第13話 前へ踏み出す 2.お姉ちゃん
「ただいまー。」
バイトを終えて岬がホームに帰ると、リビングから賑やかな声が聞こえてくる。一先ず自分の部屋に戻って荷物を置くと、ベッドの布団の上から雪が降りた。
「ただいま、雪。」
『おかえり。』
トタトタと足元に来た雪を抱いて一緒にリビングに入る。するとソファでは皆が集まってTVゲームをしていた。あぁ、それでこんなに賑やかだったのか、と納得して岬は声を掛ける。
「ただいま。」
すると、TV画面を見たまま聖が「おかえり」と言った。大はゲームに熱中しているようで、手を振り回している。
それを眺めていた渚が振り返った。
「岬ちゃん、お帰り。お客さんが来てるよ。」
「え?」
お客さん?そう聞き返すよりも先にソファから少年が立ち上がる。そして真っ直ぐに青いパーカーの少年が岬に向かって走ってきた。
「お姉ちゃん!!」
彼はそのまま岬に抱きつく。その瞬間、びっくりした岬の腕の中から雪が飛びのいた。雪と入れ替わりに岬の腕の中にいる少年は、記憶の中の姿よりも少し背が高い。岬は驚きながらも、はっきりと彼の名前を呼んだ。
「・・大地君。」
ぎゅっと岬の腰を抱く大地の腕に力がこもる。その体は微かに震えていた。
岬は大地を連れて自室へ移動した。机の上には渚が淹れてくれた紅茶が湯気を立てている。二人はそれに手を付けずに岬のベッドに腰を下ろした。
「久しぶりだね。」
「・・・うん。」
横に並んで座っているけれど、彼の手は岬の右手をぎゅっと握ったまま。大地の目にはうっすら涙が浮かんでいる。こんな彼の顔を見るのはいつぶりだろうか。
「ここには一人で来たの?」
「うん。」
「そっか。遠かったでしょ。」
微笑んで大地の頭を撫でる。彼は静かに岬の顔を見上げた。
「お姉ちゃんは、なんで施設を出て行っちゃったの?」
「・・・・。」
大地は岬がいた孤児院で共に育った子供内の一人だ。彼が施設に来たのはまだ赤ん坊の頃で、その時の記憶は彼にはない。
岬が今の大地の年の頃には、周りは自分よりも年下の子達ばかりになっていた。実の親や親戚が迎えに来ることもあれば、里親希望者が現れ、養子縁組みで貰われていく子もいる。そうして岬だけが取り残されてしまったのだ。だが、岬にも里親の話が無かった訳じゃない。反対されたが、岬は自分の意志で施設に留まっていた。
自分が年上なら、当然下の子達の面倒を見て過ごすことになる。大地も岬が小さい頃から面倒見ながら育った子供だった。
「もう働ける年だし、いつまでも先生達に迷惑かけられないでしょう?」
岬の言葉に大地の顔がくしゃっと歪む。顔を下げたその目からは我慢していたポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「うっ・・・。おねぇ、ちゃんが居なくなって、俺、頑張ったんだ・・。お姉ちゃんの分も皆のこと、ちゃんと面倒みよ、って。」
大地はハキハキとした性格で、下の子達にとても慕われていた。岬の目から見ても、大地は良いお兄さんだった。それ故、弱音を言える相手はいなかったのかもしれない。だから此処に来たのかもしれない。けれど、岬はそれを言葉にはせずに大地の言葉を待った。
「でも・・・、先生が・・・。」
そこで、大地は言葉を詰まらせてしまう。岬は大地を落ち着かせるように、そっと彼の背中を撫でた。
「せんせ、が、養子の話が来たって・・・。」
「大地君・・・・。」
「俺、俺も・・・、お姉ちゃんみたいに、もっと皆と一緒に居たい・・・。でも、先生は、養子の方が・・、いいって・・。うっ、」
大地の涙は止まらない。岬は肩を震わせている大地の体を抱きしめた。
もしかしたら、大地は誤解している?大地が要らないから、施設は養子に出そうとしているのだと。
「・・相手の方にはもう会ったの?」
大地は首を横に振った。どうやら来週の土曜日に里親希望者との面会があるらしい。大地自身はまだ戸惑っているのに、面会の日はどんどん迫っている。どうすればいいのか分からなくなって岬を訪ねてきたようだ。
岬はそっと自分の頭を彼の頭に寄りかからせた。
