第11話 自分が揺れる 2.ホワイトデー(2)
「あら、皆いらっしゃい。」
「梓さん!!」
岬は驚きで目を丸くする。中に入ると、そこはモダンな家具で統一されたモデルルームのような空間だった。けれど観葉植物が多く置かれていて、どこか落ち着く雰囲気のリビングになっている。
「ここ、梓さん達のご自宅だったんですね。」
「そうよ。驚いた?」
「はい。すごいマンションですね!」
大と夕は二人で大きな窓まで駆けていく。岬は渚達と一緒にブラウンの大きなソファに腰を下ろした。すると、前にある大型液晶テレビが置かれた台の隅から、何か黒いものが覗いているのが視界に入る。タオルでも落ちているのかと思って近づくと、それはパッと岬の手から逃れるように動いた。
「え?」
タタタタッと黒い影がフローリングの上を駆けていく。するとそれに気がついた大が、嬉しそうにその後を追いかけた。それを目で追うと、大が追いかけているのは黒い兎だった。
「もしかして、クロ?」
「そうよ。岬ちゃんは会うの初めてだったわね。あの子臆病だから、逃げられちゃっても気にすることないわよ。」
「あ、はい。」
そう言って、梓はトレイを持ってソファまで歩いて来た。その上には紅茶が入ったティーカップがのっている。
「ありがとうございます。」
ソファに戻って梓が煎れてくれた紅茶に口を付けると、いつも飲んでいるものよりも豊かな香りが鼻腔をくすぐる。紅茶には詳しくないが、ほっとするような優しい香りだった。
するとキッチンに戻った梓の後について、クロもキッチンへと走っていく。クロが梓を慕っているようで、自然と岬の顔には笑みが浮かぶ。
次に梓が戻って来た時には、ホールのケーキを持っていた。最初は生クリームのケーキかと思ったが、テーブルに置かれたものをよく見ると、それはホワイトチョコレートでコーティングされている。
「すごい!これホワイトチョコですか?」
「そ。私と渚で作ったのよ。紅茶はクリスからね。」
ホワイトチョコレートの上にはビターチョコで『Happpy White Day』の文字。夕と岬の為に三人が用意してくれたケーキだった。
それを見て大と夕も集まってくる。渚が切り分けてくれたそのケーキはイチゴやブルーベリーなどのフルーツが沢山サンドされていて、チョコの甘さとベリーの酸味が丁度いい。あっと言う間に食べ終わって紅茶のお代わりを飲んでいると、いつの間にか梓の膝の上にはクロが丸まっている。
岬が見ているのに気づいたのか、梓はクロの背中を撫でながら「クロ。岬ちゃんよ」と声をかける。するとクロは体を起こして岬の方をちらりと見た。まん丸の黒い瞳と目が合う。
「はじめまして。」
恐る恐る声をかけると、クロは梓の膝の上からジャンプした。
逃げられちゃったかな?と思ったが、そうではなかった。クロは梓の膝から岬の膝の上に移動したのだ。クンクンと確認するように、膝の上に置かれた岬の手の匂いをかいでいる。しばらく岬はじっとしていたが、クロが移動する様子はなかったので、そっとその背に手を伸ばした。
柔らかい毛が岬の手のひらに触れる。触れることをクロが許してくれた気がして嬉しかった。
写真などが飾られている棚は扉部分がガラスになっていて、中のものが表から見えるようになっている。本が多いことに気づいて岬が何気なく眺めていると動物、特に爬虫類の図鑑が目に付いた。
「あの、お二人は爬虫類とかお好きなんですか?」
訊ねた岬の目線の先を見て、梓が目元を細めた。
「あぁ。あれは私のなの。」
「え?梓さんの?」
「えぇ。岬ちゃんには、私のパートナーのことまだ話してなかったわね。」
その言葉に岬は頷いた。先日会った時にはゆっくり話をする時間がなかったのだ。
