第1話 君と出会う 4.屋上(1)
(一体何だったんだろう。)
数学の教科書をぼうっと見つめながら、岬は考えていた。突然頭の中に鳴り響いた昨日と同じ声。左目の発熱。さっき鏡で見たが、左目は充血一つしていなかった。
だが、あの声のことは考えても分からないので考えるのは止める。岬は頭の中を切り替えて、数学の授業に戻った。
(やっぱり、あの女なのか・・・・。)
聖は葉陰岬という女子生徒のことを思い出していた。
(左目を抑えていた。あれは、もしかしたら覚醒の兆候かもしれない。放課後、接触してみるか・・・。)
『見つかった?』
聖の頭の中に聞き慣れた声が流れ込んでくる。橘は軽く目を閉じてその声に応じた。
『あぁ、たぶん間違いない。学校が終わった後会ってみる。お前はどうする?瑠璃。』
瑠璃と呼ばれた声の主は少し考えた後、その問いに答えた。
『・・・・・会う。大丈夫、カナ?』
『さぁな。俺もあの女の事は知らないからな。どうなるか分からない。お前がいてくれると確かに俺は助かるんだが、本当にいいのか?』
『うん。』
聞こえてきた声からは確かな意思が感じられる。その事に安心したが、まだ不安は拭いきれない。その不安を相手に知られないように注意しながら、橘はその話し相手、瑠璃のことを考えていた。
* * *
放課後。岬は珍しくバイトが休みだったので、今日はゆっくり家で休もうと学校の玄関口へ向かっていた。
(買い物に行かなくちゃ。夕飯の材料が何も無いや。)
今日の夕飯のメニューを考えながら、岬は廊下を歩いていた。校庭の方からは運動部の掛け声が聞こえる。教室からは吹奏楽部の楽器の音や、何をやっているのか分からないが、何かの音楽が聞こえてくる。それらを遠くに聞きながら、岬は歩いていた。
その時、正面から声がかけられた。
「あんた、葉陰岬だな。」
秋の涼しげな風が肌を撫でる。空気が段々と寒さを増してきていた。空は高く、夕暮で真っ赤に染まっている。ここからは学校周辺の景色が良く見渡せる。紅葉を見せる木々も、その葉を落とし始めていた。ここは生徒の立ち入りが禁止されている屋上。しかし居てはいけないその場所に、二人の生徒が立っていた。岬と橘聖だ。
聖は屋上の手すりに寄りかかり、岬はそこから1メートルほど離れた所に立っている。岬は帰りに廊下で聖に声をかけられ、訳の分からないままここに連れてこられたのだった。
「あの・・・・・。」
さっきから何にも言わない聖に疑問を感じつつ、岬が先に口を開いた。
「体育の時、ありがとう。」
今までどこか遠くを見ていた聖は、驚いたように顔を岬の方に向けた。
「気付いてたのか・・・。」
「えっ、うん。」
まじまじと聖は岬を見てきた。何だか居心地が悪い。その後聖はまたしばらく遠くを見ていたが、何か諦めたように岬に向き直った。
「悪いな。自分から呼び出したのに、待たせて。」
「うん・・。」
岬は訳が分からず、そう答えるしかない。
「突然言われても混乱するだろうけど。」
(知らない人に呼び出された時点で、混乱してるんだけどな・・・。)
岬は心の中でそう付け足す。
「最近、何か変わった事はあったか?」
「えっ?」
「いや、何でもいいんだ。本当に些細なことでも良い。」
岬は何を言っていいのか分からず、結局混乱してしまう。
「・・別に・。」
聖はいぶかしげな顔をする。何だか納得いかないようだ。
「じゃあ、先に言うけど、左目に違和感を感じたことは?」
「あっ・・。」
何でその事を知っているのか、一瞬疑問が頭をよぎったが、岬は驚きでその言葉を飲み込む。
「ある。けど、なんで・・・」
一つ溜息をついて、聖はやっぱりといった顔になった。と言ってもそれほど表情豊かではない彼の表情の変化は微妙なものだ。
