第11話 自分が揺れる 3.水族館
岬は大きな水槽を前に感嘆の息を漏らした。
青い光を放つ水槽の中では、様々な魚達が悠々とその身を翻している。自分よりもずっと高い所で泳ぐ姿を見ていると、まるで自分が海の底にいるような気分だ。
(落ち着くな・・・)
名前も知らない魚達が岬の目の前を通り過ぎる。魚の体に照明の光が反射してきらきら光る。いつまで見ていても飽きない光景に釘付けになっていると、隣に並んだ人影が視界に入った。
岬の隣に立っているのは聖だ。梓にチケットを貰ったからと言って、聖は岬を誘ってくれた。今日は水族館に夢中になっている岬の邪魔にならないよう、聖は黙って行きたい所に着いてきてくれている。
(橘くんは退屈じゃないのかな・・・)
そっとその横顔を覗いてみる。聖の目は水槽の青い光を静かに映している。
岬の視線に気づいたのか、聖が振り向いた。
「どうした?」
「ううん。先、進もうか?」
「あぁ。」
口数少ないのはいつもの事だが、岬に合わせて歩く彼のスピードや常に傍に居てくれるその行動が、いつもより優しい気がして落ち着かなくなる。
「橘くんはよく来るの?」
「ん?」
「水族館。」
「いや。」
「そっか。」
「・・あんたは?」
「実は初めてなんだ。こういうトコ来るの。」
「そうか。」
クスッと聖が小さく笑う。岬が驚いた顔をしていると、聖がちらりと岬の顔を見た。
「いや。通りで、夢中になってると思った。」
「あ・・。」
恥ずかしさで顔が熱くなる。それを誤魔化すようにあははっ、と笑った。
「高校生にもなって恥ずかしいよね。」
「そんなの関係ないだろ。」
「え?」
「そんなこと、気にする必要ない。」
「うん。・・ありがとう。」
なんだか、今日は聖の隣が心地良い。
(やっぱり優しいよ。)
こんな時、先日見た聖の冷たい態度が脳裏をよぎる。どっちも本当の聖であることには間違いない筈なのに。
(仲間には優しいってことなのかな。)
優しくしてくれるのは、岬が仲間だから。現に覚醒する以前、二人は言葉を交わしたこともなかった。聖が大切な仲間であることは、きっとこれから一生変わらない。
(なのに、心が晴れないのはなんでだろう。)
悲しむ彼女達に同情しているから?涙を浮かべる女子生徒の顔を見てしまったから?
答えの出ない疑問が次々と浮かんでは消えていく。その内に熱帯魚の水槽の前に着くとその鮮やかさに目を奪われ、それらの疑問は岬の頭の隅に追いやられていった。
「あれ。葉陰さん?」
ラッコの可愛さに目を奪われていた岬は、その声で顔を上げた。すると2m程先に男性が立っている。それはバイト先の常連客の一人。以前お店で岬に声をかけてきた人だった。けれど、今確かに彼は自分の名前を呼んでいた。不思議に思っていると、彼は「あっ」と声を漏らした。
「すいません。俺、また無意識に声を・・・」
慌てて言い訳を始めた彼の様子が前回と同じで、おかしくなって岬はくすくすと笑う。変な奴だと思われなかった事に安堵すると、彼は思い切って話し始めた。
「俺、桐生って言うんだけど、同じ月高。あ、葉陰さんの名前は東川に聞いたんだ。」
「朋に?」
「そう。俺、あいつと同じバレー部だから。なんか本屋で俺スゲー怪しい奴みたいだったじゃん?だから、その誤解を解きたいっつーか、ちゃんと葉陰さんと話をしてみたくて。そしたら東川が葉陰さんと一緒に歩いてる所見かけて、教えて貰ったんだ。」
「そうだったんだ。同じ学校だったなんて、私も知らなかった。」
朋恵の友達と聞いて、岬もすんなり桐生を受け入れる。「最近はお店で見かけないね」と岬が言うと、桐生は苦笑した。
「葉陰さんに変に声かけちゃってから、ちょっと行きづらくて・・。でも、もう大丈夫。ちゃんと知り合いになれたんだし。また行くよ。」
岬が笑って頷くと、彼女の隣にいた人影が動いた。つられてそちらに目を向けると、桐生は思わず固まってしまう。
(橘・・・。)
聖はちらりと桐生を見たが、すぐにラッコに目を戻した。
先ほどまでの浮かれた気分が一気に下降する。以前聖に彼女がいるか確認したのは桐生自身だ。その時相手の名前までは聞けなかったが、二人で水族館にいるという事はデート以外考えられない。
言葉を失っている桐生を不思議に思っていると、少し離れた場所から「圭吾ー!」と声がした。その声に我に返ると、桐生は力のない声で「あ、じゃあ、友達が呼んでるから」と言って、岬に弱々しい笑顔を見せる。
「うん。またね。」
お互いに手を振って別れ、桐生は付き当たりの通路を曲がった。
「知り合い?」
ずっと岬の隣で話を聞いていた聖が、ぽつりと呟く。岬は待たせてしまったことに気づいて「ごめんね」と言った。
「バイトしてる本屋の常連さんなの。学校が同じなんて知らなかったからびっくりしちゃった。」
