第4話 光を失う 3.髪
朝、下駄箱前の廊下に彼女達の姿があった。昨日と違うのは眼鏡の女子がいないこと。岬の様子を伺っている所を見ると、どうやらあの後眼鏡の彼女とは合流していないらしい。
岬は彼女達を視界に納めながらも、こちらから話しかける気にはならなかったのでそのまま教室へと向かった。
* * *
「嘘吐き。」
ショートの女生徒に肩を突かれ、岬は後ろによろけた。そのまま校舎の外壁に背中が当たり、鈍い痛みとコンクリートの冷たさを感じる。
ここは校舎周りに植えられたブナの木に囲まれ殆ど日の当たることが無い場所なので、昼休みでも空気は冷たく薄暗い。
岬は昼休みと同時に彼女達に呼び出され、ここまで連れて来られていた。
「・・・・・。」
彼女の言っている言葉の意味を理解することが出来ず、岬は次の言葉を待った。
「あんた、昨日橘君とは付き合ってないって言ったよね?」
「・・はい。」
「はい、じゃ無いわよ!」
彼女が怒鳴ると同時に痛みが走る。見ると彼女に髪の毛を掴まれていた。
「ちょ、痛っ・・。」
「昨日の眼鏡かけた子、覚えているでしょ。あの子が言ってたのよ。あんた橘君の彼女らしいじゃない。」
憎憎しげに彼女の顔が歪んだ。彼女の言葉は完全に誤解だが、それを言っても信じて貰えないだろう。
どうしたら、こんなこと止めてくれるのだろう。
「黙ってれば分からないとでも思ってた?馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ!」
また、掴まれた髪を上に引っ張られる。その痛みに思わず目を瞑り、恐る恐る開いた時には仲間の一人が取り出したハサミが鈍く光るのが見えた。
それを見れば彼女達が何をしようとしているのかなんて考えなくても分かる。その瞬間、岬は昔の自分を思い出していた。
長い髪を可愛いと言ってくれた幼い男の子。それを見れば遠くにいてもすぐに分かると彼は言った。だから、私は・・・
恐ろしい予感が背筋を走る。これまでの何もかもが駄目になる。私は一生見つけてもらえなくなる。
「髪は止めて!!」
言った瞬間、痛みを感じる筈のない髪にハサミの冷たい感触を感じた。パラパラと落ちる短い髪の束に目が離せず、逆に段々と薄れていく少年の姿。
岬の目から、初めて涙がこぼれた。それを見て囲んでいた女生徒達は初めて自分達がやったことに気付いたかのように表情と硬くして後ずさる。まずいと書かれた顔を見合わせ、何も言わずにその場を走り去っていった。だが、岬にはそんな彼女達の姿は見えていない。彼女が切ったものは髪ではない。岬にとって、それは希望だった。
か細い糸のような希望。それすら絶たれてしまった。
(本当は、分かってた。)
そっと、短くなった髪の束に触れる。
(いい加減、もう・・)
弱弱しく、口元は笑みの形になる。
(諦めろ、って事なのね。)
弧を描く唇が涙で濡れた。昼休み終了のチャイムが鳴り響いたけど歩き出す気にはなれない。寒さを感じてそっと腕に触れると冷えた肌に辿り着く。冷たい壁に寄りかかり、上を見上げると木漏れ日が目に溜まった涙でキラキラ光って見えた。
上に向かって溜め息を付くと力が抜けた。今まで必死に抱えていたものが簡単に無くなってしまった気がした。
「ん?葉陰は休みか?」
向けられた教師の視線の先には授業をサボったりしない真面目な生徒の姿は無い。ちらりと朋恵は岬の席を見る。昼休みにちょっと席を離れたきり、結局彼女は戻ってこなかったのだ。今までこんなことは無かったのに。
「先生。ちょっと具合が悪いみたいで保健室に行ってます。」
「あぁ、そうか。」
