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PARTNER  作者: 橘。
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第16話 手を伸ばす 3.兄貴(1)

 小学校5年生の時、両親が離婚した。原因は親父の酒癖の悪さ。暴力こそ振るわなかったものの、物に当たり散らし、よく母親が泣いていたのを覚えている。離婚が成立して学年が一つ上がると同時に母親と兄貴との三人暮らしが始まった。母親は今までパートでなんとか貯めた金で、自分の店を持ってスナックを始めた。夜の遅い仕事になったので、夜はほとんど兄貴と一緒に食事をとった。

 兄の徹とは年が5つ離れている。当時高校2年だった兄貴は、自分から見てもあまり真面目な生徒ではなかった。けど友達が多く、よく家に来た兄貴の友達に自分も遊んでもらっていた。

 季節が梅雨に入り外で遊べなくなると、兄貴が帰ってくるまで家でゴロゴロする日々が続いた。小さな安アパートでは隣の物音も聞こえてくる。二つ隣の家には赤ん坊がいて、その日も泣き声が聞こえていた。

 すると、その声に混じって小さな声が耳に届いた。


『・・・・。』

「あ?なんや?」


 目を瞑って耳を澄ます。泣き声と共に自分に語りかけてくる声がなんと言っているのか分からないが、何故だか自分のことを呼んでいる気がした。

 部屋の窓を開けて外を見てみる。だが、聞こえてくるのは雨の音ばかり。外には誰もいない。次に玄関のドアを開けて表を覗くが結果は同じだった。首を捻って部屋に戻る。すると、突然目が熱くなった。


「っ・・・!!」


 左目を押さえて慌てて洗面所に駆け寄る。そっと手のひらをどけて鏡を見ると、そこに信じられないものが映っていた。左目が、緑色に変化しているのだ。


「なんや、これ・・・。」


 気持ち悪っ。とっさに頭に浮かんだ言葉はそれだけだった。勢いよく水道の蛇口を捻って水を出し、それで目を何度も洗った。だが何も変わらない。絶望的な気持ちで顔を拭くと、再び先程の声が聞こえた。


『だい、じょうぶ・・』

「あ?なんやて?」

『こわくない。』

「・・・・。こわ、ない・・?」


 頭の中に響くような小さな声は、自分を宥めるようにそう何度も繰り返した。大丈夫、怖くない、と。

 段々と混乱した頭が落ち着いてくると、不思議と声の主のことを巽は受け入れていた。相変わらず自分の目は緑色をしている。正直、その目はいつかテレビで見たエイリアンのようで不気味だったが、姿の見えぬ声の主は少しも怖くない。夢でも見ているのかと思ったが、それも違うようだった。

 すると、トントントンと階段を上ってくる足音が聞こえた。聞き慣れたこの音は兄貴のものだ。


「アカン!」


 巽は再び鏡を見る。目の色は元に戻ってはいない。すると再び声がした。


『だいじょうぶ。』

「何言っとんねん!どこが大丈夫なんや!」

『だいじょうぶ。だいじょうぶ。だいじょうぶ。』

「・・あ?」

『め、閉じる。』

「・・・。」


 段々と近づいてくる足音も忘れて、巽は目を閉じた。頭の中の声が『さようなら』と優しく告げる。ガチャッという音がして、巽は目を開けた。

 慌てて部屋の鏡を見る。すると、そこに映っていたのは見慣れた自分の顔だった。





 それから、時折例の声が話しかけてくる事があった。その内段々と巽も声が話しかけてくると左目の色が変化する、という法則を学んでいった。だが、自分の意志だけではその目を戻すことは出来ず、声の手助けが必要だった。

 声のことは怖くなかったが、巽ははっきりと初めて自分の緑色の目を見た時のことを覚えていた。自分ですら気持ち悪かったのだ。他人が見たら、きっと怖がられるに違いない。それが恐ろしくて、段々と巽は人と目を合わせることが出来なくなっていた。いつ声が聞こえるか分からない。つまり、いつ自分の目が見られてしまうのか分からないのだ。

 家でも顔を上げられなくなり、必然的に口数も少なくなる。母親はそんな巽の態度に戸惑っていた。年頃だし、反抗期でもおかしくはない。だが自分が離婚してしまったこと、夜の仕事をしてることで子供達には後ろめたさもあった。そのせいか、母親もいつの間にか巽に話しかけるのが怖くなっていた。巽も、敏感に母親が自分を見る目が変わってきているのを感じていた。けれど、兄の徹は違った。弟の巽が自分と目を合わせなくなり、部屋に引きこもりがちになってもその態度を変えることはなかった。


 秘密を一人で抱えているのは辛い。けれど巽は自分に話しかけてくる例の声が、自分にとってかけがえのないものだと分かっていた。目のことを話して、徹にあの声の主のことを悪く思われるのは嫌だったのだ。そして何よりも自分の事を嫌いになって欲しくなかった。

 そのくらい巽は徹のことが好きだったし、尊敬していた。父親と一緒に暮らしていた時も、酔って暴れる父親から母と巽を守ってくれたのは徹だったのだ。





 * * *


 学校が夏休みに入った初日。巽は兄と一緒に夕飯を食べに繁華街に来ていた。今日も母親は仕事で家にいない。せっかく夏休みになったのだから、たまには外に好きな物を食べに行こうと徹が誘ったのだ。

 巽も夏休みと久しぶりの外食が嬉しくてはしゃいでいた。徹がそんな巽を見て、笑って巽の頭を撫でる。巽は素直になれずに、「子供扱いすんな!」とその手を払い退けた。それでも「おーおー、そらスマンかったなぁ」と徹は巽の隣で笑った。

