第5話 瞳怯える 1.泣く
日曜日。岬はバイトも休んで、今日は朝から引越しの為忙しく働いている。
悩んだ末、結局はホームでお世話になる事にしたのだ。金銭的な理由もあるが、雪と一緒に暮らせるというのが大きな理由だった。
車は渚が出してくれた。元々荷物が少ないのに加え、荷物運びもホームの人達が手伝ってくれているのでまったく引越し費用はかかっていない。やはり家賃も払うといったが、渚に断わられてしまった。
信じられないほどの好意を渚は示してくれている。あくまで仲間と言っても家族のようなものだと、渚を始め皆もそう思っているようだった。
しかし、それはどこか岬にとっては抵抗のある言葉だった。自分は本当にここに居ていいのかと、渚達と話している間ふと思うことがある。それは彼らと知り合ったばかりだから思うのか、それとも・・・。
「これも運んでいいの?」
後ろから可愛らしい声がかかった。振り返ると岬を見上げている二人の子供が居る。一人は肩ほどの髪を二つにくくり、かわいいピンクのワンピースを着ている女の子。彼女の名前は木登夕。隣に居る同い年の男の子は大。二人は渚の子供だ。
岬に声をかけてきたのは夕だった。対して大はどこか遠慮しているような目つきでこちらを伺っている。どうやら大よりも夕の方が積極的らしい。それとも大は人見知りする性格なのだろうか。
「うん。お願いします。」
そう言って、二人一緒に衣類の入った小さなダンボールを抱えながら歩いていく。
岬は二人のそっくりな背中を見送った。そっくりなのは当たり前だ。彼らは一卵性の双子だった。年を重ねていけば男女の双子なのだから違ってくるだろうが、彼らはまだ5歳。しかし、髪型と服装で違いは分かる。
「渚兄じゃま。」
すると荷物を持って前を歩く渚に、夕が声をかける。それを聞いて岬は首を傾げた。
(なぎにぃ?)
父親である渚を何故そんな風に呼ぶんだろう。不思議に思う岬の表情に気付いたのか、渚が岬を見て笑った。
「僕ってお父さんよりお兄さんって感じでしょ?」
その言葉に岬はふふっと笑う。もしかしたら、渚がそう呼ぶように夕に言ったのかもしれない。
「そうですね。」
岬は渚に並ぶと、ホームの玄関をくぐった。
一通り荷物を部屋に運び終わって、岬は部屋の整理を始めた。今頃渚は昼食を作ってくれている筈だ。
岬の部屋は廊下を曲った手前の左側の部屋。向かいは聖の、隣は以前教えて貰った旭川巽の部屋だった。
住居の問題は解決したはずなのに、岬は漠然とした不安を抱えていた。それが何なのか考えたくなくて、必死に部屋の荷物を整理し続ける。
岬の部屋にはすでに渚が用意してくれたベッドとタンス、勉強机があった。タンスとベッドは前からあった物だが、机はわざわざ買ってくれたらしい。岬が自分の勉強机を持つというのは初めてだった。けれどそれを見て最初に感じたのは、なんだか申し訳ない、という気持ちだった。
衣類をタンスにしまって勉強道具に手をつける。机の上に教科書を置くと、なんだか嬉しい気持ちがひっそりと遠慮がちに生まれてくる。子供の頃はいらないと言っていたが、やはりどこかで周りの子供達を羨ましいと思っていたのかもしれない。
それに気付くと嫌な予感が岬の胸を一瞬横切る。岬の顔が本人の気付かぬうちに暗くなった。だがドアのノックの音にすぐに元に戻る。
「岬ちゃんお昼だよ。」
ドアからにこやかな渚の顔が出てきてそう言った。渚は前に会った時と違い、スーツではなく普段着にエプロンをつけている。こうしてみると確かに若いお父さんと言った感じだ。渚のころころ変わるイメージに、なんだか思わず笑みがこぼれる。
「はい。ありがとうございます。」
リビングへ入ると、イーグルと遊んでいる雪の姿が目に入る。こちらに気付くとすぐに駆け寄って来た。
『ミサキ!』
「イーグルと遊んでたの?」
『うん。イーグル、怖くない。』
「そっか。良かったね。」
雪を抱き上げたところでイーグルがこちらに来て岬を見上げた。雪を下ろしてイーグルの頭を撫でると、気持ちよさそうな顔をしてイーグルは雪の顔を舐めた。
「イーグルは誰かの面倒見るのが好きなんだよ。」
