになるなんて。
「・・いえ。聞いたことないです。」
「まぁ、そうだろうね。俺達の実家は高松なんだ。家は代々続く地主でね。まぁ、地元じゃ有名な有力者だよ。」
「高松・・・、四国のですか?」
「そう。単刀直入に言うと、俺はあいつを実家に連れて帰りたいんだ。」
そう言うと燕は授業中に見せるのと同じ笑顔を見せた。けれど、逆にその笑みが逆らうことを許さない絶対的な意志を感じさせる。
「聖は中学の時に家を飛び出したっきりでね。やっとここにいるのが分かったんだ。」
「・・どうして私にその話を?」
「聖が君と付き合ってるって生徒達に聞いたよ。もしあいつが君を気遣って帰って来れないのなら、と思って。」
燕の意図が分からず岬は燕を見返す。それが分かったのか、燕は微笑んで口を開いた。
「つまり、あいつと別れて欲しいんだ。」
「・・・。」
聖とは付き合っているフリをしているだけだ。自分のことが理由で聖が躊躇することはあり得ない。それよりも気になった事があって、岬は燕を見た。
「あの・・。」
「ん?」
燕の鋭い視線が向けられる。萎縮しそうになりながらも、岬は握った手に力をこめて声を絞り出した。
「・・なんで、橘くんは家を出たんですか?」
そこで初めて燕が岬から視線を外した。その目が、遠くを見るように細められる。
「・・俺の上にも兄が一人いてね、父も兄もエリート思考なんだ。中学の時、素行の悪かった聖を父はどうにか従わせようとした。家名に泥を塗るような真似はするな、ってね。」
燕が笑みを漏らす。だがそれは先程までの余裕あるものとは違う、どこか嘲るような笑みだった。
「けどそれも上手くはいかなくて、父が聖と縁を切ると言ったんだ。そのまま聖は家を出た。」
その言葉に岬は息を飲んだ。燕の言葉が本当なら、父親の意志もあって聖は家を出たことになる。聖単独の意志でないなら、聖だけを説得しても問題は解決しない筈だ。
「ちょっと待って下さい!それじゃあ、橘くんが家に戻っても同じ事の繰り返しになるだけじゃないんですか?」
「それでも、俺たちは家族なんだ。君だって分かるだろう。家族なら一緒に居るべきなんだよ。」
燕の言葉に岬は唇を噛んだ。再び手に力が入る。家族、という言葉は到底岬には理解しえないものだ。
下を向いて出した声は力無く掠れていた。
「・・・・。分かりません。」
「何?」
「私には家族がいないので分かりません。」
「・・・君・・」
燕の顔がほんの一瞬強ばる。岬は顔を上げた。
「私と別れることが橘くんの為になるなら、いつだって別れます。でも、先生のお話を聞く限りでは、賛成は出来ません。」
「・・・・。」
「失礼します。」
燕の横を通りドアを開ける。けれど燕は止めなかった。そのまま真っ直ぐに図書室を出ると、逃げるように岬は早足に教室へ戻った。
英語の授業中。岬はぼーっと真っ白なノートを眺めていた。担当教師が持ってきたCDプレイヤーからは英文が流れている。リスニングの時間だったが、岬の耳には届いていなかった。
(思わずあんなこと言っちゃったけど・・・。)
燕との会話が岬の頭の中でリピートされる。
家族なら一緒にいるべき。家族を持たない岬だって、その言葉が正しいのは分かってる。けれどそれが最も正しい選択だと突きつけられた気がして、今の自分が否定された気がして、燕に反発してしまったのだ。新たな家族をつくることを拒絶してきた自分。それが惨めになるのが怖かった。
横目に聖の姿を見る。兄が迎えに来てくれた。それだけを考えればとても良いことに思える。聖自身は一体どう思っているのだろう。勿論、本人は燕の事に気づいている筈だ。
(最近、様子が違ったのはそのせい?)
そう考えれば、聖がサボっているのは日本史の授業が多い気もする。
(・・橘くんはどうするんだろう。)
再び視線を落とす。その間も授業はどんどん進んでいくが、一向に岬の手は動かなかった。
「葉陰さん?」
「え?」
授業が終わっても、机を片づけないままで考え込んでいる岬が気になって、桐生はその顔をのぞき込んだ。弾かれたように岬は顔を上げる。
「終わったよ。授業。」
「あ、ありがとう。」
「なんか珍しくボーッとしてたね。」
「・・・。ちょっと眠くって。」
「そっか。午後は眠くなるよね〜。」
おどけて言うが岬の表情に笑顔はない。桐生はジャケットのポケットに手を入れると、それを岬の前に差し出した。
「はい。あげる。」
「え?」
彼の手のひらの上にはキャラメルの包みが一つ。
「あ、キャラメル嫌いだった?」
「ううん。ありがとう。」
受け取って口に含む。懐かしい味のするシンプルなキャラメルだった。
「おいしい・・。」
「でしょ。今コレが俺のマイブーム。」
嬉しそうに笑う桐生を見て、岬も笑顔になる。ほんの一瞬でも悩みを忘れることが出来る気がして、岬はゆっくりとキャラメルの甘さを味わった。その様子を聖が見ていたことに気づかないまま。