梓は、その目線の先を窓の外に向ける。空はオレンジ色に染まり、真っ赤な太陽がその身をコンクリートで覆われた陸地の向こうへ沈めようとしていた。
「私はね、高校一年の時に覚醒したの。丁度夏休みに入ったばかりの時だった。最初はただの夢だと思ってた。」
「夢?」
「そう。その頃、ジャングルみたいな場所に自分が居る夢を見たの。それこそ毎日のように。」
懐かしむような梓の顔は笑っている。岬は一言一句聞き逃さないように、じっと梓の顔を見る。
「面白いのよ。まるで這うように地面を進んだり、するすると自分が木を登ったりするの。時には見たこともない大きな鳥に食べられそうになったこともあった。でもね、その内に気づいたの。自分は夢の中で蛇になっているんだって。」
「蛇?」
「えぇ。それも大きな蛇。私の見ている夢は白黒で、その蛇がどんな色をしているのかは分からないけど、自分の視界にある太い胴体や長いしっぽの模様を見たわ。それからその蛇は一体なんていう名前で、どこに生息しているのか気になってね。自分で調べるようになったの。」
「じゃあ、あの本はその時に?」
「えぇ。でも、やっぱり色が分からないと特定が難しくてね。でも、その内に夢と現実が分からなくなった時があった。」
「え?」
「起きてる時にもその蛇の映像が頭をよぎる時があったの。その時は白昼夢でも見ているのかと思ったけど。でもそうじゃなかった。ある日、言葉にならない声が聞こえたの。」
繰り返し頭の中に響く誰かの声。微かな時もあれば、強く自分の心を揺さぶる時もある。最初は一方的な受信でしかなかったものが、段々とこちらからの意志が届くようになって、その内にそれは会話になった。
「それが私のパートナーなのだと分かったのは随分後のことだった。私にそんな知識はなかったし、ちゃんと認識したのは渚と知り合ってからだった。それでも何か分からないその声を不思議と受け入れていたのよ。奇妙なことだとも、気持ちが悪いとも思わなかった。」
岬ちゃんなら分かるでしょう?と梓が微笑む。岬はその言葉に頷いた。パートナーの存在は理屈ではない。まるで生まれた時から傍にいた存在のように、いつのまにか自分の心の中に居るものだから。
「当たり前だけど、その蛇には名前はなくてね。でも会話するなら名前は必要でしょう?だから、私は石榴って呼んでたわ。」
「ざくろ?」
「えぇ。彼と会話をしている時、私の目は赤く変化するの。だから石榴石っていう真っ赤な宝石から取って、石榴。」
まるで自分の子供につけた名前のように、嬉しそうに梓はそう教えてくれた。
「けど、それも長くは続かなかった。」
「え?」
「覚醒して半年ぐらいで、石榴が亡くなったの。」
「・・・・。」
梓はそっと目を閉じる。
パートナーの死。今の岬では想像もつかない。今の自分になくてはならない存在。雪が居ないことなど、失うことなど考えられない。
岬は何も口にすることが出来なかった。けれど、梓は優しく微笑む。
「蛇は元々ほ乳類と違って寿命が短い生き物だし、彼が生活していたのは野生の地でしょう?仕方のないことだった。一度会いに行きたいと思ってたけど、当時高校生の私には石榴を探しに行くだけのお金も時間もなかったし。」
「・・・・。」
石榴が死ぬ瞬間、梓の元には何の言葉も届かなかったけど、それが分かった。梓は何度も『死なないで』と言葉をかけ続けたけど、石榴は死を拒絶しなかった。自らの死はジャングルの営み、生命のサイクルの一つだと彼は誰に教わるわけでもなく理解していた。石榴の肉体が全ての動きを止めた時、彼の中にあったのは安らかな喜びと少しの寂しさだけだった。