「じゃあ、誰かに名前を呼ばれたことは?でも現実じゃなくて、こう・・頭の中から聞こえるって言うか・・。」
そう言いながら、聖は自分の頭のこめかみの辺りを指差した。どう説明していいか迷いながら話しているようだ。確かに普通に生活していてそんな感覚を覚えることはない。何も知らず、経験のない人にそれを理解させるのは難しい。しかし、岬にはそれがあった。
「ある。はっきり呼ばれたわけじゃなくて、故障してるラジオみたいな感じで、途切れ途切れなんだけど・・」
「それだ。向こうから探してるんだな。もうこの辺りにいるのかも知れない。」
それを聞いて岬はますます混乱する結果となる。なぜ、最近自分に起きた訳の分からない現象を今日会ったばかりの彼が知っているのか。そういえは、彼は自分の名前も知っていた。どこで、どうやって知ったのだろう。探してる?誰が?何を?聞きたい事はたくさんある。ありすぎて、何から聞いていいのか分からない。
もはや声を出すことも出来ないほど呆気にとられている岬に気付き、聖は困ったように眉根を寄せる。
(どうしたら手っ取り早いのか・・・。)
聖も少し困って、何かを探すように再び遠くを見る。だが、目的のものは見つけることが出来ない。再び岬に向き直ると、またもや先に声を発したのは岬だった。
「あっ、カラス・・・・。」
岬の言葉に、聖は急いで振り返る。待っていたと言わんばかりの反応だ。しかし、聖の口から出たのは決して喜びの声ではなかった。
「遅い。」
憮然とした顔で、聖はまだ空中にいるカラスに声をかける。そのカラスはゆっくりと聖がよりかかっているのとは反対側の屋上の手すりに留まり、羽をしまった。
『スグ行く、言ってない。』
そのカラスは抗議の声を流すようにそっけなく答える。だがその声の中には少しからかうような響きがあった。その声を聞いて怒るのではなく、最悪の結果を招かなかったことに聖は安堵感を覚える。
一方で、突然飛んできたカラスに話しかける聖見て、またもや岬は声を失う羽目になった。今日は一体何度驚きに身を晒せばいいのだろうか。しかも最近やたらとカラスに縁があるようだ。
ただ呆然とたたずむ岬に、思い出したように聖は言った。
「そういえば俺のこと言ってなかったな。俺は1年3組の橘。」
遅い自己紹介を済まし、続けて聖が紹介したのは、そのカラスだった。
「こいつは瑠璃。よろしくな。」
聖がそう言うと、同時に瑠璃と呼ばれたカラスはまるで人間の言葉が分かるかのように反応し、岬の方を向いて少し頭を下げた。まるで芸をする犬のようだ。それとも本当に芸を仕込まれているのだろうか。
「もしかして、このカラス・・・飼ってるの?」
おずおずと岬は質問を口にした。その質問に、聖は心なしか冷めたような顔つきになる。何か気に障るようなことでも言ったのだろうか。
「いや、違う。・・・飼うってのは、なんて言うか対等じゃないだろ。俺たちは対等なんだよ。・・・・やっぱり話すのはあんたが完全に覚醒してからの方が良かったかもな。」
「覚醒・・・?」
聞きなれない言葉を耳にして、ますます岬は混乱する。もう、考えるのも嫌になるほど岬の前には謎が散乱していた。
「まぁ、いい。こんな事言ってももう遅いしな。単刀直入に言うよ。俺達はパートナーなんだ。」
「ぱーとなー・・?」
岬は思わず、間抜けな声を上げる。そんなことを言われてもさっぱり分からない。そう岬の表情が訴えていた。
「そう。詳しいことはその内分かる。ただ、あんたに教えておきたかったのは、さっき言った様な事が起こっているのは単なる空耳や病気のせいじゃないって事だ。それは、あんたにも近い内にあんたのパートナーが現れる、まぁ、その前兆みたいなもんなんだ。」
