第13話 前へ踏み出す 1.津田大地
玄関のチャイムが鳴る。今日は日曜だが来客の予定はなかった筈だ。新聞の勧誘だろうかと思いながら渚が玄関まで行くと、イーグルがそこでドアが開くのを待っていた。渚はイーグルの頭を撫でてから覗き穴を見る。そこにいた人物を目にして、一瞬ドアを開けるかどうか逡巡した。だが無視することも出来なくて、そっとドアノブに手をかける。
「はい。」
ドアを開けて声をかけると、その人物は渚の顔を見て目を見開いた。
ホームを訪ねてきたのはまだ9歳の少年だった。彼は渚の顔を見るなり驚いていたが、恐る恐るといった様子で「葉陰岬はいますか?」と訊いた。どうやら岬の知り合いらしい。
あいにく岬は朝からバイトに出ていて、帰ってくるのは夕方になる。その事を伝えると彼はまた来る、と言ったが渚はそれを止めた。彼は明らかに疲れた様子を見せていた。ここに来るまでに大分歩いてきたに違いない。
渚は彼をリビングに通し、ソファに座らせた。
「岬ちゃんが帰ってくるまでここに居て良いからね。」
「・・ありがとうございます。」
9歳にしては礼儀正しい。きりっとした眉に真っ黒な短髪は彼に快活なイメージを与えていて、実年齢よりも年上に見える。着ている青いパーカーは誰かのお下がりのようで、大分色落ちしていた。動物が好きなのか、足下に座ったイーグルを撫でている。
渚は紅茶を淹れると、彼の向かいに腰を下ろした。
「君は岬ちゃんのお友達?」
「・・・違います。」
「そう。」
彼は気まずい表情を見せるが、渚はにこりと微笑んだ。
「僕はここの家主で木登渚って言います。」
「・・津田大地、です。」
「大地君って言うんだ。ただ待ってるのも退屈でしょ?君が撫でてくれたその子、イーグルと遊んでてもいいし、テレビ台の中にTVゲーム置いてあるから好きにやってていいよ。」
「ありがとうございます。」
やけに丁寧な言葉遣いは岬に通じる所がある。彼女との関係が気にはなったが、追求はしなかった。
時計を見るともうすぐ3時になる時間。おやつでも用意しようと、渚はキッチンへ向かった。
大地がおもちゃのボールでイーグルと遊んでいると、ふいにキッチンから香ばしい匂いが漂ってくる。すると、エプロン姿の渚がこちらを向いた。
「おやつにするからこっちにおいで。」
一瞬戸惑ったが、笑顔で手招きされて大地は素直にダイニングテーブルの席に着いた。すると目の前に白いお皿が一つ置かれる。その上に載っているのは香ばしい匂いのホットケーキ。大地が向かいの席を見ると、自分の他に皿が二つある。そちらには少し小さめのホットケーキ。透明なグラスにはオレンジジュースが入っている。
「うちの子呼んで来るから、ちょっと待ってて。」
「あ、はい。」
パタパタとスリッパの音を立てながら、渚はリビングを出て行ってしまった。
(子供がいるんだ・・。)
彼の姿が見えなくなると肩の力が抜ける。最初から渚はとても優しく接してくれているけれど、初めて来た場所で、知らない人と一緒ではやはり緊張してしまうのだ。
時計を見ると今は3時過ぎ。岬が帰ってくるまでには後2時間ほどある。また美味しそうな匂いがして、大地のお腹が鳴った。朝出たっきり、此処に来るまで何も食べていなかったのだ。
お腹を押さえているとリビングのドアが開いた。無意識に背筋を伸ばすと同時に子供が二人入ってくる。大地よりもずっと幼い男の子と女の子。服も髪型も違うが、顔がそっくりだ。
二人は大地の向かいの席に座る。その二つだけ子供用の背の高い椅子だから、そこが二人の定位置なのだろう。
「お待たせしちゃってごめんね。こっちが大でこっちが夕。」
渚はそれぞれ順に子供の頭に手をのせながら、大地に紹介してくれた。
「二人とも、こちらは津田大地君。岬ちゃんに会いに来たんだって。」
二人は同じ顔を大地に向ける。だが、何も言う様子はない。じっと見られて、なんとなく居心地の悪い思いをする。それに気づいたのか、渚が「じゃ、冷めない内に食べて」と笑って言った。
「いただきます。」
口を付けるとメイプルシロップの甘い香りがする。ホットケーキは子供でも簡単に作れるので、大地も自分で作ることがある。けれど、それよりもずっと柔らかくて美味しかった。
「・・美味しいです。」
「良かった。」
渚がにっこりと笑う。茶色い長髪に両耳のピアス。最初は怖い人なのかと思ったけれど、彼は穏やかで優しい人だ。
