第17話 頬を濡らす 1.教育実習生
少しずつ空気の中に湿気が混じってくると雨の季節がやってくる。梅雨を予感させる風が通り過ぎて、つい窓の外を見てしまう。
朝のホームルーム中、岬が目線を上に向ければ朝にしては薄暗い曇り空が広がっていた。
「えー、それから、今日から三週間教育実習生が入る。うちの学年は現国、生物、日本史だ。皆協力してやれよ。」
担任の連絡に、クラスメイト達がざわついた。教育実習生は現在大学生だから当然先生達よりも若い。親しみやすいのもあるし、何よりどんな人達なのか皆興味があるのだ。後ろの女子達はかっこいい人が来るかどうかを楽しげに話していた。
岬のクラスは現国と日本史の授業がある。おかげで、休み時間は教育実習生の話題で持ちきりだった。
二時間目の現国の授業で来た実習生は女性。見た目は真面目な感じだったがとても緊張していて、所々言葉がつっかえていた。けれど笑顔で賢明に話をする姿は好感が持てるものだった。
お昼休みを挟んで五時間目。いつもなら食後の午後は寝ている生徒もチラホラいるのだが、教育実習生が来ることもあってそんな生徒はいなかった。先に日本史の授業をやった他クラスの情報で、次は男性の実習生が来ると皆知っている。おかげで女子達のテンションが高い。
チャイムが鳴り、日本史の先生と共に入ってきたスーツ姿の実習生を見てクラスメイト達がざわつき始めた。黒髪長身で、現国の先生とは違い緊張している様子がない。眼鏡の奥の目は穏やかに笑っていた。とても優しそうな印象の男性だ。
日本史の先生が紹介をすると、彼は教壇の上に立って一礼した。
「今日からこちらでお世話になっています、橘燕です。短い間ですが、皆さんと一緒に楽しく勉強したいと思います。よろしくお願いします。」
先の実習生がとても緊張していただけに、今回の実習生はとても堂々として見える。終始笑顔の橘先生のおかげか授業も穏やかに進み、あっと言う間に授業時間が過ぎていった。
授業が終わり先生達がいなくなると、やはり女子達の間では橘先生の話題で持ちきりだった。笑った顔が可愛いとか、爽やかとか、優しそうな笑顔が好評らしい。彼女がいるか確かめてみよう、という生徒までいた。女子高生から見れば、やはり年上の男性は魅力的のようだ。
目の前で交わされる女子達の会話を聞きながら、岬は席を立つ聖の姿を見つけた。教室を出るだけならなんとも思わない所だが、その手にはバッグが握られている。
(・・もしかして、帰っちゃうの?)
まだ最後の授業が残っている。具合でも悪いのかと思い、岬も席を立って後を追う。
廊下に出るとすぐに聖の姿を見つけた。駆け寄って声をかける。すると、聖は不機嫌そうな顔で振り返った。
「橘くん。」
「・・何?」
その表情に口をつぐみそうになるが、手に握られているバッグが気になって疑問を口にした。
「もう、帰るの?」
「あぁ。」
「どうしたの?体調悪い?」
「・・・。そういう事にしといて。」
「あ・・。」
それだけ言うとさっさと歩きだしてしまった。これ以上訊いても聖は答えてくれないだろう。仕方なく岬は一人で教室に戻った。
(急にどうしたんだろう・・)
聖の態度がどうしても気になった。最近はあんな風に冷たい態度を見せることはなかったのに。
次の授業が始まって、岬は担当教師に聖が体調不良で早退したと告げた。教師がその言い訳を信じてくれたかどうかは分からなかったが、とりあえずその場はそれで収まった。
翌日。聖は屋上で寝そべっていた。6月に入ったせいか、最近はすっきりとしない天気が多い。だが今日は、雲は多いけれどその隙間から太陽がのぞいていた。
今は三時間目の授業の真っ最中。授業に出る気にならなくて、聖は屋上で時間を潰していた。
(また、あいつが気にするかな・・)
ふと、岬の顔が浮かぶ。昨日もわざわざ心配して声をかけてくれたのに、素っ気ない態度を取ることしかできなかった。けれど他にやりようもなくて、結局目を空に向けて誤魔化した。
授業終了のチャイムが聖の耳に届く。面倒だからこのまま次の授業もサボろうかと思っていると、屋上の扉が開いた。足音は一人。ゆっくりと聖に近づいてくる。唐突に、その足音の主は聖の名前を呼んだ。
「聖。」
「!?」
その声に驚き、聖は上半身を起こして振り返る。そこにいたのは教育実習生の橘燕だった。
「・・・・。」
聖は何も答えずただ、燕を睨みつける。そんな態度など気にも留めずに、燕は聖の前に立った。
「なんで日本史の授業をサボった?」
「・・・。」
「俺がいるからか?」
