第2話 未知に戸惑う 3.コントロール
その顔に浮かぶのは焦燥。
鏡をずっと見つめていた岬は、今度はその相手を時計に変えていた。現在15時57分。今日は17時からバイトがある。バイトは学校の様に休むわけには行かなかった。
(どうしよう・・・。)
その岬の焦りと不安がパートナーにも伝わっている。だが、岬は気付いていない。
(少しでも早いうちに電話して今日は断るか。でもその前にもし戻ったら?でも戻らなかったらバイトの人に迷惑かけちゃうかも・・・)
「カァー!」
「わぁ!」
突然の瑠璃の声に驚く。だが、瑠璃の意図は驚かすことではなく知らせること。そしてその3秒後、岬の家のチャイムが鳴らされた。
「はーい。」
岬はそのチャイムに応える為に玄関まで行ったが、ある事に気がつきドアを開ける手を止めた。
(開けたとき、中にいる子猫や瑠璃を見られたら、いや、それよりもこの顔じゃあ・・・)
そんな思いが岬の頭の中に一瞬よぎり、恐る恐るのぞき窓から相手の姿を窺った。
岬の家の前に立っていたのは知っている人物。橘聖だ。それを見てから、瑠璃がさっき声を上げた理由を悟り、ほっと胸を撫で下ろす。
ドアのチェーンを外して扉を開いた。
「こんにちは・・・・。」
岬は聖に初めて見せる左目をそのままに顔を出す。それを見て、彼はその場では何も言わなかった。
「・・・瑠璃がここにいるか?」
「うん。もしかして迎えに来たの?」
「あいつはついでにな。・・・話したいことがある。」
「あっ、上がって。瑠璃が中にいるから。」
聖を中に入れて、岬は扉を閉める。
聖はまるで一度部屋の中に来たことがあるかのように遠慮なく瑠璃の元へ真っ直ぐ歩いていく。それもの筈。さっきまで実際に聖は岬の部屋を見ていたのだから。
聖が一番初めに目にしたのは瑠璃ではない、瑠璃の傍で毛並みを整えている子猫だった。しばらくじっと見ていたが、やがてその子猫の方に手を伸ばす。
『ナカマ?』
「あっ・・・えっと、うん。」
岬は仲間という言葉に少し抵抗感があるようだった。とっさにそう聞かれ、戸惑いを隠しきれていない顔で答えた。一方でパートナーの猫は聖が仲間だと分かるらしい。動物の第六感は一体どのようにそれを感じ取るのか。残念ながら人ではそれを理解することが出来ない。
「いつ会ったんだ?」
「昨日、学校の帰りに・・・。」
それを聞いて聖は珍しく驚きの表情を一瞬見せる。だが、すぐにいつもの無表情に戻ってしまった。驚きの表情も些細なものだ。さすがの聖も、パートナーの事を話してすぐ見つかるなんて偶然を考えていなかったに違いない。
「すげぇな。」
聖は誰にともなしに呟く。
「私も、こんなに早く見つかるなんて思ってなかったんだけど・・・。」
当の子猫はそんなことも知らずに聖の回りを興味深そうにウロウロしている。聖が手を出すと、じゃれるようにその手に飛びついた。
「その目、戻らないのか?」
「あっ、そうなの。これってどうしたら戻るの?あたしもうすぐバイトに行かなくちゃならなくて・・・」
聖の言葉を聴いて、思い出したように岬は不安を打ち明ける。岬にとってバイトに行けないというのは重大な問題だ。ある意よく知りもしないパートナーのことより生活のかかったバイトの方が大切だろう。これからの二人のことを考えると聖は少し不安を覚える。
「何時から?」
「17時から。でも、16時半にはここを出なきゃいけなくて。」
今はもう16時13分だ。岬は腕時計をみながら焦りの表情を見せる。
聖は構って欲しいようというように岬の足元にまとわり付いている小さな子猫を一瞥した。
「ここに座れ。」
彼女をその場に座らせる。岬はすがる思いで言う通りにした。
「目を閉じて。」
ゆっくりと目を閉じる。
「今日これからやらなきゃいけないことは?」
突然の聖の質問に、岬は戸惑いつつも答えを考える。だが、その答えはすぐに見つかった。それは先ほどから言っているように、
「バイトに行くこと。」
簡潔に、願いを込めつつ答えを言った。だが一体これが何だというのだろう。全くその質問の意図が掴めぬまま、目を瞑って聖の次の言葉を待つ。
「バイトにこいつを、お前のパートナーは必要か?」
「・・・、ううん。動物を連れていったら怒られるよ。」
答えが決まりきった質問ばかりに、岬は思わず眉根を寄せる。だが、それも失礼なのですぐに表情を戻す。といっても困惑の表情は変わらないのだが。
「自分一人で行くんだな?」
「うん。」
岬の見ていない所で、聖は子猫にそっと触れながら、
「なら、目を閉じたままこいつに別れを言え。」
「え、えーっと。バイトに行ってくるね??」
「目を開けろ。」
そっと目を開ける。聖に撫でられている子猫を見ると、その両目は金色だった。
「あっ!」
そう言って、慌てて鏡を見る。映った姿はいつもの自分だった。
「戻った!」
「良かったな。」
「うん。ありがとう。」
時計を見ると16時35分。すぐに家を出なければいけいない時間だ。
「行ってきます!」
慌ててカバンを掴んで、岬はそのまま部屋を飛び出した。
