第8話 胸を焦がす 1.神楽梓(1)
岬は今、女性の腕の中でその身を堅くしていた。自分よりも遙かに高い身長のその女性からは仄かに百合の香りがする。スーツに身を包んでいても分かるショーモデルの様なプロポーションに、はっきりとした目鼻立ち。少しつり上がったその目は紫のシャドーで彩られ、彼女の高貴さを際だたせていた。
「会いたかったわ~!岬ちゃん!」
自分の名前を知っていた事に驚いたが、それよりもぎゅっと抱きしめられて身動きがとれない。岬は「あの、離して貰えませんか・・・。」と、なんとか言葉を発すると、彼女のしなやかな腕から解放された。
「あら、ごめんね。つい興奮しちゃって。」
赤い口紅がひかれた唇が優雅に弧を描く。背中まで伸びた艶やかな黒髪が揺れた。
岬が学校から帰り、リビングに顔を出すと突然彼女に抱きつかれたのだ。まだ聖は帰って来ていなかった。
唖然として何も言えない岬に、その様子を見ていた渚が笑った。
「あはははっ。ごめんね、岬ちゃん。驚かせちゃって。」
「あの・・・。」
渚と彼女の顔を交互に見ると、口を開いたのは目の前の女性だった。
「はじめまして。神楽梓よ。よろしくね。岬ちゃん。」
「え、あ・・。」
彼女が名乗った名前に覚えがあって、岬は慌てて頭を下げた。
「よろしくお願いします。」
(この人が、神楽梓さん・・)
先日クリスがここへ訪れた時に話をしていた女性だ。岬と同じパートナーを持つ人物。仲間の一人。
丁寧な岬の態度に好感を持ったようで、梓は艶やかに微笑む。その笑顔に見惚れていると、突然梓が岬の腰を両手で掴んだ。
「え??」
「あら、見た目より細いのね。身長160cmくらい?肌が白いわね~。でもちょっと乾燥してるみたい。ちゃんとお手入れしてる?この時期は気をつけなきゃだめよ?」
次々と体のあちこちを触られ、岬は再び身を堅くした。
「梓、岬ちゃんがびっくりしてるから。」
「あら。ついつい気になっちゃって。ごめんなさいね。」
「いえ・・・。」
解放されて思わず息を吐く。二人はソファへ移動すると、渚が紅茶を淹れてくれた。
緊張しながらも、梓の正面に座った岬は質問を口にする。
「あの、クリスさんからイタリアでお仕事してるってお聞きしたんですけど、いつ日本にお帰りになったんですか?」
梓はティーカップから口を離すと、にこりと微笑んだ。
「日本には今日帰ってきたの。」
「今日!!」
驚きで目を丸くする岬を見て、梓は満足そうに頷いた。
「そ。だって私がイタリアに行ってる間に、クリスが岬ちゃんに会ったって言うんだもの。」
それを聞いて、渚がクスクスと笑う。
「そんな事で張り合わなくても。」
「あら。渚に連絡貰ってから、私だってずっと会いたかったのよ。それなのに、クリスは岬ちゃんが可愛かったとか、いい子だったとか褒めちぎるし。くやしいじゃない!!」
手入れされた眉が潜められる。力一杯そんな事を言う梓に、岬は思わず吹き出してしまった。
「あら、やっと笑ったわね。」
「あ・・。」
「いいのよ。思った通り、笑った顔の方が数倍可愛いわ。」
これ程の美人に褒められるとなんだか恐縮してしまう。岬は顔が赤くなるのを感じながら、「ありがとうございます。」と小さく頭を下げた。
梓が腕時計をちらりと見る。すると落胆の様子で溜息をついた。
「残念。時間だわ。もう行かなきゃ。」
「え!もう、ですか?」
「えぇ。この後打ち合わせが入ってるのよ。」
「お忙しいんですね・・・。」
(せっかく会えたのに。)
そう思うと、残念な気持ちが広がる。すると梓が名刺を差し出した。
「・・これは?」
「私の名刺。実はね、10日に私がデザインに関わっショップが表参道にオープンするの。その前日にマスコミ向けにお店をお披露目するんだけど、良かったらお友達と一緒に遊びにいらっしゃい。」
そう言って梓は岬にウィンクする。
「え!お店を出すんですか!?」
岬はバイトに明け暮れていたこともあって、これまでそれ程ファッションに興味はなく、服も友達と比べれば全然持っていない。流行にも敏感な方ではないが、それでも表参道にお店を持つ、と言うことがどれだけ凄いことかは分かる。
「そう。初めて自分のブランド専門店を出すことになったの。この日はお買い物が出来ないけど、マスコミとゲストのみの招待だからゆっくりお店を見れると思うわ。その名刺見せれば入れるようにしておくから。」
再び岬にウィンクする。岬は「是非伺います。」と返事をして、梓にお礼を言った。
