幕間 冬の温もり
その日、岬は何の物音もしない静かな朝に目を覚ました。上半身を起せばひんやりとした空気を感じて、ベッドの上に掛けていた上着に袖を通す。布団の中で丸くなっている雪を起さぬようそっとそこから抜け出し、窓に掛かった黄色のカーテンを開けた。
「ん・・・。」
眩しい光が飛び込んでくる。一瞬逸らした目を再び窓の外へ戻すと、岬は言葉を失った。
リビングに置かれたデジタル時計に表示されている日付は1月2日。大晦日、年明けと連日皆遅くまで起きていたので、リビングに入ったのは岬が一番初めだった。時刻はまだ朝7時半。あと30分もすれば渚も起きてくるだろう。
電気ケトルに水を入れて、岬はリビングの大きなカーテンを開ける。窓際の空気は冷たいが構わず窓を開け、サンダルを履いてベランダに出た。吐いた息が白くなり、両手を暖めるようにこすり合わせる。
「すごい・・。」
思わず漏れた声は目の前の景色に向けられていた。昨日までの見慣れたそれとは異なる街の風景。何者にも染まらない真っ白な雪が街を覆っているのだ。雲間から漏れる日光が雪に反射してキラキラと光っていた。
「へぇ。積もったねぇ。」
「あ、渚さん。おはようございます。」
「おはよう、岬ちゃん。」
振り返るとグレーのセーターを着た渚が微笑んでいる。岬は渚と一緒にリビングに戻り、彼の朝食の準備を手伝った。
8時を過ぎれば段々と皆も起きてくる。聖と夕、大が揃った所で朝食を囲んだ。
巽や梓、クリスは実家に帰省している。岬は昨年までお世話になっていた孤児院に年賀状を出したが顔は出さない予定だ。なんとなく孤児院の皆の顔を見るには抵抗があった。先生達に一人暮らしを反対されていたことも、引き止める幼い子供達の顔もまだ岬の胸の中に残っている。後悔はしていないが、胸を張って皆に会う勇気は無かった。
「こーえん行こ!こーえん!!」
朝食を食べ終わると真っ先に大がそう言って席を立った。だが、急に出した大声に誰も驚かない。朝食を食べながらずっと大がウズウズしていたのは誰の目にも明らかだったからだ。
「ハイハイ。分かったら歯を磨いて準備しておいで。」
「はーい!!」
渚に気持ちの良い返事をするとバタバタと洗面所に向かって駆けていく。落ち着いた声で「ごちそう様」と言った夕もそれに続いた。大のように雪で興奮した様子を表に出してはいないが、やはり気持ちは同じなのだろう。それを微笑ましく見ていると、渚はテーブルの上を片付けながらまだ座っている岬と聖にも声を掛けた。
「僕はイーグル連れてあの子達と公園行ってくるけど、岬ちゃんと聖君はどうする?」
「俺も行くよ。」
「良かった。興奮した大を一人で見るのは大変だからね。岬ちゃんは?」
にこにこと笑う渚が岬を見る。聖は食後のお茶に口をつけた。
「あの、私も行きたいです。雪と一緒に。」
「そっか。じゃあ、皆の準備が出来たら一緒に行こうか。」
「はい。」
昨日よりも冷たい朝の空気が頬に触れる。ダウンにマフラーと防寒している岬は手袋をしていない手で雪を抱いていた。当の雪はと言うと、生まれて初めて目にした積雪に目を奪われ、珍しく岬の腕の中でじっとしている。てっきり大と同じように遊びまわるのかと思っていた岬は、言葉にならない雪の心を感じ取り黙って共に雪景色を眺めていた。
目の前では大が誰にも踏まれていない真っ白な雪の上ではしゃぎまわっている。それはイーグルも同じで、共に公園を駆け回っていた。渚は傍で笑いながらそれを見守り、聖は夕と二人で雪ダルマを作っている。
『ユキ・・・?』
ふいに自分に語りかけてきた小さな声が聞こえて、岬は腕の中の雪をそっと撫でた。