「ねぇ。大地くん。先生達はね、大地くんを追い出そうとしてるんじゃないよ?大地くんと家族になりたいって言ってくれている人がいるから、紹介してくれようとしてくれているの。」
「・・・。」
「大地くんがどうしても嫌なら、先生も無理にとは言わないと思う。でもね、自分と家族になりたいって言ってくれる人が居るのは幸せな事だよ。」
「・・俺、施設の皆が家族だ・・。」
「うん。私もそう思っている。」
大地が顔を上げた。岬は彼のおでこに自分のおでこをそっとくっつける。大地と喧嘩した時、こうして仲直りをしたのを今でも覚えている。
「施設を出ても、ずっと私は大地くんのお姉さんで、家族だよ。」
そっと微笑んで、涙で塗れた頬を手のひらで拭った。彼の赤い目が縋る様な目線を投げかける。
「ほんと・・・?」
「うん。だから、大地くんが私のこと『お姉ちゃん』って呼んでくれて嬉しかった。」
「・・おね・・ちゃん。」
「うん。」
再びぎゅっと大地を抱きしめる。もう大地の体は震えてはいなかった。
施設にいた頃、先生や子供達と一緒にいても自分は一人なのだと思っていた。けれどしばらくの間その孤独を忘れさせてくれたのもやはり彼らだった。一方的に自分の都合で切ってしまったと思っていた彼らとの絆。それは確かに今もあるのだと大地が教えてくれた。だから岬も伝えるのだ。離れていても自分は確かに彼らの家族で、そしてそれは時が経っても変わることはないのだと。
それは失くしてしまった絆を諦められなかった岬の、悪あがきかもしれないけれど。
夕暮れの空は段々と夜の色に染まっていく。岬は大地と手を繋ぎながら施設への道を歩いていた。
ホームから施設へは電車を乗り継がなくてはならない。一時間ほどかけて電車を降りるが、駅から施設は離れている。
二人はのんびりと散歩でもしているように歩く。
「大地くん。」
「なに?」
「私が施設に残ってたのはね、人を待っていたからなの。」
「誰?」
「大切な人。」
岬は前を向いたまま答えた。
「もしその人が私を迎えに来た時に、私が施設にいなかったらもう会えないでしょう?だから、養子の話も断ったの。」
「・・・その人には、会えたの?」
岬は黙って首を振る。けれど、彼女の表情に悲しさの片鱗を見つけることは出来ない。
「でも、もう待つのは止めたの。待つことにこだわってばかりで、前に進んでないって気づいたから。もっと今私の傍にいる人を、新しい出会いを大切にしなきゃって思ったの。」
「・・お姉ちゃん。」
ぎゅっと岬の手が強く握られる。
「ん?]
「俺、会ってみる。」
自分を見る大地の目からは強い意志が感じられた。岬は目を細めて頷く。
「うん。大丈夫。大地くんを気に入ってくれた人だもん。きっと優しい人だよ。」
「うん。」
「あ、そうだ。」
岬はバッグからスケジュール帳を取り出すと、付属のメモに数字を書いて大地に手渡した。
「これ、私の携帯の番号だから。何かあったら電話して。」
「うん。ありがとう。」
大地はそれをポケットに押し込む。すると離された岬の手を再び握った。
「こうやって、大地くんと手を繋ぐのって久しぶりだね。」
「うん。お姉ちゃんと手繋いで歩いてたら、お姉ちゃんが転ぶから俺も一緒に転んだことあったよね。」
「えぇ!あれは大地くんが先に転んだんじゃなかったっけ?」
「違うよ!お姉ちゃんが転んだんだよ。」
「そうだったっけなぁ・・。」
幼い頃を思い出しながら、帰り道を進む。繋がれた手は温かくて、昔よりも少し大きい。
彼の元から離れていった自分。けれど大地は岬が正月に出した年賀状の住所を頼りに、その距離を越えて会いに来てくれた。それが言葉に出来ないほど、とてもとても嬉しかった。
* * *
「今日はありがとうございました。」
夕飯後の片づけを手伝いながら岬は渚にお礼を言った。ホームに帰ってからも、皆大地については何も訊かなかった。ただ、いつものように「お帰り」と言ってくれただけだ。その優しさが、岬の胸を温かくする。
「いいよ。ここにお客さんが来てくれるのは嬉しいし、大と夕も大地くんとは仲良くなったみたいだしね。」
「はい。」
大は大地がホームを出る際、「今度はいつ遊びに来る?」と頻りに訊いていた。大地は年下の子供と遊ぶのには慣れているから楽しかったのだろう。
