七月十二日 火曜日
亜沙美は心配そうに千冬の口の端を撫でた。
「ほんと、嫌な人ね」
そのことについて、千冬は何も言わなかった。車に乗り込むと窓に頭をつける。車の窓は少し冷たく、心地よかった。後部座席から見る亜沙美の髪の毛は、雨のせいでいつもよりもカールがかかっていた。
「女の子の顔に傷をつけるなんて」
車が進みだし、ふと、智也の母親の言葉を思い出した。顔を真っ青にして、千冬の顔に貼られたガーゼを見ていた。顔に傷をつけられたことなんて、どうでもよかった。どうせ、日曜日には死んでいるから、今後の人生に影響なんてない。
むしろ、数少ない学校生活の時間を奪われたことに対する怒りの方が大きい。
「本当に病院は行かなくていいの?」
「こんな傷、病院に行く必要も無いよ」
少し口を開くたびに、じくっと痛む。スマートフォンを操作して、智也との写真を消し始める。その作業に躊躇は無かった。
「谷原君があんなことした理由、分からないの?」
亜沙美が訊いた。亜沙美の運転は速度が遅いからどんどん車に追い越される。
「私が一方的に別れを切り出したから。何度もしつこく別れたくないって言われたから、気持ち悪いって言ったの。そしたら怒って殴ってきた」
「気持ち悪いって。他に言い方は無かったの?」
亜沙美はため息を零した。彼女の想像よりもつまらない理由だったのだろう。
「ああいう奴には優しさなんか見せちゃダメなんだよ」
ならどうして付き合ったのよ、と亜沙美の呆れた声が聞こえた。しかし、その質問に対する答えを口にすることは無かった。
死ぬ前に、人と付き合ってみたかったなんて。
恋愛はした。けれど、その恋は口にすることは無く、胸にしまった。だから、付き合ってみたかっただけ。
「今日のお昼は、親子丼が食べたい」
「了解」
亜沙美は静かに言った。
この重い空気は、大嫌い。
少し強めの芳香剤。車の臭いと混じり合って最悪だ。
食べるはずではなかった昼食の親子丼を食べ終え、スマートフォンを操作した。五時間目が始まった時刻。何をすればいいか分からなかった。これといった趣味もなければ特技もない。この絶妙に空いた時間の使い方を、千冬は知らなかった。
亜沙美は買い物に行き、話し相手もいない。
無駄に点いているテレビでは、生放送の番組で観光地を案内しているが、私が行くことは無い。
「遺書の続きを考えますか」
ファイルからぐしゃぐしゃになったルーズリーフを取り出した。ボールペンをカチカチ、とノックし、部屋の隅に置かれた水槽を見つめる。案が思いつかない。
柊人がいないと書けない。
ファイルにルーズリーフを戻し、唇の端に貼られているガーゼを剝がした。ガーゼには血が付着している。
その血を見て、まだ生きているということを実感した。死んだら、この血も固まるのだろうか。棚の下にある救急箱から絆創膏を取り出し、鏡を見ながら傷口に貼った。
「ただいま」
亜沙美が疲れ果てた声で帰ってきた。傘を差さなかったのか、額には前髪が張り付いていた。彼女の両手にはエコバッグがある。黄色いエコバッグは先月、亜沙美が作ったものだ。最近になって手芸が趣味になったらしく、自分で完成させたエコバッグをまるで宝石を見つめるかのように見つめていた。
「おかえり」
テーブルに置かれているガーゼを見て、亜沙美は目を見張った。
「まだこんなに血が出てるの?」
亜沙美が千冬の頬に手を添えた。ゆっくりと絆創膏を剥がすと、彼女は分かりやすく表情を歪めた。
「こんなに大きな傷だったなんて。残っちゃうじゃない」
悲鳴に近い声だった。残ったって、何の影響もないじゃない。そんな言葉を呑み込んで、黙って絆創膏を貼られた。
「このくらいどうだっていいよ。そんなことより、絆創膏付けてよ」
亜沙美によって絆創膏が貼られた唇の端を触った。触れるとチクリと傷むが、小学生の頃の骨折よりは随分マシ。
千冬がテレビで録画していた人気の映画を観始めると、亜沙美はどこかへ電話をかけ始めた。大方、浩史だろう。千冬のスマートフォンには智也からのLINEが並んでいた。
亜沙美の甲高い早口のせいで映画の内容は全く入ってこなかった。
「うるさいな」
ソファに置いてあるクッションを抱え、声を漏らした。こんなこと、亜沙美本人には言えなかった。
「あの子、学校に行かせない方がいい気がするの」
千冬は動きを止めた。一番恐れていたことだった。最期の日まで、日常を送りたい。それが、千冬の最も願うことだった。
世間には、死亡日を回避するために死亡日は家の中で動かない、という人もいるらしいが、そのような人たちも死亡日を回避することはできなかった。家の中で死んでいく。一日を台無しにして家の中で死ぬのは嫌だった。どうせ死ぬなら、死ぬ直前まで幸せでいたかった。
「お母さん。それは嫌だよ」
リビングから出て、廊下で電話をしている亜沙美に言った。彼女は千冬が聞いていたことに驚いたのか、ゆっくりと瞬きをして、あとでかけ直す、と電話の向こうの人物に言った。
「千冬。分かってよ。お母さんたち、怖いのよ。これ以上、千冬に傷ができたら」
宥めるように亜沙美は千冬の肩を擦った。
「変わらないじゃん。どうせ、もうすぐ死ぬんだから」
先ほど呑みこんだ言葉を吐き捨てると、頬に鈍い痛みが広がった。それはまるで波のように押し寄せては引いてを繰り返した。目の前には息を切らした亜沙美がいた。
「死」が亜沙美の地雷だということは分かっていた。それでも、黙ってはいられなかった。
千冬はスマートフォンとバッグを持って家から出た。
雨が上がったばかりの空は黒い雲で覆われていた。水たまりを踏むと、水が跳ねる。行先は特に決まっていなかったが、自然に足は公園に向かった。
公園には誰もいなかった。緑の木が揺れ、千冬のスカートも揺れる。
東屋のベンチに座り、テーブルに顔をつけた。雨を吸い込んだ木の匂いが鼻の奥を通る。この匂いはわけもなく好きだ。
糸が切れたように、一気に疲れが出て、睡魔に襲われた。