「結局、石榴の姿を一度も見ることは出来なかった。けどずっと繋がっていたから、それを後悔したことはないわ。」
「・・梓さん。」
「あら、そんな顔しないで。」
岬は慌てて目元に溜まった涙を拭う。終始、梓は笑顔だった。それなのに自分が泣いたりしたらいけないのだろう。
「梓さん。石榴のお話してくれて、ありがとうございました。」
「いいのよ。岬ちゃんにも知っていて欲しかったの。こちらこそ聞いてくれてありがとう。」
梓はそっと岬の頭を撫でた。
石榴は居なくなってしまったけれど、今の自分は一人じゃない。石榴が逝ってしまったあの日、まだパートナーのことなど何も知らなかったクリスが、ずっと一緒に居てくれた。黙って自分の話を聞いてくれた。次の日も、梓を心配して渚が自分の元を訪ねて来てくれた。
そして今、この子達がいる。パートナーという存在と出会った子供達。梓はずっとこの子達を、そして彼らのパートナーを守ろうとあの時誓った。
いつの間にか太陽は沈んで、空はオレンジ色から紫色へのグラデーションに染まっている。冬の空には大きな一番星が輝いていた。
夜になると、仕事で顔を出すことが出来ないクリスがわざわざ夕と岬に電話をかけてきてくれた。岬達はそのままマンションで夕食を済ませると、名残惜しみながらも二人の自宅を後にする。
最後に玄関を出ようとしていた聖は靴を履こうとした所で、玄関まで見送りに出ていた梓に引き留められた。
「ひーじーり。」
「?」
梓は皆が先に玄関を出たことを確認すると、聖の肩を抱いて小声で話しかける。
「これあげる。」
梓が聖に差し出したのは水族館のチケットだった。
「いや、俺は・・」
大達にでもあげた方が喜ぶだろうと思って、断ろうと口を開くと、最後まで言わせずに梓は言葉を続ける。
「あんた、ホワイトデー用意してないんでしょ。」
「・・・・。」
梓にまで言い当てられて、聖は言葉を詰まらせた。それが分かったのか、楽しそうに梓は苦い顔をする聖にチケットを握らせる。
「夕はともかく、岬ちゃんにはちゃんとお礼しなさいよ。」
そう言ってウィンクすると、梓は聖から離れてヒラヒラと手を振った。聖はチケットをコートのポケットに入れると、その笑顔に見送られながら渚達と共にマンションを出た。
* * *
「う・・ん・」
「・・梓?」
深夜。同じベッドの中で苦しそうに寝返りを打つ恋人が気になって、クリスはそっと彼女の頭を撫でた。指でおでこにかかる髪を掬ってやると、そこには汗が滲んでいる。
眠りが浅かったのだろう。その呼びかけに応えるように、梓はゆっくりと目を開いた。
「大丈夫か?」
隣で心配そうに自分を見つめるクリスを見て、梓は小さく頷く。体を彼の方に向けると、自分の頬に触れていたその手に自分の手を重ねた。
「時々、夢を、見るの・・。」
「夢?」
「・・そう。石榴の夢。」
きっと今日は石榴の話をしたからだろう。夢の中の自分は、必死に石榴の影を追っていた。
「・・もう、世界のどこにもいないのにね。」
それでも左目が時折うずくのだ。そう呟くと、クリスは梓の左瞼に優しくキスをした。そのまま彼女の腰を引き寄せてそっと抱きしめる。梓はその温もりに身を預けた。自分よりも少し高いクリスの体温。全身に暖かさを感じてまた瞼を閉じる。
耳元でクリスが囁いた。
「夢を見ればいい。君と石榴の大切な思い出だから。」
クリスの唇が梓の額に降りてくる。梓の瞼に涙が滲んだ。
「夢から覚めても君は一人じゃない。」
「クリ、ス・・。」
瞼を開く。クリスと目が合うと、彼はそっと唇を重ねた。石榴というパートナーを失って空いてしまった梓の空洞を埋めるように何度もキスを繰り返す。
「ん・・。」
次第に深くなっていく恋人の口づけに、梓は再び瞼を閉じた。