聖は燕から目を逸らして立ち上がる。そのまま燕の問いには答えずに屋上を出るため歩きだした。その背中を見ながら、燕は再度声をかける。
「帰ってこい。聖。」
「・・・。」
結局、口を開かないまま聖は屋上を出た。燕は溜息をついて、その姿を見送った。
最近、聖の様子がおかしい。授業をサボることも多くなり、一緒に下校していてもいつもより口数が少ない。授業をサボることはあっても、聖は成績が悪い訳ではない。その為教師達もそれほど聖に注意するわけではないので、岬もその事を渚達に相談しなかった。
だが、彼らも聖の変化に気づいている。ホームにいても夕食後すぐに部屋に戻ってしまって、リビングで過ごす時間が少なくなっている。お陰でいつも聖の膝の上にいた雪は寂しそうだ。岬がかまってあげても、どこか物足りなさそうだった。 変化があったのは聖だけではない。それは瑠璃も同じだった。夜、岬がベランダに出てもあまりその姿を見せなくなったのだ。
その日も夕食を終えてリビングを出ていく聖の後ろ姿を見ていると、渚が控えめに声をかけた。
「岬ちゃん。」
「あ、はい。」
「聖くん、何かあったの?」
「あ・・・。」
いつもと違うのは分かる。けれど、その原因は知らないし、多分訊いても答えてくれない筈だ。
岬が首を横に振ると、渚は「そっかぁ・・」と呟いた。
「最近、瑠璃も見かけなくなったんですよね。」
岬がポツリと呟くと、渚も首を傾げる。
「そういえば、そうだねぇ。」
二人で顔を見合わせるが、答えが出るわけもない。岬は夕食の片づけを手伝いながら、ぐるぐるとそのことばかりを考えていた。
カリカリとドアをひっかく音がして、聖は寝ていたベッドから体を起こした。自室のドアを開けると雪がするりと部屋に入ってくる。甘えるように小さな体を聖の足にすり寄せてくるので、聖は雪を抱き上げた。
「・・重くなったな。」
頭を撫でてやると、心地良さそうに目を細めた。そういえば、こうやって構ってやるのも久しぶりな気がする。それほど、自分には余裕が無くなっている証拠だった。いつもならリビングで遊んでいるからわざわざ部屋まで雪が来ることもあまりない。雪にも気を使わせているのかもしれないと思うと、口から溜息が出そうになる。
雪を抱いたまま再びベッドの上に寝っころがり、聖のお腹の上で丸くなったその背中を撫でた。大人しく、雪はされるがままになっている。
岬や渚達が自分の態度を気にしているのにも気づいていた。だがどうしても一人の時間が欲しかった。
気づけば、いつの間にか雪が寝息を立てている。そのリズムに耳を傾けながら、聖もゆっくりと目を閉じた。
* * *
「ん・・・。」
ぼーっとした頭で目を開ける。見慣れた天井が見えて、聖は顔を壁の時計に向けた。
(あのまま寝たのか。)
時刻は深夜の1時。夕食後部屋に戻ってすぐに寝てしまったのでまだ風呂にも入っていない。そっと体の上の雪をベッドに下ろし立ち上がった。一瞬雪も目を開けるが、頭を撫で出やると再び目を閉じて寝息を立て始める。風呂に入るため着替えを持って静かに部屋を出た。
真っ暗なリビングを電気をつけずにそのまま横切る。その時バルコニーがある大きな窓に人影を見つけて聖は立ち止まった。気になってそっとカーテンと共に窓を開ける。するとそこに立っていたのは岬だった。
「・・何やってんだ?」
「あれ?これからお風呂?」
岬は聖の手元を見てそう言った。「あぁ」と返すと、岬は困ったように笑う。
「私は、ちょっと外の空気吸いたくなって。」
そう言って、再び夜景に目を向けた。緩やかな夜風が岬の髪を揺らす。今日は曇っているから月も星も見えない。
踵を返そうとして、聖はその動きを止めた。岬がここにいる理由に思い当たったからだ。
「葉陰。」
「ん?何?」
「・・・悪い。最近瑠璃が顔を見せないのは俺のせいだ。」
「え・・?」
岬がバルコニーにいたのは瑠璃に会う為だった。黙っていたが聖に見透かされてしまった。
「あ、バレちゃった。」
あはは、と笑う岬を見て聖は申し訳なさそうな顔を見せる。それを見た岬は理由を追及することなどできなくて、身を預けていた手すりから体を起こした。
「じゃあ、部屋に戻るね。」
「・・あぁ。」
バルコニーを出て窓を閉める。岬がリビングのドアに手をかけると、静かな声で聖に呼ばれた。
「葉陰・・・。」
「何?」
「あ、いや・・・。雪なら俺の部屋にいるから。」
「うん。分かった。おやすみなさい。」
「おやすみ。」
リビングのドアを開けると、聖が風呂場に行く反対側のドアを開ける音が聞こえた。岬がもう一度振り返るが、その姿はもうドアの向こうに消えていた。