第28話 腕に閉じ込める 3.深海魚
(成る程ね。)
巽が岬にフラれた事に関しては結構疑問に思っていたのだが、目の前の光景を見るなり納得した。要は、彼女には既に恋人が居たのだ。目の前でイチャついていなくてもそうと分かるくらいには良い雰囲気を醸し出している。
(まぁ、仕方ないのかなぁ。)
岬の隣に座って夕食を食べているのは黒髪の高校生。聞けば岬と同い年なのだという。年上で落ち着いていて、男の修から見てもイケメン。彼がこそが岬と恋仲だろうと推測される相手。これなら巽が勝てないのも頷ける。
「どうしたの修君。何か嫌いなものあった?」
「いえ。どれも美味しいですよ。」
「そう。良かった。」
ついつい箸が止まってしまったからだろう。そう声をかけてくれたのは此処の家主、渚だった。長め伸ばした明るい茶髪の髪に甘いマスク。両耳には複数のピアスが付いていて一見ホストのようにしか見えないのだが、共に食卓についている双子の父親だという。一階の探偵事務所は彼のものだと聞いた時妙に納得してしまった。実はサラリーマンなんて言われたら、絶対に疑っただろうから。
(・・家庭の食卓って感じだな。)
ご飯に味噌汁。春雨サラダ、豚の角煮、野菜の浅漬け、麻婆豆腐。寮で食べるご飯とはまた違った温かい食事。それに食卓を囲む人々。それは昔から自分には馴染みのなかったもの。まぁ、この食事を作ったのが渚だというのだから、更に驚きではあったが。
(本当に、父親なんだな。)
仕事をして、ご飯を作って、子供の世話を焼きながら食事を食べる。見た目は良い父親に見えないけれど、彼はちゃんと父親をしている。いくら良い会社に勤めて、いくら高い収入があったって、子供にとって理想の親とは彼のような人の事を言うのだろう。
「ご馳走様でした。」
「あれ、修君。もういいの?」
「はい。お腹一杯です。」
「じゃ、お茶淹れるからちょっと待ってて。」
出されたのは水出しの緑茶。それを飲んでいると、隣から目線を感じた。
「?」
目線の主は渚の子供、まだ幼稚園だという双子の男の子、大だ。
「どうかした?」
「ねーねー。しゅーもケンカ強いの?」
こう思われるのは巽の友人だからなのだろう。修は思わず口元を緩める。
「いや。僕は強くないよ。そういう喧嘩はしたことないし。」
「え〜!うっそだー。だってたつみが言ってたよ。しゅーがさいきょーだって。」
「・・・へぇ。そうなんだ。」
子供に何を吹き込んでいるんだ、と言ってやりたくなるが、残念ながら本人が居ないのでそれはまた後日だ。
「そう言えば、修君パソコンに強いんだって?」
「まぁ。・・ある程度は。」
「実は事務所のホームページ用に新しくフリーソフトダウンロードしたんだけど、それが上手く起動しなくってさ。良かったら後で見てもらえないかな。」
「えぇ。良いですよ。」
自分の知識はあくまで我流だが、その程度だったら力になれるかもしれない。風呂に入った後で一緒に事務所へ降りる約束をして、修は一旦部屋に戻った。
「これ重いしあまり質が良くないので、アンインストールしてからもっと軽い奴入れ直しましょうか?似た様なスペックで良ければ、フリーでも結構ありますよ。」
「本当に?じゃあお願い。任せるよ。」
探偵事務所にパソコンは二台。その内渚のデスク置いてあったデスクトップパソコンの前に座り、修は操作を始める。探偵事務所ならパソコン内は個人情報だらけだろうに、簡単にいじらせてもらえる事に正直驚いた。自分は横から口を出すだけで、操作は渚本人がするだろうと思っていたのだ。
一度渚が落としたフリーソフトをアンインストールして、今度は修がよく使っている信頼度の高いホームページから同様の機能を持ったソフトをダウンロードする。後は適度に不要なものを除けばいい。作業自体は10分程度で終わる。
インストーラーの完了を待っていると、不意に立ったままこちらを見ている渚の視線に気がついた。リビングで見せていたのとは違う、一枚仮面を被ったような表情だ。修にとって大人達が見せるこんな顔は見慣れたものだった。
「・・何か?」
「ごめんね。君に意図的なものがあるとは思えないんだけど。」
「一体何の話ですか?」
「君、TAKITAヒューマンカンパニーの社長令息だよね?」
あぁ、それが聞きたくてこの人はわざわざ自分を事務所まで連れてきたのか。修の内部が一気に冷める。まさか、巽も承知の上で?
