第3話 影を追う 1.猫
朝、寝ていた布団が動いて目が覚める。布団から出た彼女が起きて顔を洗っている間、自分の体温で暖まった布団の上で伸びをして、眠気に身をまかせてもう一度布団に落ち着いた。思いっきり欠伸をした後に頭を両腕の上に乗せて、今度は朝ごはんを作る彼女の後姿を見つめる。彼女の朝食が出来れば同時に自分もご飯にありつける。それまでもう少しかかるだろうから、布団からはまだ降りなくていいだろう。
心地良い程度の冷たい朝の空気が彼女の開けた窓から入ってきて、自分の毛並みを撫でていく。するともう一度欠伸が出た。トントントン、と彼女が音を出す。朝と夜に彼女が台所に立つ時必ず聞く音だ。俺はこの音が好きだった。いつでも一定で流れる音が心地よく、それに合わせて自然と尻尾が揺れる。
やかんから湯気が立つとそろそろ食事が出来る合図。そういえばミサキと出会ってすぐの頃、湯気を捕まえようとして熱いものに触ってしまい、それ以来やかんには近づかないようにしている。白く柔らかそうな湯気は好きだが、熱いのは嫌いだ。
あ、食事を持ってきた。俺が手をかけられる程の低いちゃぶ台に料理を並べ、最後にやかんからお湯を注いでお茶を淹れる。やれやれ、やっとか。
俺は布団の上から降りると、小さく鳴いて彼女に頭から擦り寄る。ミサキは俺におはようと言い、俺も『おはよう』を返した。頭と背中と顎の下を撫でられ、俺の皿の前に移動すると彼女が俺の食事を運んでくれる。今日はマグロの缶詰とにぼし。その匂いに思わず飛びつくと、彼女は驚き短い悲鳴を上げた後、「びっくりした」と俺に笑った。
食事を終えて俺は自分の身だしなみを整えていると、着替えて支度の終わった彼女はカバンを持って玄関に向かう。それを見て俺は彼女を見送る為にドアの前に行く。彼女が「いってきます」と言ったので俺は『行って来い』と返した。すると「ちょっと違うよ」と彼女がまた笑った。
『ミサキ。』
俺が名前を呼ぶと、彼女も俺の名前を呼ぶ。
「何、雪?」
雪、というのは彼女が付けてくれた俺の名前だ。俺の毛の色が雪のように真っ白だから、とその理由を教えてくれた。雪は白くて綺麗で、冬にしか見ることが出来ない特別なものだという。俺がまだ見たことの無い『雪』もいつかミサキと一緒に見ることが出来たらいい。
「いってきます。」
もう一度ミサキがそう言うと、重いドアが閉まり手を振る彼女の姿が見えなくなる。
俺は玄関から布団の上へ走り、その上の窓枠に飛び乗る。そこからはいつも学校へ向かう彼女の後姿が見える。それが見えなくなった後洗濯機置き場へ向かい、洗濯機を足場にして今度は小さな窓に足をかける。人も通れないほどの小さな窓。その横についている鍵の開け方をミサキに教えて貰ってからは、ココを開けて散歩に向かうのが俺の日課。後ろ足で立ち、前足で思いっきり鍵のタブの部分を叩く。するとカチッと音がして、錠が下に下がり窓が開く。後はその隙間に体を滑り込ませればいい。
ホラ、開いた。
窓から出るとすぐ下にこの建物を囲っている塀がある。その上に上手く飛び乗り、後は好きな所に行けば良いだけ。今日はミサキが行ったのとは反対に歩こう。
ご機嫌で雪が小窓から外へ身を踊りだした時、ぽかんと口を開けてその様子を見ている人物がいた。
本当に、それは突然だった。
バイトから家に戻って夕飯の支度をしていると、家のチャイムが鳴った。ドアの覗き穴を見ると、そこには管理人さんが立っている。何だろうと不思議に思って扉を開けると、管理人さんは岬の顔を見る前に部屋の中を覗いたように見えた。
「こんにちは。」
そう挨拶する中年女性の管理人さんは、いつもと違って厳しい表情をしていた。
「・・・こんにちは。どうなさったんですか?」
「葉陰さん、あなた猫飼ってるでしょ。」
「え・・・。」
一瞬色々な言い訳が頭の中を駆け巡る。しかし管理人さんの目が一点を見ていることに気付いて、岬はただ謝るしかなかった。
* * *
「はぁ。」
