七月十一日 月曜日
「ごめん、遅れた」
学校終わりに公園で待っていると千冬がポニーテールを揺らしながら走ってきた。
「別に待ってないから」
千冬はそれならよかった、と頬を緩ませた。昨日と同じファイルをテーブルに置いた。
「まず、出だしだよね」
腕を組んで千冬は考え込んだ。真っ白な肌はとても綺麗で、柊人は目を逸らした。
「何かいい案は思い浮かんだ?」
手首を掴まれ、千冬を見つめた。千冬の手は、少し冷たくて、指は細かった。
「まず、千冬がどんなことを書きたいかによるから」
「昨日言ったじゃん。未来予想だって」
手首を掴む力が弱まったところで、柊人は手を引いた。
「千冬が先に考えろよ。俺はあくまでアドバイス担当」
「考えたよ。「私は未来が見えます」で始める」
まっすぐ見つめる千冬の瞳は真剣で、柊人は息を呑んだ。セミの鳴き声がうるさい。風が全くなく、蒸し暑い。
「それは嘘になるだろ」
そっか、とさっきまでの真剣な表情が嘘のように千冬は笑った。
「私、今までセミって可哀そうだなって思ってたの」
突然始まった千冬のセミの話に耳を疑った。千冬は木の幹に止まっているアブラゼミを見ている。
「土から出てきても、一週間で死んじゃうんだよ。でも、今は羨ましいの。私もそうだったらよかったのにって思ってる。世界に出て一週間で死ぬことが分かってたら、もっと楽に生きられたと思う。それにしても、死ぬって不思議だよね。私がいなくなった世界で、みんな幸せな出来事を増やすの。なのに私は、幸せも、何もかも増やせない」
千冬が呟くと木の幹に止まっていたアブラゼミが飛んだ。まだ、緑色の線の羽を動かして。
「それでいいじゃん。出だしは。みんな幸せな出来事を増やすでしょうって。それが、千冬の思いなら」
柊人の顔を見つめ、千冬は瞬きをした。
「さすがだね。それにしよう」
ボールペンを持ち、ルーズリーフに書き始めた。千冬は遺書を書いているとは思えない表情をしていた。
「みんな幸せな出来事、じゃない方がいいと思わない? 出来事を、他の言い方に変えたい。ロマンチックにしたいの」
みんな幸せな、まで書いて千冬はボールペンを置いた。コトン、と音が鳴った。
「出来事、をロマンチックに」
柊人は千冬の言葉を復唱した。
ふと、昨日見た家族写真を思い出した。
「写真を増やす、は?」
写真?と千冬が首を傾げた。
「どうして写真なの?」
「死んだら、その後の写真には写れないだろ。だから、写真を増やすでしょうって」
千冬は大きく頷き、ボールペンを動かした。
「ねえ、写真撮ろうよ」
文字を書き終えた千冬がスマートフォンを操作し始めた。校則で禁止されているはずのスマートフォンが普通に制服のスカートのポケットから出てくる。
「学校に持って行ってたの?」
「うん」
当たり前のように千冬は認めた。柊人の手を掴んで千冬は柊人を立たせた。
「ほら、もっとこっちに寄って」
柊人は無理矢理、千冬に寄せられた。
スマートフォンのホーム画面は千冬と谷原智也のツーショット写真だった。魚の骨が喉につかえたような気になった。
「笑ってよ」
いつの間にかカメラアプリが起動していた。スマートフォンに映る柊人の顔は不貞腐れていた。
「どうして俺と」
「いいから笑うの」
スマートフォンを持っていない方の手で柊人の頬を抓んだ。そして、彼女はそのままシャッターを切った。
「笑ってないけど、私たちっぽいね」
明るい声で千冬はスマートフォンに収められた写真を眺めていた。
「俺と写真撮って大丈夫なのかよ」
抓まれた頬を擦りながら訊いた。
「どうして?」
「谷原に何か言われるんじゃ」
「もうすぐ別れるんだもん。関係ないよ」
その言葉は酷く冷酷に聞こえたが、千冬は満足げにスマートフォンを撫でていた。
「別れる必要は」
「あるよ」
柊人の言葉を遮って千冬は言った。
「新しい恋に踏み出しにくくなっちゃうから」
苦笑交じりに千冬はベンチに座った。
「死んだ後のことなんかどうだっていいじゃん」
柊人もベンチに座った。
「嫌だよ。死んだ後に恨まれるとか」
怖い怖い、と自分の肩を抱きしめていた。「空元気」今の千冬にはこの言葉が一番似合っていた。
「千冬は、後悔とか無いの?」
「無いよ。全部、私の理想通り」
僅かに口角を上げて、千冬は目を細めた。
「柊人は?」
訊き返された柊人は視線を落とした。
「次、書かないと時間が」
話を逸らすように言うと、そうだね、と千冬はボールペンを握りしめた。
「きっと、お父さんは泣くお母さんを慰めるんだと思う。私の遺影を見るのが怖くて、目を逸らすの。でも、四十九日が終わったら私の遺影を見て、初めて泣く。お母さんは私が死んでからずっと泣いてばかりで、みんなから心配されるんだ。私の望みは、叶わないの」
ボールペンを持つ千冬の手は震えていた。
「千冬の望みは、遺書で人を驚かせることだろ? それがどうして」
「違う。本当は、泣かないでほしいの。それが、私の願い」
遺書がクシャっと音を立てた。真っ白できれいだったルーズリーフは皺だらけになった。彼女の文字も、歪んだ。
「それも遺書に書けば」
「ダメだよ。私は、素直じゃないから。絶賛反抗期中」
きっぱりと言った千冬は皺のついたルーズリーフを伸ばした。けれど、そんなことは無意味で、一度ついた皺が消えることは無かった。
「今日は、やめるか」
千冬の顔色を窺いながら訊いた。
「そうだね。このままじゃ、いい案は浮かばなそう」
ルーズリーフの入ったファイルは少しだけ膨らんでいた。