渚が梓を車で送っていくというので、岬は玄関まで二人を見送った。ドアが閉まると、改めて手の中の名刺を見る。そこにはファッションデザイナー 神楽梓と書かれ、彼女の事務所の連絡先などが載っていた。
(すごいな・・・。どんな服を作る人なんだろう。)
少しドキドキする胸を持て余しながら、岬は自室へと戻った。
* * *
小谷菫はその日、数名の男子生徒に追われていた。何度か目にしたことのあるその生徒達は、目の色を変えて自分を追いかけてくる。
別に小谷が彼らを怒らせてしまった訳ではない。むしろ逆だった。彼らは小谷のファンなのだ。
今年の文化祭でクラスメイト達に推薦されて、小谷はミスコンに出場することになった。乗り気ではなかったのだが、周りにノリが悪いと思われるのも嫌で出場を決めた。そして一年生の小谷が昨年優勝した先輩を押さえて、見事ミスに選ばれたのだ。観客の評価では、控えめな小谷の態度がウケたらしい。
それ以来、学校中の生徒達に名前が知られることとなったのだが、気が弱い小谷は声をかけてくる知らない男子生徒達の扱いに困っていた。周りの友人達は面白がるばかりで、モテることで本当に小谷が悩んでいるとは思っていない。
12月に入ってクリスマスが近づくと、彼氏のいない小谷に声をかける生徒が更に増えた。小谷は今、そんな生徒達から逃げているのである。彼らは小谷が素っ気ない態度をとっても、それにめげずに追ってきたのだ。
小谷は目の前のドアを開けた。表札には保健室と書かれている。先生がいるこの場所なら流石に追っては来ないだろうと思ったのだ。だが、小谷の予想は外れた。保健室の中に先生はいなかった。
乱れた息を整えながら、とっさにベッドに隠れてカーテンを引いた。するとバタバタと数人の男子の足音が近づいてくる。彼らは保健室のドアに掛けられた『出張中』のカードを見ると、そのドアを開けた。
ガラッという音に思わず体が震える。足音がベッドに近づいてくる。そしてその手がベッドのカーテンを開けた。
シャッ
カーテンを開けたその男子はベッドを見て顔を青くした。そのベッドには小谷ではなく一人の男子生徒が眠っていた。彼は音に気がつくとめんどくさそうに目を開ける。そして、ベッド脇に立っていた男子を見上げた。
その男子はベッドに寝ていた人物をよく知っていた。自分を睨んでいるのは学校の有名人、橘聖だったのだ。
「す、すいません!!」
慌ててそれだけ言うと、彼らは再びバタバタと保健室から逃げ出した。
昼寝を邪魔した彼らに特に興味はないのか、聖は開けられたカーテンにも構わずに目を閉じる。そして再びスヤスヤと寝息を立てた。
小谷は彼らが出ていった事を不思議に思いながらも、安堵の息をついた。そして周りの物音を注意深く聞きながら、そっとカーテンを開ける。すると隣のベッドのカーテンは開けられたままになっていた。そこには黒髪の男子生徒が眠っている。
小谷の知り合いではない。けれど、周りの友達がよく噂をしているから知っている。
(・・橘君だ・・・。)
橘聖という生徒を近くで見たのは初めてだった。男子達が怖いと言っているのを来たことがあるが、こうして寝顔を見ているとそんな生徒には見えない。
窓から注ぐ柔らかい昼の光が彼の横顔を照らしている。穏やかな寝息を立てるその姿は小谷の心を揺らした。
(助けてくれたのかな・・・)
小谷はこれまで身近な男性を好きになったことがなかった。クラスの男子達は皆子供に感じたし、自分に声をかけてくる生徒達も皆小谷の理想とはほど遠い。友達には理想が高いと言われたが、それを譲る気は起きなかった。いつか自分の前には理想の王子様が現れる。そのことを信じて疑わない。
そして今、その王子様が目の前にいる。
小谷を助けてくれた優しい人。男子達が逆らえない強い人。そして小谷の前で無防備な姿を見せる可愛い人。
小谷は彼に釘付けになっていた。昼休み終了のチャイムが鳴るまで、小谷はそこから離れることが出来なかった。
【登場人物紹介】
・葉陰岬(16):月高1-4。色々抱えている大人しめな女子高生。
・橘聖(16):1-3。色々な意味で月高の有名人。マイペースで面倒くさがり。
・木登渚(25):見た目も口調も軽い双子の父。
・神楽梓(27):ファッションデザイナー。自身もモデル並の綺麗なお姉さん。
・小谷菫(16):ミス月高。普段は大人しいが思い込むと一途。聖に一目惚れ?