第12話 動き始める 2.シン=ルウォン
昼の日差しが暖かい。春の風は不思議と心を弾ませる。
岬は一人、ホームへの道を歩いていた。見慣れた事務所に着いて脇の外階段を上がる。玄関のドアを開けると、外よりも少しひんやりとした空気が出迎えた。
(あれ?)
いつもならイーグルが玄関まで出迎えてくれるのだがその姿はない。そう言えば家の中が静かな気がする。
(おでかけかな?)
ドアを閉めて靴を脱ぐ。廊下の奥を見ると、リビングのガラスドアからは明かりが漏れていた。
(あれ、やっぱり居るみたい。)
「ただいま・・。」
控えめに言ってリビングのドアを開ける。するとソファには二人の人物が腰を下ろしていた。
「あ、岬ちゃん・・。お帰り。」
いつもなら笑顔を向けてくれる渚の表情は硬い。不思議に思っていると、渚の正面に座っていた人物が立ち上がって岬を見た。
30代頃の黒髪の男性。アシンメトリーの髪型で、左側の長めの前髪が左目にかかってる。黒いスーツに黒のタートルネック。春の装いにしてはいささか暗い気もする。小柄な彼は岬に穏やかな笑みを向けた。
「初めまして。岬。」
「え・・。あ、初めまして。」
岬はぎこちなく頭を下げる。ちらりと渚を見るが、彼は目を足下に落としていた。その目線の先ではイーグルが渚にぴったりと寄り添うようにして床に伏せている。
「私は、シン=ルウォンと言います。今日は岬、あなたに会いに来ました。」
「え・・。あの・・」
聞き慣れない名前に戸惑う。すると彼はふっと目を細めた。
「生まれは中国です。10年前から仕事で日本にいるんですよ。」
「あ、そうなんですか。」
シンに促されて、岬は渚の横に腰を下ろす。すると渚はキッチンへ移動して岬の分のお茶を淹れてくれた。
「君のパートナーは子猫だそうですね。」
「はい。雪って言います。」
(やっぱり、この人も仲間なんだ・・。)
岬はリビングを見渡すが雪の姿はない。そう言えば、蛍の姿もなかった。
「すいません。今ちょっと姿が見えないんですけど。」
「いえ、構いませんよ。昔から動物には好かれないようなので。」
「え・・・・。」
口元は笑みをかたどっている。けれど、イーグルを見下ろしながら言う彼の表情に、岬は違和感がした。イーグルを見ると、固まってしまったように床に伏せたまま動かない。
「お仕事って何をしてらっしゃるんですか?」
話題を変えようと彼の顔を見る。するとシンはにこっと笑ってみせた。
「貿易会社を経営しています。」
「経営ってことは、社長さんですか?」
「えぇ。」
「え!すごい!」
「いえ。社長と言っても小さな会社ですから。」
渚が岬の分のお茶をテーブルに置く。それから30分ほど雑談をしていると、ふとシンは腕時計を確認した。
「申し訳ありません。もう少しお話したいのですが、そろそろ会社に戻らないと。」
「あ、そうなんですか。お忙しいんですね。」
岬は渚と共にシンを見送りに玄関へ向かう。すると、帰ってきた時には見なかった黒塗りの車が下に横付けしてあった。
「それでは、また。」
「はい。今日はわざわざありがとうございました。」
岬が頭を下げるとシンは優しく微笑み軽く手を挙げた。渚は彼と一緒に階段を下りていく。岬はドアを閉めると再びリビングに入った。
(優しそうな人だったな。)
渚の淹れてくれたお茶を飲もうとソファに座る。すると、イーグルが岬の膝の上にちょこんと顎をのせた。その姿が可愛くて、岬はイーグルの頭を撫でる。
(そういえば、仲間の人ってまだ居たんだ・・・)
渚がくれた携帯電話の電話帳にあった名前はクリスが最後だった。てっきりもう居ないのかと思っていたのに。
(まぁ、社長さんだし、簡単に携帯電話の番号を教えられる人じゃないのかもな。)
そんな事を考えながらお茶を飲んでいると、渚がリビングに戻ってきた。ぱっとイーグルは立ち上がると、彼の元に駆けていく。
「イーグル・・。」
イーグルの頭を撫でる渚の表情はやはり堅い。渚はソファまで来ると、空いたティーカップを片づけ始めた。
「ごめんね、岬ちゃん。突然で。」
「いえ。短い時間でしたけど、お会いできて嬉しかったです。」
「そう。良かった。」
渚がにこりと笑う。けれどその笑みには力がない。心配だったが、なんとなくその理由は訊けなかった。
聖の目の前で黒い車が走り出す。見覚えのある外車。その後部座席に座った人影に、聖の目が釘づけになる。
車が去ると、聖は走ってホームの階段を上がった。玄関を開けてリビングに飛び込む。
「聖くん・・・。」
ソファには渚が背もたれに背を預けて座っていた。いつもなら一階の事務所にいる時間の筈だ。
ただいまも言わずに、聖は渚の顔を見た。