「巽くんは何も感知していないよ。」
「・・そうですか。」
表情には出さず、内心ほっと胸を撫で下ろす。巽は自分にとって大切な親友なのだ。裏切られていたとは思いたくない。
「それで、何を聞きたいんですか?」
「・・・君、シン=ルウォンを知っている?」
その名前には聞き覚えがある。確か社長である父が懇意にしている貿易企業の若手社長がそんな名前だった筈だ。
「聞いたことはあります。」
「そう。・・君自身は、会ったことない?」
「ありません。僕は、父の会社には興味がありませんから。」
「そっか。変なこと聞いてごめんね。」
そう言うと、渚は本当に申し訳なさそうな顔をした。けれど触れられたくないプライベートを聞かれてその理由を何も知らされないのでは納得できない。もしも彼が父と繋がっているとしたら、此処で世話になるのは得策ではない。
「渚さんはうちの会社とどういう関係ですか?」
「僕自身に関係はないよ。ただ・・・、シンは僕の恩人なんだ。」
「恩人?」
「うん。もしも君が・・・、シンに言われて此処に来たのなら、と疑った。本当にごめんね。」
「それはもう良いです。でも、疑ったという事は、渚さんはシン=ルウォンとこの場所を関わらせたくないって事ですか?」
“疑う”という言葉を使った時点で、渚がシンに対して持っているのはマイナスの感情。恩人なのにマイナス?ただの恩人なのならば、シンと自分が知り合いであっても何も問題は無い筈だ。けれど実際はそうではないから渚は確かめた。つまり、修とシンが知り合いでは都合が悪いのだ。
「巽くんの言ってた通りだ。君は頭が良いね。」
両手を上げて渚は降参のポーズを取った。
「正解だよ。僕は君とシンが知り合いだと都合が悪い。出来るだけシンを此処から、あの子達から離したいんだ。」
「恩人なのでは?」
「僕にとってはね。けれどあの子達にとってシンは危険だ。だからシンの会社と懇意にしている会社の令息である君を疑った。巽君の友達だと分かっていてもね。」
後で巽君に殴られるかもしれないなぁ、と渚は笑う。
「それだけ、巽や息子さん達が大切だって事でしょう?」
「うん。・・・修君は、ちょっと聞き訳が良すぎるのかもね。」
もっと怒って良いんだよ。そう言われても修にその気は湧かない。疑われたのは確かに腹を立てるべきことかもしれないけれど、それ以上に彼が此処に住む人達を心配する気持ちを知ってしまったから。
実家は国内でもそれなりに大手のIT企業だ。自分はそこの社長である父親に反発して実家から勘当された身。だからお盆休みにも帰る家がなく、こうして友達の所を渡り歩いている。家を出てから随分と経っているので実の父親と懇意にしていると言ってもシン=ルウォンが一体どんな人物で、渚達とどういう関わりがあるのかは分からない。けれどもし親友に、そして親友の大切な人達に実家が何か害をなすようなことがあればその時は――
「渚さん。」
「うん?」
「僕はまだ子供ですけど、お力になれることもあると思います。僕の力が必要な時は“10月の深海魚”を探してみてください。」
一瞬怪訝な顔をするが直ぐに思い当たることがあったのか、渚は柔らかな笑みを見せる。
「ありがとう。覚えておくよ。その代わり、僕に出来る事があれば何でも言って。見返りとかじゃなくて、君は巽君の親友だからね。」
「はい。ありがとうございます。」
渚についてもここに住む人達についても知らない事、知らない事情は多い。けれどこの約束だけで、修は自分の居場所がまた一つ増えた気がした。
* * *
お気に入りのバンドの最新ヒット曲が流れる。音源となっているスマートフォンへ手を伸ばせば、ディスプレイに表示されているのは最近連絡を取っていなかった人物の名前だった。
「もしもし。」
『こんばんわ。』
聞こえてきたのは抑揚の少ない男の声。風呂上りで濡れている髪を拭いていた手を止め、頭にかけていたタオルを首に落とす。
「ご無沙汰してます。珍しいですね。あなたが携帯にかけてくるなんて。」
『気が向いてね。そういえば、君は今ご実家を出ているんだったかな?』
「えぇ、そうです。所でご用件はなんですか?わざわざそれを聞く為にお電話をくれた訳じゃないでしょう?」
『うん。協力して欲しい事があってね。』
「僕でお役に立てる事でしたら。どんな内容なんです?」
『君も会った事のある女の子の事で。』
「へぇ。相手が女性なら喜んでやりますよ。シンさん。」
そう軽口を叩けば、電話越しに相手が小さく笑ったのが伝わってくる。
『よろしく。瀧田君。』