第16話 手を伸ばす 1.本気
岬は珍しく焦って校舎の中庭を走っていた。昼休みに前のクラスの友達に会ってしゃべっていたのだが、休み時間終了10分前になって次の授業が体育であることを思い出したのだ。運悪く隣の校舎に居た彼女は中庭をつっきって自分の教室に戻る所だった。
校舎の入口まで着くと急いで中に飛び込む。その時、一人の女生徒にぶつかった。
「あっ・・。」
肩が当たってしまい自分より背の小さな生徒がよろける。「すいません」と言って振り返ると同時に岬は息を飲んだ。ぶつかった相手は泣いていたのだ。
「あの・・・」
思わず声をかけそうになった時、視界の端に渡り廊下の向こうへ去っていく聖の背中が見えた。同時に目の前の人物を知っていることを思い出す。彼女は聖に以前バレンタインのチョコを渡した小谷菫だった。
この場から離れていく聖。泣いている彼女。それを理解した時、岬の口は動かなくなってしまった。彼女が泣いている原因は付き合っていることになっている自分でもあるからだ。
何も言えずに固まっていると、小谷が岬を睨むように見つめた。
「・・・私、諦めません。」
「え・・。」
「あなたと付き合ってるって分かってても、好きなんです。橘くんの事。」
「・・・。」
「私、本気ですから。」
それだけ言って彼女は走って行ってしまった。岬はその背中を見送りながら、小さな罪悪感が沸き上がるのを感じていた。
自分は本当の彼女じゃない。それを知ったらきっと彼女は怒るだろう。あれだけ真剣に聖を想っている生徒もいるのに、それを自分が邪魔している。岬は聖を困らせているミーハーなファンを近づけない為に自分の存在が助けになるのなら良いと思っていた。けれど、それだけでは済まなかった。小谷のように真剣に恋愛をしている生徒もいるのだ。
「・・・・。」
授業に遅れてはいけないと、岬は階段を上がる。その足取りは重かった。
「あれ?一人?」
靴箱前で靴を履き替えていると、そう声をかけられ岬は顔を上げた。
「あ、梶原君。」
「橘は?一緒じゃねぇの?」
「うん。今日は私の委員会があったら、先に帰ってもらったの。」
「へー。」
梶原と一緒に校舎を出る。1年の時から2年連続で同じクラスになり、聖の友達という事もあって結構話をする機会は多い。
「そういや、お前等って未だに名字で呼びあってるよな?なんで?」
「え?」
「だって普通付き合いだしたら下の名前で呼ぶだろ?」
まさかその問いに本当は付き合ってないから、と答えることは出来ず、岬は曖昧に頷いた。
「えっと、恥ずかしいし・・。」
「あはははっ。まぁ、橘がいきなり女子とイチャコラしだす方が不気味だけどな。」
梶原が大きな声で笑う。彼は聖を目の前にしても歯に衣着せぬ物言いをする。その方がビクビク顔色を窺ってくる奴より付き合いやすいと、以前聖が言っていたのを岬は思い出した。
「まぁ、目に見えてイチャイチャしなくても、橘が葉陰を特別扱いしているのは丸分かりだけど。」
「え・・。」
目を丸くする岬を見て「あれ?」と梶原は首をひねる。
「何?もしかして気づいてないの?」
「え、何を?」
「葉陰と付き合いだしてから、アイツ今までと全然違うだろ?」
「・・そう、なの?」
言葉の意味を理解できずに、岬は梶原を見返した。
「男子は皆言ってるぜ。話しやすくなったって。それに葉陰に対する態度と他とじゃあ、全く違うし。」
楽しそうに梶原が解説する。彼曰く、聖のように周囲に無関心な人間が彼女の前でその態度を崩す姿は微笑ましく周りに受け入れられているのだという。岬はまるで自分のことのように恥ずかしくなって顔を赤くした。それを見て、ますます梶原が楽しそうに笑う。
「あ、そうそう。」
「?」
何を思い出したのか、梶原が岬を見てニヤッと笑う。
「そう言えば、まだ先だけどクラスの奴らと今日文化祭の話が出てさ。」
「うん。」
「校内のベストカップルにお前等推薦しようかって意見が出たぜ。」
