第3話 影を追う 2.木登渚(2)
「え、あ、・・いえ。そういえば、家賃はおいくらなんですか?」
「あぁ。ここは仲間の為に造った家なんだ。仲間からお金は取らないよ。」
「え!!」
ポカン、と岬は口を開けたまま渚の顔を見る。
「で、でも。食事代や光熱費だってかかるし・・・。」
「僕は仲間の事は家族だと思ってる。ここをホームと呼んでいるのはそういう訳なんだよ。家族と一緒に暮らすのに、お金を取ったりはしないでしょう?」
「・・・・。」
家族。その言葉が再び岬の心を揺らす。それを感じ取ったのか、雪がイーグルから目線を岬に向けた。気遣うように、膝の上に置かれた岬の手を舐める。
(雪・・・。)
動揺を隠すように、岬は雪の背を撫でる。その様子を気にしながらも、渚は説明を続けた。
「ここはね、僕だけのお金でやってる訳じゃないんだ。仲間の中で、社会人として働いているのは他に三人いてね。彼らもここに暮らす子供たちの為に出資してくれているんだよ。もし、岬ちゃんがお金のことを気にしているんだったら、いつか君が働くようになった時に、彼らと同じようにここを必要としてくれている子供の為にお金を出して欲しい。」
「・・・孤児院みたい、ですね。」
そう岬が呟くと、渚は少し目を伏せて笑った。
「似たような物なのかもしれないね。」
「・・・・。」
岬は口に出してしまった事を後悔した。誰だってそんな言われ方は嫌に決まってるのに。
「ごめんなさい・・・。」
「謝らなくていいよ。」
変わらず、渚は笑顔を向けてくれる。
(優しい人だな・・。)
「部屋、見てけば?」
隣に座って話を聞いていた聖が、そう口を開いた。
「そうだね。折角ここまで来たんだし。参考に見て行きなよ。聖君、案内してあげて。」
「あぁ。」
立ち上がる聖に続いて、慌てて雪を抱いて岬も立ち上がる。するとするりと腕の中を抜け出して、雪はイーグルの元へ歩いて行ってしまった。
「雪・・。」
「仲良くなったみたいだね。」
二匹の様子を見て、渚が微笑む。
「岬ちゃんは見に行っておいで。」
「はい。」
軽く頭を下げると、聖と共にリビングを出た。すると正面に長い廊下が続いている。そこには同じドアが4つ、向かい合わせて並んでいた。
「ここが俺の部屋。後、はす向かいが別の奴が時々使ってる。」
聖が指したのはリビング側の部屋だった。その向かいの部屋と、聖の隣の部屋が現在空いているらしい。
「入ってみるか?」
「うん。」
岬の返事を聞くと、聖は自室の向かいの部屋を開けた。6畳の部屋の正面には窓があり、左側の壁際にベッド、右側に腰の高さ程の横長のキャビネットがある。一人部屋としては十分な広さだった。
「造りは他の部屋も全部同じ。まぁ、別に無理に今日返事しなくてもいいから。」
「あ、うん。」
聖は岬が躊躇っているのに気付いていたのだろう。そう声を掛けてくれた。家賃もいらないなんて好条件で頷かない理由を訊き出さない優しさがありがたかった。
「橘君。」
「ん?」
「今日はありがとう。」
「あぁ。」
リビングに戻ると、雪がイーグルにじゃれあって遊んでいた。戻ってきた二人を見て、再び渚がキッチンから顔を見せる。どうやら夕食の準備をしていたようだ。
「岬ちゃん。良かったら夕飯食べていく?」
「え?」
にっこりと微笑む渚に、岬は申し訳無さそうに頭を下げた。
「すいません。今日はこれで帰ります。」
「そう?残念。」
「あの、それで、お願いがあるんですけど。」
「ん?何?」
「しばらく、ここで雪を預かっていただけないでしょうか?」
その言葉に聖と渚は顔を見合わせる。
「管理人さんから、すぐに雪だけはアパートから出すように言われてたんですけど、友達の家もちょっと難しくて、まだ雪をアパートに隠してるんです。」
「そっか。勿論構わないよ。」
迷いのない渚の言葉に、岬はほっと胸を撫で下ろした。
「雪の餌とか、すぐに持ってきます。」
「じゃあ、家まで送るついでに僕が取りに行くよ。」
「あ、でも。ご迷惑じゃ・・。」
「夕飯の支度はもう済んじゃったし、車で行くから大丈夫。岬ちゃんがまたここに戻ってくるのも大変でしょ。」
エプロンを外して、渚はテキパキと外出の準備を整える。岬は再び渚に頭を下げた。
「ありがとうございます。」