自分達を受け入れてくれる仲間の優しさが嬉しくて、岬は口を開いていた。
「大地くんは私がいた施設の子なんです。里親希望の人が現れて、ちょっと戸惑ってしまったみたいで。」
「そう。岬ちゃんは良いお姉さんなんだね。」
「え?」
「大地くんを見れば分かるよ。ここに一人で来た時はすごい礼儀正しいしっかりした子だったけど、岬ちゃんの前ではやっぱり甘えてたもんね。」
渚の言葉に岬も笑みを浮かべる。大地が気を許してくれているなら、それは何より嬉しいことだ。
「夕の話も少しは彼の為になったのかな?」
「え?」
「夕が大地くんに、養子は恥ずかしいことじゃない、って言ったらしいよ。」
「夕ちゃんが・・・。」
「岬ちゃんにはまだ話してなかったね。」
そう言うと、片づけをしていた手を止めて、渚は岬をダイニングの椅子に座るよう促した。岬の向かいに渚も腰を下ろす。
「大と夕も孤児院の出なんだ。」
「え・・・。」
戸惑う岬に、渚は安心させるように小さく微笑む。そして穏やかな表情のまま話し始めた。
「二人は生まれた時から覚醒していてね。恐らくそれが原因で捨てられてしまったんだと思う。赤ん坊じゃ自分の力をコントロールできないし、人前でも左目の色は変わったままだったろう。現に二人の施設の人たちも、最初は病気じゃないかと思って医者に見せたらしい。でも、病気じゃないんだ。異常なんか見つからない。」
「・・・・。」
「施設でも二人を持て余していたみたい。おまけに二人は口に出さなくても心が通じるだろう?だから、段々周りと話をしなくなっていった。二人だけの世界で良いって考えるようになってしまったんだ。」
渚がちらりとリビングに飾られた写真立てに目を移す。そこには今よりも幼い双子の写真が飾られていた。当時を思い出しているのか、渚の目が細められる。
「俺が二人の噂を聞いて施設に行った時は驚いたよ。庭で遊んでいる子供達がいたんだけど、その子達とは離れた所で二人の子供がじっと俺の方を見ていた。」
手を繋いだ双子。まるで最初から渚が自分達に会いに来たのだと分かっているかのように、二人はじっと渚を見つめていた。
「それが、大と夕だった。俺も二人を見つめ返すと、二人は合図のように一瞬だけ左目の色を変えてみせたんだ。」
橙色の瞳。まるで自分達は仲間だとアピールするような一瞬の変色。周囲が自分達を見る異常な目にその頃には気づいていたのだろう。誰に教わるわけでもなく、3歳でもう力のコントロールを身につけていた。
(だから・・・・。)
だから二人は、今でも初対面の人間にすぐには心を開こうとしないのかもしれない。岬がここに来たばかりの頃、大は怯え、夕は警戒を崩さなかった。
「俺はすぐに養子縁組みしたいって施設に申し出た。でも、俺はまだその頃22だったし、見た目もこんなだろ?ロクな職も無かったからなかなか信用してもらえなくってね。」
当時を思い出して、渚は苦笑した。養子縁組みするには収入や身分を調べられる。そう簡単に引き取れるわけではない。
「だから、シンに身元保証人になってもらったんだ。シンは中国人でもちゃんとビザも獲得しているし、何せ一会社の社長だからすぐに信用してもらえたよ。」
「そうだったんですか・・・。」
幼い二人の事を思うと胸が痛む。自分達が悪いわけではないのに疎外され、二人だけにならざるを得なかったに違いない。
「私・・・。」
「ん?」
「渚さんが、皆が居てくれて良かったです・・。」
「岬ちゃん・・。」
岬の目から涙が零れる。この人達が居なければ、きっと自分の人生は違うものになっていた筈だ。今も一人あのアパートで過去の絆にすがっていたのかもしれない。
渚は優しい目で岬を見返した。
「それは僕達も同じ。岬ちゃんに会えて本当に良かったと思ってるよ。」
柔らかな声。優しい言葉。一人きりだったあの頃では考えられない幸福な時間。
その時、胸の奥に響くような声がした。岬のパートナーが『オレも』と呟いてくれた。胸に手を当てて目を閉じる。岬はソファに座る聖の膝の上で丸くなっている雪に『私もだよ、雪』と、そっと返事をした。