「え!!?」
岬が珍しく大きな声で驚くと、その反応を見て嬉しそうに梶原が笑う。
「か、梶原くん・・・。いくらなんでも、それはちょっと・・。」
「あははははっ。分かってるって。マジではやんねぇよ。推薦したって絶対橘がそんなの出るワケないし。」
「だよねぇ・・」
はぁ、と岬は深い溜息を吐き出す。そんな話を聞かされたら、聖の機嫌が悪くなるのは目に見えていた。
「ま、そんな冗談が言えるくらい、クラスの奴らもあいつに対して壁が無くなってきてるってことだよ。」
「そっか。」
聖は目立つ割に多くを語らないから誤解されがちだ。それが改善されているのなら、自分の存在も少しは役に立っているのかもしれない。梶原の話を聞いていると、このままでも良いのだと言って貰えた気がして、少し気が楽になる。それでも今日小谷に言われた言葉が消える訳じゃないけれど。
電車通学の梶原と途中の道で分かれると、岬は真っ直ぐにホームへ向かった。
* * *
「橘ー!」
昼休み。昼食を終えて教室に戻ると梶原に声をかけられた。彼は手にバスケットボールを持っている。
「俺らこれからバスケするけど、混んねぇ?」
隣のクラスと対決するのだが、メンバーが一人足りないのだという。その中には桐生も居て、メンドクサいなと思っていると、それを察したのか梶原は聖の肩に腕を回してニヤリと笑った。
「ちなみに、負けた方は明日の昼飯おごり。」
つまり勝てば明日の昼飯代が浮くということだ。それを聞いて聖はすぐに頷いた。
「やる。」
「そう言うと思ったぜ。」
聖が加わると分かるやいなやクラスの女子が騒ぎ始める。皆バスケを見に行こうと、大所帯で移動を開始した。クラスの友達に誘われて岬と朋恵もそれについて行くことになった。
昼休みの体育館はそれほど人が多くない。今日は天気が良いせいか、グラウンドで遊んでいる生徒達が大半のようだ。
早速隣の6組との試合を始めようとすると、あっと言う間にコートの周りはギャラリーで一杯になった。
「橘、それ脱げば?」
制服の上着を着たままだった聖に、梶原が指摘する。「あぁ」と短く返事をして聖はジャケットを脱いだ。体育館の入口近くに岬の姿を見つけ、声をかけてそれを渡す。
「悪い。持ってて。」
「うん。」
再び聖がコートに戻ると、周りの視線が岬に集まる。いつの間にか他クラスも加わっていて、彼女達は「あれが橘くんの彼女だよ」と噂していた。どこか居心地の悪さを感じつつも、岬は始まった試合に目を移す。
試合はなかなかの接戦だった。お互いお昼ご飯代を駆けているだけあって、本気の試合にギャラリーも熱くなる。聖はシュートを打つことよりも、パスの中継に力を入れているようだ。いつの間にかゴール下を守る梶原が指示を出し、聖が中継して桐生がシュートを打つという流れが出来ている。
聖は男子の中でも目立って背が高い方ではない。けれど、ジャンプ力の高さが抜きんでていて、生徒達が入り乱れた試合の中でも目を惹いた。岬の目も思わず聖を追う。互いのチームがシュートを決める度にギャラリーも盛り上がりを見せた。
試合が終了し、勝ったのは5組だった。男子達は皆ハイタッチして喜んでいる。聖は「あちぃ」と漏らして、すぐに岬の元へ戻ってきた。ワイシャツの襟元を開けてパタパタと煽る。その仕草に周りの女子達が騒ぎ始めた。以前なら勝手に写メを撮る生徒達がいたのが、今はそれもいない。ただ遠目に見て騒いでいるだけだ。
岬は周りを気にしながら上着を返した。
「サンキュ。」
「すごかったね。楽しそうだった。」
「ん。」
聖の口元が緩む。するとギャラリーからキャーという悲鳴のような歓声のような声が聞こえて、途端に聖の表情が硬くなった。そのまま何も言わずにスタスタと体育館を出ていってしまう。その声に驚いていた岬は、ギャラリーの中に小谷の姿を見つけてとっさに目を逸らした。
胸の奥から軋むような音が聞こえた気がした。