「いいよ。仲間なんだから、そんなに畏まらないで。」
「・・はい。」
初めて会った人なのに、仲間という理由だけでこんなに親切にしてくれる。それがなんだが不思議な気がした。まだ、岬にはその親切をストレートに受け取れないでいる。
イーグルの元まで行くと、しゃがみこんで彼にじゃれている雪に手を伸ばした。
「雪。ごめん。一緒に帰れないけど、また来るからね。」
そっと彼の背中に触れる。雪は真ん丸い目を岬に向けた。
『ミサキ。いっしょ、ない?』
「うん。しばらくの間だけだから。」
『・・・・・。』
「ここなら、一人じゃないでしょう?」
『ミサキ、いない。』
「・・ごめんね。」
優しく彼の柔らかい毛を撫でる。雪は少し頭を下げて黙ってしまった。雪の様子に気付いたのか、イーグルが鼻を雪に摺り寄せる。
「雪をよろしくお願いします。」
岬がそう言うと、まるで言葉が通じたかのようにイーグルは一度頷いた。それ見て立ち上がる。
「行こうか。」
「はい。」
渚と共にリビングを出た。振り向いたけど、雪は岬に背を向けたままだった。
「一階の探偵事務所って、木登さんがやってらっしゃるんですか?」
「うん。そう。」
黒のセダンを運転しながら、渚はそう答えた。
「あ、僕のことは渚でいいから。」
「・・はい。」
「この車も職業柄こんな地味なの乗ってるんだけど、本当は真っ赤なやつとかが良かったんだよねぇ。」
確かに。見た目の印象からすると、渚は派手なのを好みそうだった。思わずくすっと笑ってしまう。
「やっと笑った。」
「あ・・。」
街灯の光に照らされながら、渚がそっと岬を見て笑う。渚のようにかっこいい人なら、きっとこの姿を見ただけで女性は心を奪われてしまうに違いない。
「高校生で一人暮らしなんて大変じゃない?」
「・・はい。」
「僕達みたいにパートナーを持つ人間は、結構普通に生活するのが難しいんだ。特に生活力のない子供の場合はね。」
「・・・。」
渚がハンドルを切る。カーナビは後10分ほどで岬の家に着くことを示している。
「だから、僕達はあの家を造ったんだ。家賃がいらないっていうのもその為。たとえ仲間でも、他の子供達と同じように苦労せずに学生生活を送って欲しいからね。」
「・・そう、なんですか。」
「聖君から聞いてるよ。バイト頑張ってるんだって?」
「はい。」
「無理にとは言わないけど、あそこで岬ちゃんが生活する事で、少しでもそれが楽になる手助けになるのなら、僕も仲間達も嬉しいよ。」
「・・・。はい。」
渚の気持ちも、まだ会ったことのない仲間の気持ちも、岬にとってはとても嬉しいものだ。それでも、岬は頷くことが出来なかった。決心がつかなかった。
未だ諦められない思いがある。それが仲間と共にホームで暮らすことを拒んでいた。
「よろしくお願いします。」
雪の為に揃えた餌や猫用トイレ、餌皿などを渚に渡し、それを車に運ぶと岬は渚に頭を下げた。
「うん。」
「後、・・・引越しの事なんですけど、もう少し考えさせてください。」
「うん。全然いいよ。決めるのは岬ちゃんなんだし。もしペットOKの所が見つからなくても、今みたいに雪だけ預かってもいいしね。」
「はい。ありがとうございます。」
岬はアパートの前で渚の車を見送った。すぐにその車は角を曲がって見えなくなる。
自分の部屋に戻ると、雪が来る前の、一人で生活していた部屋に戻っていた。これからしばらくは家に帰ってきても雪が迎えてくれる事はない。
クッションに座ってパラパラと住宅情報誌を捲る。渚に考えさせて欲しいと言ったものの、やはりすぐに引越しが出来そうな物件など他には見つからない。溜息をついて、情報誌を閉じた。
雪の最後の姿が浮かぶ。雪は独りであそこに残される事を望んではいなかった。
(嫌われちゃったかな・・・)
でも、あそこにいれば寂しい思いをすることはないだろう。自分は学校やバイトで家に居ないことが多い。渚の所なら常に誰がいるに違いない。人が居なくてもイーグルがいる。瑠璃だってあそこには顔を出すのかもしれない。
独りじゃない。それは大切な事だから。
テーブルの上に立てられた小さな鏡を見る。そこには自分の顔が映っている。
(・・私は、独り?)
鏡の中の自分は、もう小さな子供じゃない。
岬はそっと鏡を伏せると、夕飯の準備の為に立ち上がった。