まるで親子のようなイーグルと雪の姿を眺めていると、隣で渚が言った。
「岬ちゃん。席は聖君の横ね。」
「はい。」
聖、夕、大はもう席に着いている。ダイニングテーブルには椅子が5つあり、キッチン側の左には大、右には夕が座っていた。リビング側の左が岬のために空いている席で、大の正面に当たる。隣には聖が座っていた。もう一つ空いている席には渚が座るのだろう。
テーブルの上にはパスタが並んでおり、渚が紅茶を煎れている。リビングの端には雪、イーグル、蛍の餌が用意されていて、3匹はすでに食事にとりかかっていた。
岬は恐る恐る席に着いた。すると大がずっとこちらを見ていることに気付く。目が合うがすぐに逸らされてしまった。その様子を見て夕が不機嫌な顔をこちらに向ける。どうやらこの双子にはあまり好かれていないらしい。
紅茶が全員の下に来て、渚が席に着く。彼が「いただきます。」と言うと、それぞれのテンポで皆の声がそれに続いた。岬も最後に小さな声で「いただきます。」と言う。全員が言ったのを確認して、渚が「召し上がれ。」と笑って言った。
その瞬間、岬の中である感情が湧き上がる。目の奥が熱くなり、食べようをしていた手が思わず止まった。隣の聖がこちらを見たのに気付いて我に返る。そして再びパスタに取り掛かった。
聖は岬の様子に気付いていた。一瞬眉根を寄せるがここで問いただすわけにも行かず、とりあえずは放って置く。その隣では渚が夕と話していた。
そういえば岬が来てから大と夕の様子がおかしい。二人とも人見知りはするが、仲間である岬をここまで警戒するのは何かが変だった。
(警戒?)
確かに夕は警戒と言った感じだが、大は何か違う。何だか怯えている様な・・。けれど岬を見る目にはすがっているような雰囲気がある。こんな二人を見るのは初めてだった。
食事が終わって渚が片付け始める。岬は手伝おうとしたが、またしても断られてしまった。
『部屋行く!部屋!』
そう言って雪は一緒にリビングの扉まで来た。ふと後ろを見ると、蛍が聖の背中に飛び乗っている。そのうんざりした聖の顔を見て、思わず笑ってしまった。そんなことも知らずに相変わらず蛍は嬉しそうに聖にくっついている。
蛍は本来のパートナーのことは忘れているのかもしれない。それともパートナーとは仲が悪いのか。そんなことを考えながら岬はリビングを後にした。
岬が再び部屋の整理を始めて小一時間経つと、終わるのを待つことができなかったのか新しいベッドの上で雪は寝息を立てていた。何だか岬もつられて寝てしまいそうだ。思わず床に座ったままベッドに寄りかかる。そのまま眠りの誘惑に勝てず、うとうとと重い瞼を閉じた。
そこは白黒の世界だった。色というものが一切ない。目の前には白くて小さな塊がもぞもぞと動いている。
よく見るとそれは雪だった。雪はまだ子猫だが、目の前の雪は今よりももっと小さい。だが左目を見て雪だとすぐに分かる。
小さな雪は消えてしまいそうなほどか細い声で鳴いている。何だか泣いている様に聞こえるほど悲しい声だ。
近づこうとするが、足が何かに掴まれているように動かない。さっきは気付かなかったが、雪の周りにだけ白黒の世界が広がっており、岬の居るところまでは届いていない。それ以外の部分はただのどこまでも広がる黒だ。そこはまるでモノクロの映画館のようになっている。観客は岬、その映画の主人公は小さな雪だ。
雪の周りには誰も居ない。そのスクリーンに映っているのはたった一匹だけで、ただどこかを目指して歩き続ける子猫だった。子猫は小さな背中を見せて、頼りない足取りで一人、歩き続けている。
岬は泣きそうになっていた。理由は分からない。ただ歩き続けるその子猫の背中に『もうやめて』と、叫びたくなるような衝動にかられていた。ふと主人公は振り返る。そして、唯一の観客と目が合った。そして思わず岬は叫ぶ。
「わた・・・・・・」
そこは見慣れない部屋の中だった。もしかしたら見るのは初めてかもしれないその天井を、岬はぼんやりとした頭で見つめている。頭の中が次第にすっきりとしてきて、ようやく自分は夢から覚めたことを悟った。