『うん。これが“雪”。真っ白で綺麗でしょう?』
『・・・キレイ。』
『うん。綺麗だね。雪と同じ。白くて綺麗。』
銀色の目が岬を見上げる。まん丸の目にはまるで夢と現実の狭間にいるような、そんな戸惑いが見える。
『私ね・・』
岬は周りの景色に目を向けながら呟いた。
『雪に初めて会った時思ったの。空から降ったばかりの新雪みたいだなって。真っ白で綺麗で柔らかそうで、思わず触れたくなるような・・。そんな仔だなって。』
『ミサキ。』
『ん?』
『アリガトウ。』
『うん。』
『俺に、名前をくれてアリガトウ。』
あぁ。胸の中心が温かい。真冬の寒さも今は感じない。お互いがお互いを支えるこの関係があの日始まって良かった。雪と出会って岬は独りじゃなくなった。孤児院を出て一人になった寂しさを埋めてくれたのはこの小さなパートナーだった。
『・・お礼を言うのは私の方だよ、雪。』
雪を抱く腕に少しだけ力を込める。腕の温もりを確かめるように、感謝の気持ちを伝えるように。
『私を探してくれてありがとう。』
「葉陰。」
恐る恐る足元の“雪”に触れる雪を見ていた岬は突然名前を呼ばれて振り返った。けれど自分がしゃがんでいるせいで相手の足元しか見えない。慌てて首を上に向けると、自分を呼んだのは聖だった。
「あ、はい。」
「俺達は帰るけど、あんたはどうする?」
「え・・。」
公園の中央に見える時計を見るともう11時過ぎ。公園に来てから2時間近く経っていた。生まれて初めて見る“雪”に夢中な雪に夢中だった岬は、過ぎた時間に全く気がついていなかった。確かに意識してみれば随分自分の手も冷えている。渚はそろそろ昼食の準備を始めるのだろう。まだ遊び足りなそうな大・夕と手をつないで公園を出る後姿が視界に入った。
雪はまだ“雪”に興味がありそうだが、触れた手足が冷えてる。雪はあまり寒さに強くないし、そろそろ戻った方がいいだろう。
「雪。」
岬が呼ぶと、雪はすっと上を見上げて岬を見た。
「そろそろ戻る?」
雪の銀色の目は白い景色と岬の顔を何度も往復する。けれど岬の提案を受け入れ、彼女の足元に擦り寄った。それを合図に岬は再び雪を抱き上げる。温めるようにそっと冷たくなった雪の前足に触れた。
「行こうぜ。」
「うん。」
聖と並んで歩き始める。すると5分程で聖が空を見上げた。
「降ってきたな。」
岬も同様に空を見る。すると灰色の雲から白い雪がひらりひらりと舞い降りていた。
キッチンでは渚が昼食の準備をしている。興奮冷めやらぬ大はリビングでイーグルと追いかけっこをしていて、夕と聖は温かいお茶を飲みながらソファでテレビを見ている。
岬はリビングの大きな窓前の床にクッションを置いて座っていた。その膝の上には雪が丸まっている。けれど雪は眠っている訳ではなく、ずっと真ん丸い目を窓から見える空へ向けていた。まるで空から舞い降りる雪を一つとして見逃さないようにしているかのように。
家の中とはいえ窓の傍は冷たい空気に触れるだろうに、それも気にならないのか岬と雪はそこから動かなかった。岬はゆっくりと雪の背中を撫でている。
二人は今、パートナーである二人でしか分からない心地よさを感じていた。喜びと感動を何のフィルターも通さずに相手に伝え、それを共有する。二人だけの大切な時間。
不意に肩に掛かった毛布に気付いて岬は振り返った。
「あ・・、ありがとう。」
「ん。」
それだけ言うと聖は再びソファに戻る。岬は毛布の端っこを雪の邪魔にならないよう体の上に掛けて再び空を見上げた。
雲のかけらが降ってくるような真冬の光景はその温度と反比例して岬と雪の心を暖めるのだった。