どうしよう。その言葉だけがグルグルと頭の中を回っている。何度問いかけても答えは出てこない。
自分が住んでいるアパートはペットが禁止されている。そんなことは重々承知していた。だが雪は自分の中でペットではないし、最初はその事すら気付いてはいなかった。
昨日、管理人さんの言葉を否定することは出来なかった。あの時岬の部屋にはまだ散歩から雪が帰ってきていなかったが、部屋に猫用の餌皿があったのを見られているし、何より雪と一緒に暮らさないことなど考えられなかった。
管理人さんはペットと暮らすのを辞めるか、それともアパートを出て行くかどちらにするように、と言った。岬は即座にアパートを出ます、と答えた。すると、引越し先が決まるまでは待つが、その間ももちろんペットと一緒に暮らすことは許さないと言われたのだ。
管理人さんの言うことは全て正しい。契約違反をしたのは自分だし、すぐにでも出て行けと言われないのは正直ありがたい。岬が女性であることやまだ学生であることを考慮してくれたのだろう。
雪と一緒に暮らすにはペットOKの物件を探さなくてはならないけど、当然家賃は高くなる。岬の現状ではそれは不可能だ。それに次の物件が見つかるまでだとしても、雪を野良にすることなんて考えられない。
「岬。」
「ん?・・・何?」
思考から顔を上げると朋恵が心配そうな顔をして岬を見ている。岬はそれに気付いたが笑顔を作るのが遅かった。
「なんか、悩んでない?」
「・・うん。ね、朋の家ってペット飼ってたっけ?」
「ううん。うちはお母さんが動物駄目なんだよね。アレルギーで。」
「そっか・・・。」
可能性が一つ減って思わず言葉のトーンが下がる。朋にしばらく預けるのも駄目なら一体どうしたらいいのだろう。
「どうしたの?」
「うん。実はね。引っ越そうと思ってるんだけど。」
「引越し?早くない?まだあそこに住んで半年ぐらいでしょ?」
「う、うん。そうなんだけど。早いうちに引っ越さなくちゃならなくなって。」
「何それ?追い出されるってこと?なんでそうなっちゃったの?」
あ、まずい。朋が真剣に怒り出してしまいそう。
「なんかあったなら私も一緒に管理人さんと話してあげようか?」
「あ、ううん。大丈夫。私の都合なの。」
「そう・・。」
その時、授業開始のチャイムが鳴って朋恵は自分の席に戻った。正直、雪の事をどう説明すればいいのか分からなくなっていたので、助かった。
朋恵には悪いと思いながらも、岬はほっと息を吐き出す。
授業が始まっても、岬の頭の中はアパートの問題で一杯だった。
日直の岬は日本史の資料を資料室まで運ぶ為に廊下を歩いていた。解決しない問題に頭の中を占領されながらボーッと歩いていると、突然声を掛けられた。
「おい。」
「えっ、わぁ!」
振り返ると同時に、岬は見事に重たい資料を足元にばらまいていた。それを見て、声を掛けた張本人、聖は溜息を漏らす。
「・・・何やってんだ。」
「ごめんなさい・・。」
岬がしゃがんでそれを拾い集めていると、何も言わずに聖はそれを手伝ってくれた。その姿は岬が今まで聞いてきた噂とは違うものだ。他人に興味を示さない冷たい男。そう、友人からは聞いていたのに。
「何かあったのか?」
その一言に信じられないくらい驚いた。元気が無いといってもそれを表したのは朋の前だけだ。他の人の前では心配されるのが嫌でいつものように振舞っていた、筈だったのに。どうして分かってしまったのだろう。
「あ・・・、なんでもないよ。」
「嘘付け。」
その一言に二の句が告げなくなってしまう。どうして他人の動向にこれほどまで確信が持てるのだろう。それだけではない。たとえそれが分かっていても、普通は知られたくないだろうと遠慮して、それ以上言及しないものじゃないのだろうか。
これじゃあまるで・・・、まるで遠慮のいらない親しい間柄のような、そんな錯覚をしそうになる。
「俺には言えないことなのか?」
「そうじゃないんだけど・・・」
聖は自然との三分の二を持ってくれて、一緒に資料室まで歩き出した。
(やっぱり、優しいよね?)