ゆっくりと雪の方を見てみると、まだ雪は夢から覚めてはいない。雪が、なぜかいつもより小さく見えるのは気のせいだろうか。丸くなって眠っている姿が、まるで何かに怯えているように見えた。
窓の外を見るともう夕暮れ時だ。岬は途中で終わってしまっていた部屋の片づけを再び始めた。段々ととホームに出来ていく自分の部屋に、なんだか足が浮くようなおかしな感覚を覚える。
けれど、同時に心のどこかでまたあのアパートに帰らなくてはいけないような、そんな気持ちが存在していた。誰かと一緒に暮らしている自分を受け入れる事が出来ないでいるのかもしれない。
何故だろう。岬の目の前にはいつも壁が存在している。そしてそこから先は誰も進む事はできない。その理由はまだ、誰も知ることができないでいる。だ誰も、本人でさえ。
ふと、岬が片付けている手を止めた。音が聞こえてくる。向かいの聖の部屋からはラジオの音。リビングのほうからは渚が夕飯の支度をしている音とテレビの音、そして夕と大の遊んでいる声が聞こえる。
まだ岬の手は止まっている。まるでそれが心地よい音楽であるかのように、大きな音を出せば聞こえなくなってしまう秋の虫の声のように、じっと耳を澄ましていた。
岬は気付いていないが、それは雪も同じだった。岬の邪魔をしないように目を瞑ったまま耳を立てている。
どれぐらい二人はそうしていただろうか。カラスの鳴き声で我に返る。瑠璃だ。窓の方を見ると瑠璃が窓辺に止まっていた。
岬はそっとそちらに行き窓を開ると、瑠璃はカラスとは思えないほど静かに優しげに岬の勉強机の椅子の上に止まった。そして岬をまっすぐに見つめる。
「そっか、ごめんね。」
岬はそう言うと慌てて部屋のドアを開ける。雪は興味深げに瑠璃を見ていたが、瑠璃が部屋を出て行ってしまうと分かるとその後を追いかけていった。雪が瑠璃を獲物と勘違いしていないよね、とちょっと心配になる。
一人になってしまった部屋の中で、岬はまた、部屋の片づけを再開した。
本日2度目となる渚からの食事の呼び出し。その頃に、岬は部屋の片付けを終わらせていた。
リビングに入ると夕と大が渚の手伝いをしている。聖はイーグル、蛍、雪に餌をやっている。
それを見ていると、何故かリビングの入口より先に足が進まなくなってしまう。なんだろう。岬はどこか場違いな所にいるような気がしてならなかった。
――カエリタイ。
そんな言葉がどこかに生まれる。どこに帰ると言うのだろう。子供の頃育った場所、一緒に居た人、育てくれた人。そこがいわゆる故郷と言う場所だろうか。なら・・・。
『オレは、帰りたくない。』
驚いて前を見ると、その言葉を発したのは雪だった。雪が岬をじっと見ている。どうやら岬の心を雪が知ってしまったようだ。その声に苦しいほどの強い思いを感じる。その言葉からは憎しみに近い感情を読みとることができた。
『ミサキと会う前に、ミンナと会う前に戻りたくない。ミサキ、帰りたい?ここがイヤ?キライ?』
『違うよ、雪。そんなこと思っていないから。違うの。』
雪が岬の方へ歩いてきた。白い彼を岬はそっと抱き上げる。優しく撫でてやると、雪は安心したように喉を鳴らした。
「ワン!」
イーグルが珍しく吠える。どうやら食卓への催促のようだ。ダイニングの方を見ると皆もう席についている。渚がこちらを向いて、言った。
「岬ちゃん、おいで。食べよう。」
その声に、雪を抱いたまま岬はゆっくりとテーブルの方へ歩き出す。
岬の異変に一番早く気付いたのは雪だった。雪が岬を見て遠慮がちに鳴く。その後に、聖が思わず声をかけた。
「おい・・、どうした?」
「えっ・・・?」
岬はそこで初めて皆がこちらを見て、驚きに打たれているのに気付いた。それから、雪が岬の顔を前足で触れる。そこで始めて、岬は自分の涙で雪前足が濡れている事に気付いた。それからそっと自分の涙の軌跡に触れる。
何故、自分は泣いているのだろう。その答えを探すようにテーブルに座っている仲間達に目を向ける。しかしその答えを知っているものはいない。岬以外は。
「すいま・・せん・・・。」