 どこの店に入ろうかと話していていると、フラフラとした足取りで向こうから歩いてくるサラリーマンが巽の目に入った。顔も赤く、首もとのネクタイはだらしなく緩められている。その危なっかしい足取りに顔をしかめると、すれ違う瞬間そのサラリーマンが巽の髪を掴んだ。


「いてぇ!!」

「てめぇ、あぁに、ってんだよ!!」


 突然の痛みに巽が悲鳴を上げる。すると少し前を歩いていた徹が振り向いた。そこで酔っぱらいの男が巽の髪を掴んで何か叫んでいる。だが、呂律が回っておらず、何を言っているのか分からなかった。


「おい!やめろ!!」


 徹はその腕を掴み、後ろに捻り上げた。喧嘩ならその腕に覚えがないわけではない。ましてや足下のおぼつかない酔っぱらいに負ける気はしなかった。酔っぱらいが痛そうに身をよじると、徹はその腕を離してやる。そのままその男はコンクリートの上に崩れ落ちた。


「巽、大丈夫か?」

「・・うん。兄ちゃん、ごめん。」

「アホッ。何謝っとんねん。ええから行くぞ。」


 ニカッと笑うと、徹は巽の手を取った。二人はその場を離れようと足早に歩き出す。だが、唐突に徹の足が止まった。


 バリンッ


 聞き慣れない音したのは頭上。パラパラと何かのかけらが上から降ってくる。巽が手のひらを見ると、それは茶色いガラスの破片だった。

 自分の手を握っていた徹の体が揺れる。両膝が地面につき、そのまま前に倒れ込んだ。


「・・兄ちゃん?」


 目を閉じた徹の横顔。後頭部から流れた血がその頬を伝って落ちた。巽の呼びかけには応えない。

 ゆっくりと後ろを振り返る。そこには腰を抜かして地面に座り込むさっきのサラリーマンがいた。顔面蒼白で徹を見つめている。震える彼の右手には割れたビール瓶。全てを理解した瞬間、巽の顔から血の気が失せる。


「兄ちゃん!!!」


 徹にすがりついて何度も名前を呼んだ。けれど徹が目を開けることはなかった。






 巽は墓石の前に立っていた。母親と共に墓参り済ませ、墓前で手を合わせる。徹が亡くなったあの日以来、巽は一度も涙を見せなかった。

 あの日、巽は病院で涙を止めることが出来なかった。泣いて泣いて泣いて。母親が来ても徹から離れようとはしなかった。

 徹が自分の世界から居なくなる。考えられないことだった。自分の傍に居てくれた唯一の存在が居なくなり、絶望的な思いに打ちひしがれる中、巽を救ってくれたのはあの声の主だった。あの声が幼い巽を慰めてくれたのだ。あの声で、いつものように『だいじょうぶ』と言ってくれた。それだけで、自分は一人ではないのだと安心することが出来た。その日から、何故か巽は自分で左目をコントロール出来るようになっていた。


 お墓参りを済ませると、巽は母達と一緒に墓地を離れる。大きな森林公園に隣接されている墓地は、大通りに出る為に公園の中を突っ切らなくてはならない。

 親戚達と歩いていると、珍しく母が巽の手を引いて歩きだした。親戚達と離れて二人だけで公園を歩く。その先に人が集まっていた。巽が黙って母について行くと、そこにあったのは移動動物園。兄を失った巽の為に母が連れてきてくれたのだ。

 巽が他の子供達のように柵の周りに行くと、そこには様々な動物達がいた。ウサギやリスなどの小動物を中心にヤギ、オウム、ヘビ。その中でも一番大きな動物であるキリンが子供達の人気を集めている。

 すると、動物園の飼育員達がテントの中から出てきた。その腕には数匹のサルを抱いている。皆の前に来ると、ニホンザルの親子だと紹介した。園長が中でも一番小さなニホンザルを抱き上げる。その雌ザルは今年の5月に生まれたばかりの赤ちゃんだった。どうやら彼女がこの動物園の目玉のようで、周りの家族もそのサルと一緒に写真を撮ろうと長い列を作った。

 巽はそのサルを見て、母親の服の裾を引っ張った。


「オレもあのサル抱きたい。」


 久しぶりの巽の我儘に母親は喜んでその列に並ぶ。カメラを持っていないことを残念がっていたが、巽の目的は他の客達の様にそのサルと記念撮影をすることではなかった。確かめたいのだ。巽はあの小ザルを見た瞬間に、巽はそのサルのことを知っている気がしてならなかった。初めて見る赤ちゃんザル。それが今、巽の心を動かしている。

 10分ほど並ぶと、巽の番が来た。園長の手から赤ちゃんザルを抱かせて貰う。可愛いだろ、と園長が言った。だが、そんな言葉は巽の耳には届いていなかった。


(あぁ、やっぱりそうや。)


 そのサルは真っ直ぐに自分の目を見つめている。この感覚、流れ込んでくる喜びの感情。言葉を交わすことはなかったが、巽はそのメスザルがあの声の主だと確信した。そっと頭を撫でてやる。すると、そのサルは長い腕を回して自分から巽の体に抱きついた。彼から離れたくないと主張しているかの様なその行為に園長も驚いた顔を見せる。しばらくその子ザルは腕を離さなかったが、園長が何とか引き離すと巽は手を振ってそのサルと別れた。


「可愛かったわね。」

「うん。」


 巽は動物園の係員からチラシを受け取っていた。そのチラシによれば後一週間で移動動物園はあの公園から居なくなる。

 巽は家に帰りながら、どうやってあのサルを動物園から連れ出そうか考えていた。

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