噂なんて、やっぱり噂でしかないのかもしれない。そう思った時、二人は丁度資料室に着いた所だった。扉を開けて中に入る。ひんやりとしたそこは、電気をつけても少し薄暗い気がした。
岬がしまわなくてはならない資料は棚の一番上にあった。資料は一冊が重いし、量もある。ついてないな、そう思って溜息をつくと、聖が何も言わずに資料をしまい始めていた。
「あっ、私やるから・・・」
「届かないだろ?」
そう言って手元の資料を片付け続けている。
なんだか・・・勘違いかもしれないけど、時間稼ぎをしているように感じる。もしかして、話してもいいんだろうか?今悩んでいることを。その為にわざわざここまで来てくれた?
岬の胸が少し熱くなる。
「あのね・・」
「あぁ。」
突然の話の切り出しに驚きもせず、聖は話を聞いてくれた。
今までの経緯を話し終わって岬は聖の反応を待っている。やはりこんな話を突然しても困ってしまうだけだったろうか。
すっかり資料を片付け終えて、二人の間には沈黙が流れる。するとしばらくして、聖が口を開いた。
「あんたさえ良かったら、ホームに来るか?」
「ホーム?」
目を丸くして聞き返すと、丁度その時チャイムが鳴り響いた。
「昼休みに屋上来れるか?」
「あ、うん。」
それだけ言うと、聖は資料室を出て行ってしまう。話は昼休みに聞くしかないのだろう。岬は慌ててドアを閉めて彼の後を追いかける。そしてお礼を言うと、それぞれの教室に戻った。
お弁当を持って屋上に上がる。今日は天気がいいから、きっと気持ちがいいだろう。
聖と約束をしている、という事に多少の緊張感を持ちながら岬は屋上のドアを開けた。昼休みなら多少の生徒は居るんじゃないかと思ったが、意外にもそこには誰もいない。
ドアを閉めて周りを見渡すと端の手すりの所に聖が居た。
「橘君。」
声をかけると、今まで寝ていたのか、聖は閉じていた目を開ける。岬の姿を確認すると「あぁ。」と小さく声を上げた。
聖の隣に腰を下ろすと、岬は手元のお弁当を広げた。
「橘君、お昼は?」
「もう食べた。」
「え?」
見ると、確かに彼の横には買い物袋が置いてあった。購買でお昼を買って、食べ終えたのだろう。それにしても早い。岬も授業が終わるとすぐにここに上がってきたのだから、着くまでには数分しか経っていない筈だ。
「早いね。」
「それ、自分で作ってんの?」
聖は欠伸をしながら、岬の膝の上のお弁当を指差す。岬は苦笑しながら頷いた。
「うん。でも、バイトで貰ったお惣菜ばっかりだから、あんまり自分では作ってないよ。」
「・・バイトは牛丼屋じゃなかったのか?」
「そうなんだけど、スーパーでもバイトしているの。だから、今日はそこで貰ったお惣菜入れてきた。」
「フーン。」
「あ、」
あっという間にお弁当箱から玉子焼きを摘んで、聖はそれを口に放り込む。
「それは、私が作ったから美味しくないかもしれないけど・・・」
恐る恐る言ってみるが、聖は美味しいともマズイとも言わない。
(やっぱり、橘くんって何考えてるか分かんないな・・・。)
すると、もう一度聖の手がお弁当箱に伸びる。
「あぁ!」
慌てて手元に目を落すがもう遅い。いつの間にか入っていた玉子焼きは全部無くなっていた。
「・・・・・。」
(まずくなかったなら、いいけど・・・)
ちらりと聖の横顔を見てみるけど、表情はいつもと変わらない。ただ、その口元がもごもごと動いている。その姿を見ていると、なんだか可笑しくなって思わず笑みが零れた。玉子焼きのことは気にせずに、自分もお弁当を食べ始める。
教室と違って、時計の無い屋上ではゆったりとした時間が流れる。岬がお弁当を食べている間、聖は特に話をすることはなかったけれど、居心地は悪くない。
お弁当を食べ終えて片づけを始めると、聖は寄り掛かっていた手すりから体を起した。
「食べた?」
「うん。ごめんね。待ってもらっちゃって。」
「別に。」
(・・別にって、つまりどうゆう事?)
