10:涙の渓谷と、感情の結晶
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王都を後にして数日。
俺とティアは、次なる目的地“涙の渓谷”へと向かっていた。
空気は少しずつ乾き始め、風が肌を撫でるように冷たくなる。
「……ねぇナッキー、渓谷って、ほんとに感情が結晶になる場所なの?」
ティアの声が、馬車の軋む音の隙間を縫うように届く。
「伝承では、そう書かれてた。『涙が落ちた場所に、心が咲く』って」
「詩人かよ」
「……王国の古文書だからな」
ふたりで顔を見合わせて笑った。旅は長く、会話の端々に余白がある。
けれど、その余白があるからこそ、言葉にできない感情も染み込んでいく。
やがて日が傾き、空が茜色に染まる頃、馬車がゆっくりと止まった。
「着いたみたいだな」
「ここが……“涙の渓谷”……?」
渓谷の入り口に着いたとき、そこはまるで別の世界だった。
地面は深く裂け、霧が渦巻く谷底からは、微かに鈴のような音が聞こえてくる。
ティアがしゃがみ込み、谷を覗き込むように見つめた。
「なんか、吸い込まれそう……」
「音が……鳴ってる?」
「……涙の音かもな」
「涙って……音、するんだっけ?」
「この世界では、するんだよ」
俺たちは谷底に向けてロープでゆっくりと降りていく。
ロープが軋むたび、心も揺れるような気がした。
ティアの指が、俺の腕にそっと触れる。
「……こわくないけど、不安だよ」
「……俺がいる」
「うん……知ってる」
そのやりとりだけで、ほんの少し勇気が湧いたように思えた。
谷底に降り立ったとき、霧が晴れ、視界が開けた。
そこは、言葉を失う光景だった。
岩肌のあちこちに、淡い光を放つ結晶が咲いていた。
青、緑、薄紅、琥珀——その全てが、まるで“感情の色”を持っているかのようだった。
「これが……感情の結晶……」
ティアがひとつに手を伸ばそうとした瞬間——
「やめたほうがいい」
背後から声がした。
振り向くと、フードを被った少女が立っていた。
「それに触れると、感情が逆流して……“自分の本当の心”が見えなくなる」
「あなたは……?」
「私はミア。……ここの“守り人”」
ミアの目は、少し陰を帯びていた。
「この結晶はね、他人の感情が“残留”しているの。強く触れると、自分と混ざっちゃう」
「それって……“誰かの痛み”が、心に入り込んでくるってこと?」
ミアはゆっくりとうなずいた。
「……昔、妹が……ここで、触れてしまったの。そうしたら、彼女は……“自分じゃない何か”になってしまった」
ティアは、その言葉をじっと受け止めていた。
「それでも……知りたい。泣けなくても、誰かの感情に触れたいって思う」
ミアはしばらく沈黙したあと、目を閉じ、そして言った。
「……だったら、結晶じゃなくて……“泉”に行きなよ」
「泉……?」
「この渓谷の奥にある。そこには、誰のものでもない、純粋な“涙の源泉”がある」
「……それなら、安全なのか?」
「わからない。でも、そこなら——きっと、“本当の涙”と向き合える」
俺とティアは、ミアに礼を言い、渓谷の奥へと歩を進めた。
道中、風がやけに静かで、葉擦れの音すらない。
感情を封じ込めた空間が、そこには広がっているようだった。
やがて、泉にたどり着く。
それは鏡面のように静かで、空の色をそのまま映していた。
「……ここが、“涙の源泉”……」
ティアが、そっと泉の縁にしゃがみ込んだ。
「……なんか、懐かしい感じがする」
泉を見つめる彼女の目に、かすかな揺らぎが見えた。
「ティア……?」
「……ナッキー。ねぇ……私、昔……誰かの涙で、救われた気がするんだ」
彼女の言葉が、泉に落ちて波紋のように広がった。
その瞬間、泉の中心が光を放つ。
「っ……」
俺の胸元が、ふっと熱を帯びる。
気づけば、俺は泉の前に立ち、手を差し出していた。
問いかけが届く——『あなたの涙は、誰のために流れますか』
胸の奥に浮かんだのは、ティアの顔。そして……ナケネーナの涙だった。
『俺は……それでも、これでいい』
言葉にならない想いが、指先を通じて泉へと伝わる。
次の瞬間——光が弾けた。
まばゆい閃光の中で、手の中に“何か”の感触が生まれる。
淡く輝く、純白の涙の結晶。
それは、まるで心の奥から削り出された、感情の核のようだった。
「……これが……神涙石……」
ティアがゆっくりと立ち上がり、結晶に手を添える。
「ナッキー……それ、私が持っててもいい?」
彼女の瞳は、揺れながらも、まっすぐだった。
俺は微笑み、そっとうなずいた。
「……ありがとう。なんか、少しだけ、勇気が湧いた気がする」
神涙石を胸元にしまう彼女の手は、ほんの少し震えていた。
けれどその震えは、きっと“前に進むための痛み”だった。
俺たちは再び歩き出す。
まだ涙は流れなくても、その歩みが少しずつ、心をほどいていく。
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