七月十日 日曜日
七月十日 日曜日
「遺書の書き方?」
声に出してからしまった、と口を押さえた。
「人のスマートフォンをのぞき見って、悪趣味だね」
スマートフォンを隠しながら板垣千冬は振り向いた。その表情はどこか楽しそうだ。
「たまたま見えただけで」
白瀬柊人は頬を引き攣らせながら視線を泳がせた。
出発したばかりのときは大勢の人が乗っていたバスも、千冬と柊人の二人だけになってしまった。そして偶然、柊人は前の席に座る千冬のスマートフォンの画面を見てしまったのだ。
「かなりじっくり見ないと文字までは読めないよね」
揶揄うように千冬が背もたれに腕を乗せて柊人を見た。彼女の唇の間から八重歯が覗く。
「ごめんって。誰にも言わないから」
「私は来週の日曜日。だから、七月十七日。柊人は?」
「知らない。何も言われてないから」
柊人の答えに千冬は目を剝いた。「鳩が豆鉄砲を食ったよう」とはまさしく今の彼女のことだろう。
「今時、死亡日を知らない人なんているの?」
「俺だよ」
信じられない、と千冬は柊人を見た。
死亡日開示。生まれた瞬間にその人物が何年の何月何日に死ぬのかを親に開示するシステム。死亡日を知ることで人生をより充実したものにすることを目的に作られたシステムだ。
大体の子どもは小学校入学とともに死亡日開示をし、親を通して死亡日の記されたカードを手にする。
「知りたいと思わないの?」
千冬の丸い目は柊人を捕らえて離さなかった。彼女の目を見ていると吸い込まれるような感覚になる。
「姉ちゃんが、それ関係の仕事を、してるから。聞きたくなくて」
歯切れ悪く答えた柊人に
「どんな仕事?」
と、遠慮もなしに訊いてくる千冬に若干引きながらも、柊人は説明を始めた。
「死亡日宣告人。子どもが生まれて、幸せの絶頂にいる人に残酷なことを伝える。そんな仕事」
柊人は、姉の仕事が好きではなかった。まるで、死神のような仕事だからだ。説明を終えると、窓の外を眺めた。
よく知る景色。いつもと変わらない。あるのは、同じような家が並んだ住宅街と、畑、田んぼ、梨畑。どこかの畑で草を燃やしている煙が出ている。洗濯物に臭いが付く、と柊人はため息を漏らした。
「柊人のお姉ちゃん、遺書の書き方とか詳しくないかな?」
千冬の言葉に柊人は窓を見るのをやめた。千冬は目が合うと、どうかな、と上目遣いで訊いてきた。
「遺書なんて、自分の思いを書けばいいんだよ」
柊人の言葉に千冬は嫌だよ、と首を横に振った。最寄りのバス停の一つ前のバス停を過ぎ、柊人はボタンを押した。「次、降ります」というアナウンスがバスに流れた。
「もっと、私が死んだ後に驚くようなものを書きたいじゃん」
まるでクリスマスプレゼントを考える子どものように言葉を弾ませている千冬は、とても遺書のことを話しているようには見えなかった。
「遺書はそんな楽しいものじゃないだろ」
隣の席に置いていたリュックを背負った。中には、姉に勧められて行った高校の説明会に関する資料が入っている。説明会に行っても、柊人の気持ちは揺らがなかったが。
最寄りのバス停に着き、柊人と千冬はバスを降りた。バス特有の排気ガスの臭いに柊人は顔を顰めた。いつまでも、この臭いだけは好きになれない。
「柊人。手伝ってよ。私の遺書作り」
バスを見送りながら千冬が呟いた。千冬のポニーテールが風で揺れている。排気ガスの臭いが消えると、柑橘系の匂いが鼻を掠めた。丸くて、きれいな瞳は澄んでいる。
「書いたことない俺が手伝っても仕方ないだろ」