疑問に思うが訊くことは出来ない。岬は曖昧な笑みを浮かべると、聖の言葉を待った。
「今日言ったホームの事だけど。」
「うん。」
「俺が下宿してる家の事なんだ。」
「え!橘君、一人暮らししてるの?」
驚いて彼の顔を見ると、その言葉に聖は難しい顔をする。
「あぁ。まぁ・・。」
「あ、ごめん。話の腰折っちゃって。」
「いや。それで、部屋が余ってるし、あんたさえ良ければすぐに入れると思う。」
「本当!」
「あぁ。」
聖の提案に驚きながらも、岬はほっと息をついた。次の引越し場所なんてすぐに見つからないと思っていたから、嬉しい誤算だ。だが下宿、と言う言葉が少し気に掛かる。
「あ、あの。下宿って事は、他にも住んでる人が居るんだよね?雪は一緒でも大丈夫なのかな?」
するとその言葉を聞いて、聖は口を閉じた。何か少し考えているようだ。
「・・悪い。説明が足りなかった。俺の下宿先は渚って奴の家なんだが、渚も仲間なんだ。」
「仲間?」
「渚にも俺とあんたみたいにパートナーがいる。」
「・・・・。えぇぇ!!!」
意味を飲み込むのに時間がかかり、ワンテンポ遅れて驚くと、聖はその声の大きさに顔をしかめた。
「え、と・・・パートナーが居る人って、そんなに沢山いるの?」
「いや、俺達が知っている限りでは、日本にはお前を入れて8人だ。」
「そ、そうなんだ・・・。」
8人。それが多いのか少ないのか、自分では判断できない。知っている限り、と言っていたから、実際はもっと多いのかもしれない。
岬が目を白黒させていると、聖はその顔を覗き込んだ。
「続けていいか?」
「あ、うん。お願いします。」
「元々、渚は仲間が集まる場所としてホームを作ったらしい。俺達みたいな奴の中には、どうしてもパートナーと一緒に暮らせない奴も居るからな。今回の、あんたみたいな。」
「うん。」
「その為に造った家なんだ。だから、雪が一緒でも問題はない。」
「そ、そっか・・・。」
「あの家には俺と渚の他に、渚の子供が二人住んでる。後は時々仲間がホームに泊まりに来る事があるくらいだ。部屋は、確か三つか四つ常に空いてる筈だ。」
岬は家が見つかる、という事実よりも他にも自分や聖のような人がいる、という事実に心を奪われていた。
一体どんな人達なのだろう。そしてそれぞれのパートナーとはどんな存在なんだろう。
「あんたが、ホームに住む気があるなら、一度行ってみるか?」
「え。あ、うん。お願いします。」
「今日バイトは?」
「あ、ある。」
「いつなら都合いいんだ?」
「今週の土曜日なら、バイトが19時までなんだけど。他の日だと終わりが22時なの。」
「じゃあ、土曜に駅まで迎えに行く。」
「うん。分かった。」
聖はポケットに手を入れると黒い携帯を取り出した。
「あんた、携帯は?」
そう訊かれて、岬は少し困った顔をした。高校に入るとよく訊かれることなのだが、岬は経済的な理由もあって携帯電話を持っていなかった。
「あ、ごめん。私携帯持ってないんだ。」
「・・そうか。後で番号書いて渡すから、なんかあったら電話して。」
「うん。ありがとう。」
昼休みが終わるまで、岬は聖にホームの話を聞きながら過ごした。天気がいい日なのに、相変わらず他の生徒は誰も屋上に来る事はない。岬はすっかり屋上が立入禁止だということを忘れていた。