第10話：雨（あめ）の午後（ごご）に浮（う）かぶ微笑（ほほえ）み
火曜日の午後、しとしとと雨が降る。
カワイイカフェは、いつもより静かで、トタン屋根を打つ雨音が、時間の流れをゆっくりにしていた。
カナは花柄のエプロンを着て、ラテのミルクフォーム作りに挑戦していた。
後ろからモクがやさしく見守っている。
「手首をやわらかくして、ゆっくり泡立ててね。大きい泡が立たないように」
カナはうなずき、ピッチャーの角度を変えて再び挑戦した。
エスプレッソマシンのスチーム音が雨音と混ざり合い、不思議と心が落ち着いていく。
やがて、カナはハート型のラテアートを完成させた。
「わぁ… ちゃんとハートになった！」
モクはにっこり。
「すごいよ、カナちゃん。もうすぐお客さん取られちゃうかも、ふふふ」
そのとき、ジェー・プロイがキッチンから出てきて、月餅の袋を手に言った。
「コーヒーばっかりじゃなくて、こっちの売れ筋も忘れないでよ〜。この店、二本柱だからね」
みんな笑って、雨音と一緒に心も和んでいく。
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その午後、一人の常連客が女性を連れて来店した。
白のシャツにスラックス、そして首からはDSLRカメラ。
「カナさんですね？ この前のチュラ―タマサートのイベントであなたの写真を見ました。とても綺麗でしたよ」
カナは丁寧に手を合わせてお辞儀する。
「ありがとうございます。あの…あなたは？」
「私はピム。タイで活動してる日系のモデルエージェンシーのスカウトです。アジアン系の広告やファッションを扱っています」
「カナさん、もしよかったら、プロフィール写真を撮らせてもらえませんか？」
ジェー・プロイとモクが顔を見合わせる。
カナは戸惑い、すぐに返事をせずに後ろを振り返った。
ちょうどそのとき、ティーが濡れた紙袋を抱えて入ってきた。
「カナ、スカウトされてるって… モデルになるの？」
その声は強くはないが、どこか不自然な響き。
カナは少し笑って答える。
「ただ話しかけられただけです。まだ何も決めていません」
ティーは黙ってうなずくだけ。
温もりのあった空気が、静かな沈黙へと変わっていった。
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その日の夕方、雨はやんだが、空はまだどんよりしていた。
カナは傘を持ってタクシーを止めようとしていたとき、
「乗ってく？ 送るよ」
ティーがバイクでやってきて、小さなヘルメットを差し出した。
カナは黙って受け取り、何も言わずに後ろに乗る。
ふたりの間に会話はなかったが、風が心地よく、沈黙は不思議と重くなかった。
コンドの前に着いたとき、ティーが口を開く。
「モデルになりたいなら…なってもいいと思います。止めたりしません」
カナはすぐには返事せず、ゆっくりヘルメットを外した。
「モデルになりたいわけじゃないんです。ただ…誰かに“見つけてもらえた”のが、嬉しかっただけです」
ティーは彼女と目を合わせ、一瞬だけうなずいてバイクを発進した。
カナは、彼の背中が遠ざかっていくのをじっと見つめていた。
手の中には、必要以上に強く握られたヘルメット。
今夜、心にラテアートの音は響かない。
残っているのは、止んだばかりの雨の香りと──
言いそびれた言葉だけ。
つづく