鍵をかけぬまま。聖と瑠璃を部屋に残したままで。
小さな白猫を撫でる。子猫は気持ち良さそうに喉を鳴らして足元に擦り寄ってきた。聖は暖かな体を持ち上げて膝に乗せる。この子猫は自分のパートナーでこそ無いが、それでも聖の事を仲間と分かるようで、何の怯えも警戒も感じられない。
胸が高鳴る。純粋に新たな仲間との出会いに喜びを噛み締める。
「よろしくな。」
静かに膝の上で丸くなっている仲間に挨拶をした。すると子猫は既に規則的な寝息を立てていた。
そこでやっと、聖は己の置かれた状況に気付いた。この部屋の主はアルバイトで外出している。部屋の鍵を持っていない聖がここを出ようとすれば当然部屋の鍵をかけずに出なければならない。都会での女性の一人暮らしの部屋でそれは危険極まりない。となれば自分は彼女がバイトから戻ってくるまでこの部屋で待っていなければならないことになる。
ちらりと部屋に置いてある目覚まし時計を見た。今は17時前。この時間からのバイトなら終わるのは21時か22時だろう。高校生なのだからそれ以上遅くなることは無いのが救いだ。
溜め息をついて、ポケットの携帯を取り出した。電話帳から検索して電話をかける。
「あぁ、俺。今日遅くなる。夕飯いらないから。・・・うん。じゃあ。」
再び膝の上に目線を落とす。
「お前のパートナーは案外抜けてるんだな。」
当の本人はすっかり夢心地で当然返事は無く、瑠璃はまだこの部屋にいられることを少し喜んでいるようだった。
* * *
「ん・・・。」
物音で目が覚める。聖はいつの間にか寝てしまっていたようだ。太股に軽く熱と痺れを感じて目を向けると膝の上でまだ子猫は眠っていた。
段々と近づいてくるテンポの速い足音が近づいてくるのが聞こえて玄関の方を見る。すると眠っていた子猫がふと顔を上げた。足音に気がついたのか、それとも近づいてくるパートナーの『声』が聞こえたのか。
それまでパタパタと聞こえてきた音がふと止んだ。この部屋の前で。
静かにドアが開けられる。恐る恐ると言う風にドアから顔を出したのは、もちろんこの部屋の主だった。彼女は聖と目が合うと気まずそうに一瞬目を逸らし、それから膝の上の子猫を見た。
「橘君・・・。」
「お帰り。」
「ニャーッ。」
子猫が小さく鳴いた。多分、彼女に聖と同じ言葉をかけたのだろう。ゆっくりとドアを閉めると岬はやっと返事をした。
「た、・・・ただいま。」
そして靴を脱いで部屋に入る。
「じゃ、なくて!ごめんね。橘君。私が橘君のこと考えずに慌ててバイトに行っちゃったせいで、こんな時間まで・・・。」
言われて時計を見るともう22時半を過ぎていた。同時に腹が減っていることを思い出す。そのことに気付くと同時に何か美味そうな匂いが鼻に付いた。匂いは岬の手元だ。
「それ、何?」
「あ、これ?」
すると手に持っていた白のビニール袋を開け、彼女はプラスチックで出来たどんぶりを取り出した。透明な蓋からはつゆで光る牛肉と鮮やかな小口切りされた葱が見える。誰がどう見てもそれは牛丼だった。
「バイト先で貰ってきたの。残り物だけど、良かったら食べて。」
この状況でそれはとてもありがたい申し出なのだが、
「葉陰の分だろ?」
「ううん。私はいつも休憩時間中にまかないを食べさせてもらってるの。これは橘君の分。この子が、・・・橘君が待っててくれてるって教えてくれたから。」
でかした。ただ寝てただけじゃなかったんだな。
「ごめんね。気にしないで食べて、・・あ、そっか、お家に帰ればご飯あるよね。ごめん。いらなかった?」
ちょっと、待て。
「・・・いる。」
岬は二人分のお茶を淹れて猫の餌を用意する。初めは中々聖の膝の上から降りようとはしなかったが、彼が牛丼を食べ始めると子猫も自分の食事を始めた。
その時、家を出る時と同じキャリーケースの上に留まっていた瑠璃と目が合う。
「橘君、瑠璃は何か食べるかな。」
「あぁ。瑠璃は全部自分でやるから、世話は必要ないんだ。」
あっさりとそう言われて言葉に困る。何も知らない人が聞けば冷たいようだが、誰よりも瑠璃を理解している筈の彼の口から聞くと、誰にも頼らない瑠璃のことを認めているんだと感じる。
なんだか、
「橘君に似てるみたい・・・。」
「・・・・・・。」
その一言に聖の箸が止まってしまった。その動きに、岬はとんでもなく失礼なことを言ってしまったことに気付く。さっき自分で思ったばかりだったのに。一昨日までは知らない人だった。それなのに何故彼のことを良く知って知るような口を聞いてしまったんだろう。
「ごめんなさい。私・・・」
「よく言われる。」
「へ?」
「似てるって。」
「・・・そうなんだ。」
聖が怒ってなかった安堵と、彼が複雑そうな顔で瑠璃と自分が似ていると言ったことがなんだか可笑しくて笑いがこみ上げた。
食事を終えた後、岬はもう一度彼らにごめんなさいとありがとうを言い、玄関を出る彼らを見送った。
岬が家を出た後も彼らがずっと傍にいてくれたことがとても嬉しかった、と岬のパートナーが寝る前に教えてくれた。