やっと岬の口から搾り出した言葉はそれだけだった。渚が、どうしたら分からないと言った顔で岬に近づいてくる。その手には洗濯されたばかりのタオルが握られている。
「岬ちゃん・・・・。」
渚はそれ以上何も言わなかった。ここで追及されないことが、岬にとっては救いだった。
「顔・・・・洗ってきます。」
岬はタオルを受け取ると、顔を隠すようにしてリビングから出た。人前で涙を流すことは初めてだった。思い当たる節はある。だが、今までその理由で涙を流すことなんてなかった。なぜ、この場で涙は岬の意思に従わず突然溢れ出てしまったのか。その理由に岬はまだ気付いていない。
岬が居なくなったリビングは静まり返っていた。渚は心配そうに岬が出て行ったドアを見つめている。夕は気にも留めていない様子でテーブルに目を落としている。大はどこか落ち着かない様子で夕の事をちらちらと気にしている。そして聖は何かを考えているようだった。自分の中に残る疑問を晴らそうと、答えを持っている人物に声をかけようをするが、それを躊躇っている。
その人物は、渚だった。聖は渚が確実に答えを持っていると確信している。その視線に気付き、渚が聖の方を振り向く。そして、躊躇がちに口を開いた。
「岬ちゃんは、中学卒業まで孤児院で暮らしてたんだよ。もしかしたら、今の状態に戸惑っているのかもね。」
「孤児院・・・・」
その言葉を聴いて、初めて興味を覚えたかのように夕が渚の方を向き、大も夕から視線を外し、渚を見た。聖はそんな二人とは反対に、渚から視線を外して岬が消えたドアを見つめた。
「学校じゃ、全然そんな風には見えなかったけどな・・・・。」
(たぶん、誰も知らないだろうな。)
聖は声に出さずに、そう思った。
「渚兄・・・。」
夕が口を開く。その顔は怒っているような、恐れているような複雑な表情だった。とても5歳の子供の表情ではない。それとは対照的に、大は明らかに怯えている。まるで、何か悪さをして起こられる歳相応の子供の表情だった。
二人を見て、渚は複雑な表情を見せる。
「俺が知っているのはそれだけだよ。彼女は3歳のとき施設に入っている。中学卒業と同時に一人暮らし。学費は奨学金で何とかしているけど、生活費を施設が出してくれるはずもなく、彼女は毎日アルバイトをして生活費を稼いでいる。一人暮らしは相当反対されたらしいよ。女の子が一人で何の頼りも無く暮らすのは難しいからね。」
渚は探偵の顔で淡々とそう言った。感情をひた隠しにしているように聖には見えた。
きっと渚なら彼女の事を調べるだろうと分かっていた。けれど彼女の事を理解するには、まだ謎が多すぎるような気もする。だが、それは心に深くかかわっている問題で、簡単に解決できるものではない。どうしたら良いか、決して答えのあるものではないのだ。そして、それを理由に拒絶する者など居る訳はない。ここに住む者は全てそういう人間なのだから。
洗面所で、岬は一人考えていた。
(何をしているんだろう。今までやってきたようにすれば良いだけなのに。人前で泣いて良い訳が無い。泣けば皆が気にかけてしまう。・・・私は、もしかして、今まで我慢していたの?それが我慢できずに今?そうだとしても、これ以上心配させてはいけない。)
『ミサキ。ヤダ。』
『雪?』
『ミサキ、泣かない。ヤダ。』
『何言ってるの?』
『ミサキ』
『駄目だよ。』
『ミサキ、オレ』
「やめて!」
どこからともなく、途切れ途切れの低い声が聞こえる。岬だ。岬が、渚に渡されたタオルに顔をうずめて泣いている。誰にも聞こえないような、小さく、低い声で。その声は、リビングからついてきた雪だけに届いている。
それから十分後、岬の顔は何も無かったかの様に、普通に戻っている。普通は泣いた後目の周りや花のあたりが赤くなっているものだが、普段の顔つきだ。どういうわけか岬は小さな頃にあったある事をきっかけに、それ以来泣いた後の顔の回復が早かった。
普段どおりに笑う岬の姿に、何も言わずに皆食事を始めた。
その中でただ一人だけ、岬には目もくれずに黙々と食事を進めていた。
(どうでもいい。あの人が泣こうがどうしようがどうでもいい。どうだって構わない。)