「あたしにも?」
岬は呆然と、聖と瑠璃を交互に見やった。混乱した頭をそのままに、何とか言葉を搾り出す。
「えっと・・・橘君とその子がパートナーで、私にもパートナーって事は、私にもカラスの友達ができるって事?」
その言葉を聴いて、聖は思わず言葉を失う。思った以上の伝わらなさに、かなりの驚きを隠せない様子だ。自分は話が上手いとは思ってはいなかったがここまでとは、といった感じだ。
その横で、瑠璃が決して顔に出さない聖の落胆を感じ取ったのか、声をかける。
『大丈夫?』
「・・・・ダメだな。」
その労わりの言葉に答えたのは諦めの言葉だった。だが、聖が漏らした言葉にはどこかしら優しさが感じられる。それは、岬が発した『友達』という言葉のせいだった。
そんなことを知らない岬は聖の言葉を聞いて自分の見解が間違っていたことに気付く。その後、躊躇いがちに訊いた。
「ごめんなさい。違った?」
「確かに違うんだが。俺もロクな説明してないからな。・・・別にカラスとは限らないんだ。目がある生物だったら何でもあんたのパートナーになる可能性がある。動物でも、人でもな。」
「目がある・・生物?」
「そう。一体何が自分のパートーか判別するには簡単に二つの方法がある。その一つが目だ。」
そう言って、聖は目を閉じた。それと同時に、瑠璃と呼ばれたカラスも目を閉じる。そして彼らが再び目を開けた瞬間、岬は思わず目を疑った。
誰が見ても分かる、目を閉じる前と開けた後の変化。それは彼らの左目に現れていた。
「・・・どうして・・・。」
彼らの左目は、青かった。外国人の目のような明るい青ではなく、海のような深い青。彼らの左目の瞳の中は、その色で染まっていた。
「これが俺と瑠璃がパートナーである証。パートナー同士は左目の色が同じになる。どうしてかは分からないけどな。あんたの左目の違和感は左目が変化する前兆だ。時々痛みを感じることがあるかもしれないが心配はいらない。この眼はパートナー特有の力を使うときにこんな風に色が変わるんだ。俺はもう慣れてるから色の変化もコントロールできるが、始めは自分の意思でどうこうできないから気をつけた方が良い。他人に色が変わった所を見られると厄介だからな。もう一つの方法は“会話”だな。」
「会話・・・ってさっき橘君がその子に話しかけていたみたいな事?」
聖は左目をそのままに頷いた。
「パートナー同士は気持ちを伝え合うことが出来る。その気持ちや言葉が直接頭の中に響くみたいにして伝わるんだ。知能の低い生き物なら漠然とした気持ちが、カラスみたいに頭のいい生き物なら人間同士の会話に近いやり取りをすることが出来る。」
聖はそこで岬の顔を一瞥した。当然、普通の人間はそんな事言われても信用する者などいない。むしろする方がおかしいのだ。だが意外にも橘の目に映った岬の顔にはあまり疑いの表情は見られなかった。むしろ、どうにか理解しようと思案している感じだ。
「テレパシー・・・とかそういう感じなの?」
自信無げに岬が呟く。
「・・・まぁ、そう言った方が分かりやすいかもな。」
それを聞いて岬の表情が変わった。
「そうなの!すごい!」
そんな答えは予想していなかったのか、聖は面食らった顔になる。
(なんだこいつ・・・)
無防備に思ったそれは、瑠璃にも伝わっていた。
『分かってくれた?』
「そうらしいな・・・・。」
まだ信じられないと言うように聖は瑠璃に話しかける。本来その反応をするのは岬の筈ではなかっただろうか。
すると、何かに気付いたように岬が突然瑠璃の方を見た。
「そっか、思い出した。その子、昨日の夜見たよ。」