すると、電話のコール音がリビングに響く。
「あ、事務所の電話だ。ちょっと下に行ってくるから、遠慮せずに食べててね。」
自宅用と事務所用の固定電話は番号が違って、判別しやすいようコール音を分けてある。リビングでも事務所の電話はとれるのだが、職業柄身内の前でも渚は仕事の電話はしない。
渚が一階へ向かうと、途端にリビングが静かになった。不意に大地が視線を感じてそちらを見ると、正面に座っていた大が大地の顔をチラチラ見ている。
「何?」
「だいち、は、いく、つ?」
もごもごと口を動かしながら言うので聞き取りづらいが、年齢を聞いているらしい。
「9歳。」
「しょーがっ、こー?」
「うん。3年生だよ。」
「たのしー?」
「ん?うん。学校は楽しいよ。」
戸惑いながらも答えると、それまで黙々とホットケーキを頬張っていた夕が口を開いた。
「来年は小学生になるから興味があるのよ。大は。」
「あ、そうなんだ・・。」
やけに大人っぽい口調で言う夕に、大とのギャップを感じてしまう。
「もしかして、夕ちゃんの方がお姉さん?」
「違うわ。双子。」
「え!そうなんだ!俺、双子って初めて会ったよ。」
「よく言われる。」
夕の言葉はそっけない。怒っているのかと思ったが、彼女の表情を見ているとそうではないらしい。
「だいち、のランドセル、何色?」
いつの間にか大の皿の上は空になっている。どうやら口の中にあるのが最後らしい。口の周りにホットケーキのかすをつけながらしゃべる姿に、緊張を忘れて思わず笑ってしまう。
「俺のは黒。」
「くろ、かー。」
「今から何色にするか迷ってんだ?」
大は大きく頷いた。
「あおか、くろか、おれんじ。」
いいな、と思う。大地が使っているランドセルはお下がりだから、色を選ぶことも出来なかった。
「夕ちゃんは?」
「赤。」
「ピンクも可愛いんじゃない?」
「・・・考えておくわ。」
大地が微笑むと、ふいっとそっぽを向かれてしまう。
(機嫌悪くなったのかな?)
すると夕がボソリと言った。
「・・渚兄も」
「え?」
「同じ事言ってた。」
「あ、そうなんだ。」
言葉を返してくれた事に安堵する。だが、夕の言葉が引っかかった。
(渚、兄?)
「渚さんって、お父さんじゃないの?」
すると大と夕が互いに顔を見合わせる。口を開いたのは夕だった。
「お兄さんだけど、お父さんなの。」
「え?」
「お兄さんだけど、私達を引き取ってくれたからお父さんなの。」
「・・・・・。」
大地の目が夕の顔に釘付けになる。フォークを持つ手が震えた。大地の瞳が揺れる。
「・・・ごめん。」
「なんで謝るの?」
「え?」
じっと夕が自分を見ている。まるで先生に怒られているみたいだ。
「・・だって、そういうのって、普通人に話したくないだろ?」
「別に。私はそうは思わない。」
「・・・・。」
「恥ずかしいことじゃないもの。」
「・・・そっか。」
するとリビングのドアが開く音がした。渚が出ていったのとは反対の、玄関に通じる方のドアだ。ぱっとそちらに目を向けると、入ってきたのは岬ではなく知らない男の人だった。思わず肩が下がる。
「あ!ひじりおかえりー!」
「おかえりなさい。」
「あぁ。ただいま。」
「ひじり、うぃーやろ!うぃー!!」
大は聖に飛びつく。「はいはい」と言って、聖はテレビ台の中からゲーム機を取り出した。テレビに接続しているのを見ながら、大が「はやくはやく!」と言って急かしている。
大地も食べ終わると、大の分のお皿も重ねてシンクに片づけた。大のグラスにはまだジュースが残っているので、それはソファに持っていってあげようと手を伸ばす。すると大に呼ばれた。
「だいちも!!」
「うん。」
グラスを持ってソファまで行く。すると聖が二人にコントローラーを渡してくれた。彼は渚と違ってにこりともしないけれど、初めて会った大地が誰なのか、どうして此処にいるのか訊ねたりはしなかった。
(あ、制服・・)
岬と同い年くらいの高校生。岬のことを知っているかもしれないけれど、「はやくはやく」と大地が急かすので、訊きたい言葉を飲み込んだ。それにやはりまだ大地も小学生。ゲームをやりたい気持ちも大きい。
最新のゲーム機は大地の家にはない。友達の家でやったことがあるだけで上手いとは言えないが、相手が大なら良い勝負かもしれない。
大地は大と並んで立つと、テレビ画面に向かってボタンを押した。