「ふーん。」
聖はつまらなそうにそれだけ言うと、次の水槽へ歩きだしてしまう。岬はその後ろについていくと、小さな個室になったそこはクラゲの水槽だった。
「わっ・・、綺麗・・。」
紫色のライトに照らされて、クラゲ達がふわふわと浮いている。海の中を再現した他の水槽とは違い、クラゲ以外は真っ黒だった。お陰でクラゲ自身が光っているようにも見える。それを際だたせる為なのか、ここだけは他より照明が落とされている。
なんの音もしない静かな空間。まるでクラゲの一つ一つが大きな花のようだった。ここが水族館であることなど忘れてしまいそうな不思議な光景に、岬の足は止まってしまう。
5分ほど魅入っていると他の客は移動してしまい、いつの間にかそこは岬と聖だけになっていた。
「なぁ。」
「ん?」
岬が隣を見ると、聖の目は水槽に向いたままこちらを見ようとはしない。聖の言葉を待っていると、彼が息を吸う音が聞こえた。
「一つ、頼みがあるんだけど。」
「え、・・何?」
聖がこんな事を言うなんて珍しいことだ。第一、岬が聖にしてあげられることなど思いつかない。
すると、聖が岬の顔を見た。
「フリでいいから、俺とつき合ってくれないか?」
岬は今、水族館の中に併設されているレストランの席についていた。館内の二階部分にあるそのレストランからは、一階のペンギンの展示が見下ろせるようになっている。幸い窓際の席に座ることができたので、岬はそこからペンギン達を眺めていた。
聖は今席にはいない。このレストランではお客が自分達で好きな料理を取りに行き、その後会計を済ませる形式を取っている。聖は岬の分まで料理を取りに行ってくれていた。お金を渡そうとしたが、バレンタインのお返しだからと断られてしまい、こうして先に席で待っているのだ。
男性にお金を払って貰うなんて、まるでデートのようで今更ながら意識してしまう。岬はペンギンの動きを目で追いながらも、頭の中は先程の聖の言葉で一杯だった。
『フリでいいから、俺とつき合ってくれないか?』
聖の言葉の真意が分からず、岬は混乱したまま聖を見る。すると、彼はその訳を話してくれた。クリスマスやバレンタインなどの行事で、女子の対応に困ったこと。周りで色々噂されるのに疲れていること。それらを解決する為に考えた結論が彼女を作る、ということだった。けれど今聖にその気になる相手はいない。だから学校で噂になっている岬なら周りもすんなり受け入れるだろう、と思ったらしい。勿論無理強いはしないし、岬に好きな相手が居るなら断ってくれて構わない。それにフリを始めても、岬に好きな相手が出来たら言ってくれればすぐに辞める。聖のその言葉に、岬はすぐに頷くことは出来なかった。
確かに岬にも今つき合いたいと思う相手はいない。周りの勝手な行動に困っている聖の力になってあげたいとも思う。けれど嘘を付くのには抵抗があった。それにそんなに自分は器用な人間じゃない。嘘をつき通す自信はなかった。
結局返事は出来ないまま、二人は昼食を食べにこのレストランに入ったのだった。
カタンッと音がして顔を上げる。すると聖が二人分のパスタとドリンクをのせたトレイをテーブルの上に置いた。
「ありがとう。」
「うん。」
いただきます、と言って早速食べ始める。渚の作ったパスタの方が美味しいかも、とか眼下で動いているペンギンの話をしながら、二人は昼食を食べ終える。
残ったドリンクを飲んでいると、聖が岬の顔を見た。
「別に、嫌なら断ってくれていいから。」
「え・・、あ・・・・。」
話しながらも岬が悩んでいるのが分かったのだろう。聖はそう言うと、その目を外の景色に向けた。胸の内をどう説明したらいいのか分からず、岬も外に目を向ける。
「私、嘘付くの上手じゃないよ?」
ぽつり、とそう言うと聖からはすぐに言葉が返ってきた。
「あぁ。知ってる。」
「・・・。」
面倒な事を嫌う聖にとって、気の許せない相手と一緒にいる事は苦痛に違いない。けれど、つき合っているフリをするという事は、嫌でも二人の時間が増える事になる。そんなことを聖が進んでするとは思えなかった。
「皆の前でつき合ってるフリをするってなると、結構大変だよね?」
「かもな。」
「・・じゃあ、どうして?」
岬が聖を見ると、彼はペンギンから目を逸らさずに言った。
「あんたと居るのは嫌じゃない。」
聖の声が耳に届いて、岬の心を大きく揺らす。自分が動揺しているのは明らかだった。
(仲間、だもんね・・・)
心臓を落ち着かせようと、何度もそう自分に言い聞かせる。自分を見ようとしない聖の横顔から目が離せなくなる。
さっきまで頭に浮かんでいた聖の提案を断る理由がぐらぐらと揺れて、どこかに行ってしまう。
気付けば、岬は首を縦に振っていた。