「書いたことないからいいんだよ。言ったでしょ?みんなが驚くようなものが書きたいって。それで、私が死んだ後にみんながどんな反応をしたか、教えてほしい。一生のお願いだから」
柊人は言葉を詰まらせた。こんなときに、「一生のお願い」を使うなんて、千冬はズルい。彼女の「一生のお願い」は本当に一生のお願いになってしまう。柊人よりもかなり低い位置にある千冬の目と目が合って、喉まで出ていた「無理」という言葉は腹の中に戻った。
「ごめん。こんなこと言って、困らせたよね」
千冬は慌てて柊人に背中を向けた。少しだけ震える背中を見て、柊人はため息をついた。
「一生のお願いなんか使われたら断れないだろ。手伝うよ。二人で今までにない遺書を作ろう」
「ありがとう。柊人」
背中を向けたまま千冬は言った。
「とにかく帰ろう」
目元を擦って千冬が振り返った。目元は少し赤いが、柊人は何も言わなかった。
「うん」
千冬は小さく笑って歩き始めた。坂道を上りながら千冬の少し後ろを柊人が歩いた。空から太陽の熱がじりじりと照り付ける。セミの鳴き声が余計に暑くしているように感じる。
「遺書のタイトルは何にする?」
千冬が今にもスキップを始めそうな調子で訊いた。
「遺書にタイトルなんてあるのか?」
「普通の遺書は、「遺書」って書くじゃん。そこを変えたいの」
「それはタイトルなの?」
「私にとってはタイトル」
坂の途中にある階段の手すりに千冬は腰かけた。柊人も同じようにして腰かけると町全体が見渡せる。特徴なんてないこの町でも、二人にとっては特別な場所だった。
肌には金属に籠った熱がじんわりと伝わった。反射した太陽の光が眩しい。
「千冬が遺書にどんなことを書きたいかじゃない?後悔を書きたいのか、人生を振り返りたいのか、感謝を伝えたいのか。他にもいっぱいある」
目の前を赤い軽自動車が通過した。少しだけ巻き起こった風も、すぐに消えた。
千冬は考え込むように俯いた後、急に顔を上げた。
「未来予想を書く。私が、いない世界の」
千冬の目は、三日月を描いていた。どうしてそんなに笑えるのか。その質問を押しつぶした。今、訊くべき質問じゃないと思った。
「それは、斬新な遺書になりそうだな」
当たり障りのない柊人の言葉に対して、でしょ、と千冬は笑った。とても一週間後に死ぬようには見えなかった。
歴史の歪みを抑えるため、死因については知らされない。
でも、きっと彼女は、病死ではない。何の前触れもなく、突然、この世界から姿を消してしまう。そんな気がした。
「死ぬことが、怖くないの?」
どうしても我慢できなくなった柊人の質問に千冬は目を瞬かせた。長いまつ毛がバサバサと動く。
「怖いよ。でも、死なないほうが怖いもん。死ぬって分かったら、私にはゴールがあるんだって思える。それに、死なない人なんていないじゃん。そりゃ、まだ十四歳で死ぬから、ちょっと悔しい気持ちもあるけど」
柊人は唇を尖らせる千冬を見つめた。同じ歳とは思えない表情。風が千冬の横髪を揺らし、僅かに赤くなった耳が見え隠れする。
「俺には、そんな発想無かった。ひたすら、この世界から消えることが怖くて、仕方なかった」
「普通はそうだよ。私、ちょっとおかしいの」
笑いながら千冬は自分の頭を小突いた。正午を伝える鐘が鳴り、千冬は手すりから降りた。彼女の水色のスカートが少しだけ膨らむ。その姿はまるで、蒼空から舞い降りた天使だった。
「二時にここ集合ね。タイトルを決めるから」
自分の言いたいことだけを言い、彼女は走り去った。
この階段で千冬と柊人は別れる。左が柊人、右が千冬の家だ。この住宅街は人が多いから、珍しいことではない。