「あいつが来てたのか?」
「・・・・。」
渚は一瞬目をそらした。小さく「うん」と言って、立ち上がる。
「何しに?」
「・・岬ちゃんに会いに。」
その言葉に聖は眉音を寄せる。我知らず拳を握ると、そのままリビングを出た。
渚は閉じるドアを見つめて溜息をついた。
部屋のドアがノックされる。岬は振り返って「はい」と返事をした。だが、なかなかドアは開かない。
「?」
ドアを開けようと立ち上がるのと同時にそれが開いた。顔を出したのは制服のままの聖だ。
「あ、おかえり。」
「あぁ・・・。」
「どうしたの?」
聖は言いにくそうに視線を彷徨わせた。彼にしては珍しいことだ。
「・・入っていいか?」
「うん。どうぞ。」
聖はベッドまで行くと、その上で丸くなっている雪に目を留める。床に座ってベッドの上に手を伸ばすと、触れた手のひらの下で穏やかな寝息と共にその背が上下していた。
「シンと、何話した?」
「え・・・。あぁ、学校のこととか、シンさんの会社のこととか、それくらいだけど。」
「・・そうか。」
「?」
(どうしたんだろう・・・。)
誰と何を話したかなんて、聖がそんなこと気にする性格だとは思えない。感情の読みとりにくい表情はいつものことだが、それでもどこか元気がない気がした。
「雪はね、その時リビングに居なかったからシンさんには会えなかったの。私が部屋に戻ったら珍しくベッドの下で丸まってたよ。」
「・・・・。」
「聖君?」
「え、あぁ。・・ごめん。」
「・・もしかして、体調悪い?」
「いや・・。」
岬も床に座り聖の顔を覗き込むと、彼は目を逸らすように雪を見た。それにつられて岬も雪を見る。雪は気持ちよさそうに自分の腕に頭をのせて目を閉じている。しばらく雪を眺めていると、岬の口から小さな欠伸が漏れた。
「眠いのか?」
「うん。なんか雪見てたら眠くなってきちゃった・・。」
岬がベッドの上に頭を預ける。その目は雪を見たままだが、段々と岬の瞼が降りていく。
再び欠伸をかみしめる岬を横目に、聖は部屋を出るか迷っていた。これほど岬の部屋でゆっくりとした時間を過ごすのは初めてだった。ここの空気は彼女の隣に居る時のように落ち着いていて心地良い。
気がつけば完全に岬の瞼は閉じられていた。少し開いた彼女の唇から微かな寝息が漏れている。その穏やかな寝顔が雪に似ているような気がして、聖の口元が緩んだ。
先程までの張りつめた何かが消えていく。二人の寝息はまるで子守歌のように聖の耳に届く。岬の寝顔を見ながら、聖も一つ欠伸をした。
大と夕を迎えに行く時間になって、渚は事務所から二階へ上がった。そのまま行ってしまっても良かったのだが、聖の様子が気になって彼の部屋のドアをノックする。けれど、しばらく待っても返事がない。
(出かけたのかな・・。)
ドアに鍵はかかっていなかった。開いて中を覗くが、やはり聖の姿はない。仕方なくドアを閉めて、渚は向かいの部屋をノックした。だがこちらも返事がない。
「岬ちゃん?開けるよー?」
流石に女の子の部屋を黙って開けるわけにはいかないので一声かける。ドアノブを回すと、床に人の足が見えた。
「あれ・・・。」
部屋の中には岬と聖、そして雪が居る。けれど全員眠っていた。岬は床に座り、もたれ掛かるようにしてその頭をベッドの上に預けている。彼女の膝元には聖のものであろう制服のジャケットがかけられていた。聖は床に両足を伸ばし、ベッドを背もたれにして居眠りしていた。雪はベッドの上で丸くなっている。
先程まで感じていた不安など、彼らの姿を見ていたら不要に思えた。渚は自分でも気づかないうちに微笑むと、彼らを起こさないようそっとドアを閉める。
(大丈夫。)
渚は自分に言い聞かせた。
(あの子達はきっと大丈夫。)
* * *
シンは自社ビルの最上階に位置している社長室にいた。一面ガラス張りになっている窓からは東京の夜景が広がっている。社長室の明かりは消されていた。その為、夜景がより美しく目に映る。
シンは応接用のソファに足を組んで座っている。背と頭は革張りのソファに預け、まるで天井を眺めているようだった。だが、その目は閉じられている。
静かな室内に、シンの声が響いた。
「君にも渚のあの顔見せたかったな。」
唇が穏やかな声をつむぎだす。だが、その相手はここには居ない。
「聖に会えなかったのは残念だよ。彼には長いこと会っていないからね。けど、岬はとても可愛い子だった。」
ソファ上には書類が投げ出されている。そこには顔写真とその人物に関する調査報告書が載っていた。プロフィール、生い立ちなどがその書類には事細かに書かれている。
「会えて良かったよ。」
その書類の一番上には葉陰岬、と書かれていた。