単純な嘘だったが教師は信じてくれた。それだけ岬も朋恵も真面目な生徒だと教師達には認識されている証拠だった。
今はそれに感謝して、朋恵はもう一度岬の席を見る。心配しても何も出来ないのだが、それでも心配せずにはいられない。こんな時、普通なら携帯電話でメールでもすればことは済むのだが、岬は携帯を持っていない。親友は一人で抱え込む性格だけに、余計こんな時は心配になる。
(まさか、橘絡みじゃないでしょうね・・・。)
岬は決して人に疎まれたりするような性格ではない。それなのに最近一部の生徒達が岬のことを良く思ってはいない。はっきり言ってそれは全て橘聖が関わっているからなのだ。朋恵もそれが聖のせいではないことも、彼がこの状況を好んでいないことも分かっている。しかし、回りを全く気にしない彼の主義が岬に関しては返って裏目に出ている気がする。
朋恵にしては珍しく、少しイライラしながら授業を終わるのを待った。まだ40分以上あると考えたらそれは途方も無い時間に感じた。
「橘!」
掛けられた声が硬い事に気付いて、聖は素直に振り向いた。その先には厳しい顔をした朋恵がいる。彼女にしては珍しい表情だ。彼女は廊下を小走りで進み、聖の前に立った。
「ねぇ、岬見なかった?」
「いや。今日は見てない。」
「そう。」
朋恵は何か考え込んでいるようだった。その表情に、聖は昨日の事を思い出して嫌な予感を覚える。
「何かあったのか?」
「さっきの授業に出なかったの。授業サボるなんて初めてだし、携帯持ってないからどこにいるのかも分からなくて。」
「・・・・。」
「何か知ってるの?」
朋恵はじっと聖の顔を見る。その表情からは何も読み取る事は出来ない。
「捜してみる。」
聖の言葉に、朋恵は片眉を上げる。
朋恵は最近岬がどうして聖と仲良くなったのかは聞いていない。つい先月までは橘聖という人物自体を知らなかった筈なのに、いつの間にか親しげに話をするまでになっている。しかも、相手はただの男子生徒ではない。滅多に人に関心を示さない聖なのだ。そして、聖自身もこうして岬を心配するまでになっている。
好奇心から疑問を口にしたかったが、他人の人間関係に首を突っ込むのは無礼だと分かっている。朋恵はその事については言及せずに、ただ頷いた。
「・・分かった。じゃあ、見つけたら知らせて。私はこれから保健室に行ってみる。」
「あぁ。」
朋恵と別れると、聖は廊下の窓から校庭を見渡す。昨日の女子と一緒ならば、人気の無い所にいる可能性が高い。頭の中で幾つか候補をあげると、その中から聖は一番近い場所へ走り出した。
「葉陰。」
体育座りの状態で顔を伏せていた岬は、自分を呼ぶ声に顔を上げた。そこには聖が立っていた。
「橘君・・・。」
良く見れば、彼は息を切らしている。自分の事を捜してくれたのだろうか。
「ごめん。捜してくれたの?」
「・・それ、どうした?」
岬の質問には答えずに、聖はそっと岬の髪に触れる。そこは切られてしまった場所だった。
「あ・・・。」
「泣いてた?」
今度は聖の手が岬の頬に触れる。そこには涙の後が残っていた。「泣いてない」と言っても、誤魔化す事は出来ない。
何も言えずに、岬は目を逸らす事しか出来なかった。
「ごめん。」
「え?」
聖の謝罪に、岬は再び聖を見た。その顔は苦々しく眉根が寄せられている。自分を責めているようだった。
「ちが・・・・。橘君が悪いんじゃないよ!」
「・・・・・・。」
「!?」
突然岬の視界が遮られる。気付いた時には岬は聖に抱きしめられていた。力強い聖の腕に、岬は再び涙が零れそうになる。
けれど、その腕はすぐに離れた。
「ここにいて。」
「え?」
そう言い残して、聖はすぐに駆け出した。戻ってきた時には、岬の鞄を持っていた。