七月十一日 月曜日
千冬が家に帰るとすぐに麻婆豆腐の香りがした。ドアの音を聞いてか、母親の亜沙美が早歩きで玄関に来た。
「千冬、最近帰りが遅くない?」
亜沙美はエプロン姿で千冬の頭を撫でた。亜沙美の癖っ毛は千冬には遺伝せず、千冬はストレートの髪の毛。
「あと一週間も無いんだよ? 友達とだって遊ぶよ」
見るからに分かるであろう作り笑顔を顔に張り付けて千冬は洗面所に向かった。洗濯機には、父親の浩史のネクタイがかかっている。
「お父さん、もう帰ってきたの?」
「手当で、早く帰って来られるのよ」
鏡越しに見える亜沙美の表情は浮かない。訊かない方が良かったな、と少し後悔をした。
「今日の夜ご飯は麻婆豆腐でしょ? 私の大好物」
「喜ぶかなって」
亜沙美は微笑むと洗面所から出た。千冬は亜沙美がいなくなったことを確認するとため息をついた。一気に力がなくなり、床に座り込んだ。家にいると、傷つけないようにと気を張ってしまう。
浩史が使ったのは一週間前から使える死亡日手当。早退や、有休がとれる手当だ。
「千冬? 大丈夫?」
亜沙美の声が聞こえ、千冬は慌てて洗面所を出た。
「おかえり、千冬」
浩史が眼鏡を拭きながら言った。浩史の使っている眼鏡拭きは去年の彼の誕生日に千冬がプレゼントしたものだ。グレーの眼鏡拭きに心を奪われ、少し奮発して買った。
「ただいま。あのさ、お葬式のことで話があるの」
千冬の口から出た「葬式」という言葉に両親は顔を強張らせた。言ったら空気を悪くする、そんなことは分かっていたが、いつか向き合わなければいけない問題だった。
「今じゃなくていいんじゃないか」
浩史は表情を引き攣らせながら眼鏡をかけた。亜沙美は項垂れている。
「今がいい。私のお葬式に、柊人を必ず呼んでほしい」
まっすぐと浩史を見つめて千冬は言った。
「分かったよ。柊人君だな。了解だ」
まるで早く話を終わらせようとする浩史を見て、この家で一番「死」に向き合っているのは千冬かもしれないと思った。部屋は静まり返り、水槽に注がれる水の音だけが、やけに響いた。
「食べましょう。麻婆豆腐が冷めちゃう」
眉尻を下げて笑いながら亜沙美はダイニングテーブルにスプーンを並べた。
「今日はまた随分と辛そうだな」
中華鍋の麻婆豆腐を見た浩史が言った。亜沙美の作る麻婆豆腐は近所の店の麻婆豆腐よりもよっぽど辛い。その辛さが千冬の好物だった。
「辛さのコツは豆板醤だからね」
亜沙美は得意げに言った。そんな会話を聞きながら、千冬はスマートフォンで得た情報を思い出していた。
自分の死について話すことで、自分の死後、周囲の人間の立ち直りを早くさせる。
少しずつ、慣れるのだ。この家から千冬が消えることを。
それがいつか当たり前になるまで。
「千冬?」
亜沙美に顔を覗き込まれ、千冬は我に返った。
「ボーっとしてた」
へらっと笑い、千冬は椅子に座った。
「いただきます」
麻婆豆腐を掬い、口に運んだ。ちょうど良い辛さと豆腐の感触に口元を綻ばせた。
「辛っ。千冬は水も無しによく食べられるな」
浩史が顔を真っ赤にしながら慌てて水を飲んだ。その隣で亜沙美は平気な顔をして食べている。この家で辛いのが苦手なのは浩史だけだった。
「すごい美味しいよ。お父さんが苦手なだけだよ」
ね、と亜沙美に言うと彼女も頷いた。
「浩史は弱すぎるのよ」
これが普通と言い張る浩史と異常だと言い張る亜沙美。異常というのはおかしな気がしたが、千冬は黙々と麻婆豆腐を食べ続けた。
夜ご飯を食べ終え、棒アイスを片手にソファに座った。ホーム画面の壁紙を選ぶ指を一枚の写真で止めた。痛がる柊人の笑顔の千冬。思わず笑みが零れた。
しかし、そんな写真を設定できるわけもなく、春に撮った桜の写真を選んだ。人生最後に見る桜だった。
ソーダ味のアイスに頭が痛くなり、顔を顰めた。
頭の痛みが治まるとスマートフォンに残る黒歴史を消し始めた。
「死亡日 回避」
「死なない方法」
「死因 知る方法」
どれも結局、確かな情報は得られなかった。書いてあるのはすべて、「自分の運命を受け入れろ」だけだ。
「餌だよ」
水槽の中のグッピーに向かって亜沙美が話しかけた。その声に反応せず、五匹のグッピーは優雅に泳いでいる。色とりどりのグッピーはきれいだった。
「今日も元気だね」
嬉しそうに亜沙美は餌を片付けた。
一匹ずつ名前があるらしいが、千冬は知らなかった。知っているのは、亜沙美くらいだろう。