夜の娘たち
十歳になるころまで私には父親がいた。
血は繋がっていない。新生児の私を抱えたシングルマザーの母を父が娶った。一目惚れだったと言っていた。
やさしくて母に甘い人だったけど、大事な時に家にいないことがあった。そして、私たちの他に家庭を持っていた。
そのころ隣町に大きなショッピングモールができて、行きたいとせがんだ私のために母が車を出してくれた。チェーンのアイスクリーム店でジェラートを受け取ったとき、少し遠くで立て看板を眺める男の子が目に入った。柔らかな印象の目元や眉の形に既視感があって視線が引かれたのだ。
子供のぶしつけさで眺めていれば、彼と目が合う。探し物を見つけた時のようにゆるゆる目が瞠られて、そのしぐささえ、「似ている」と思った。
「あの子、お父さんみたいだね」
母の袖を引いて、屈んでくれた彼女の耳にそうささやく。母と私の視線の先で、少年のもとに彼の両親と思しき男女がやってくる。
見たことのない女の人と、それからもう一人、私の父親であるはずの人が。
彼らは母の再婚前からの関係で、少年は私より二歳年下の、彼の息子なのだそうだ。事態の発覚後、父と母は離婚した。
父だった男との話し合いから帰ってきた母は、上着も脱がずに私を抱きしめる。枯葉みたいな野外の匂いがした。
「久留守、ふたりで生きていこう」
かすれた声で言って、そして私へキスをした。ぬめるグロスは無味で、その代わりどこかで飲んだのか紅茶の香りがした。
入ってきた舌が乳歯の抜けたばかりの陥穽を探り、しびれるようなむずがゆさに軽く身をよじった。母の口づけは、はちみつを入れた牛乳のように甘い。嚥下した。一日抱えていた空腹がほんのすこし埋まる。
は、と唇の合間からふたりぶんの吐息が漏れる。舌をすり合わせていると、頭がぼうっとしてくる。
私は他者とのキスで命をつないでいた。正しくは口移しで、私への愛情を与えてもらって生き延びていた。それが一般の食事に相当する。なければ飢えてしまうのだ。
口移しで糧をもらう私を、母はひな鳥にたとえた。わたしの可愛いひな、私の唾液にまみれた唇で歌うように言って笑う。母の瞳の中で、朝焼けに似た薄桃色の遊色が散った。人に非ざる目だった。
私と母は、雑種だ。夢魔、吸血鬼、もしくはそれ以外の夜の眷属。その血脈が薄れ混淆しほとんど人のようになって残った。世界で二人だけの生き物だ。
母はどうなのか知らないけれど、少なくとも私には彼女がいればよかった。母以外からの愛情は欲しくない。それに、好奇心でほかの人とキスしたこともあったけれど、薄くてすぐにおなかがすいてしまった。
正しく、私は母がいないと生きていけない。
その母が死んだ。
山の中で見つかった。高所から落下したらしく、身体はところどころがはじけて、潰れていたけれど、登山を想定していたとは思えない軽装だった。事件性を認められて司法解剖にまわり、でも真相はすべて闇の中。ただ私は、私たちのような生き物は、まともに死ぬこともできないのだと。
遺体は、警察から返ってきた時点ですでに棺に収まっており、開けることはできないと説明された。
喪服の厚い生地が肩口でわだかまった。おととしまでは制服でよかったのだけれど、大学生となった今はそうもいかない。知人から借りた喪服はいろんなところがきつかったり緩かったりした。
線香の煙で部屋は乾燥していた。妙に人工的な蛍光灯の明かりがまぶしいくらいなのに、隅に夜闇がわだかまっているようだった。さみしくて、それ以上におなかがすいていた。
司法解剖に数日かかったから今日まで飲まず食わずで限界だった。母の棺にもたれかかって、表面を爪でひっかく。この分だと遠からず私も同じ場所に行きそうだ。特殊な体質のせいで飢えはいつも身近にあったけれど、死ぬのはどんな気分なのだろう。
棺の木肌に唇を寄せた。桐の表面を小さく舐める。唾液が木目に吸い取られていった。木の味がする。おなかはすいたまま。でも、棺はわずかに母の匂いをさせている、気がした。絶望的な腐臭だったけれど。どれだけ濁っても母の体臭だ。恋しい。苦しい。異常な飢餓にはひはひと犬のような呼吸をする。唾液がたらたら顎を伝って桐の表面に溜まる。
「おかあさ……」
「あ、あんたなにしてんの……?」
背後から当惑の声がして、振り向く前に肩を引っ張られた。
強制的に対面させられたその顔は、父の顔だった。いや、もうお父さんじゃない。あの時からただの、私たちを裏切った人の顔。
彼ははっと大きな目をして、私のことを凝視していた。そのときぐうと胃の空白が鳴った。
──この人は私にご飯をくれる?
「あんた、前に俺……」
「わたしのことすき?」
「……は!?」
急に裏返った声が鼓膜に突き刺さる。大きな声は苦手だったけど、それに顔をしかめるような余裕もなかった。目の前の顔が、頬や唇が急速に血色を宿すのを見ていた。おかあさん、いっぱいご飯をくれたときはきまってこんな顔をしていた。いいのかな。くれる人かな。もう限界だ。もう、いい、なんでも。赤ん坊でも老人でも犬でもサルでもムカデでも、大嫌いな顔でも、よかった。
黒いスタンドカラーを引っ張ると目の前の人が不意を突かれてつんのめる。無防備に開いた口へ唇を重ねて、舌をねじ込んだ。
声にならない悲鳴みたいな吐息が私と彼の咥内で消える。かきまぜた。味、が、した。溺れるように意地汚く飲み込んだ。唾液と、私に向いた彼の感情を。久しぶりの栄養だった。目が霞む、と思ったら泣いていた。母の棺の前で、腹が満たされたことに歓喜して泣いていた。私はほんとうにひとでなしだった。
動物の本能で彼の口の中を舐めてしゃぶった。私の肩をつかんでいた手の力が次第に縋るものへと変わる。わずかな抵抗を見せながらも彼は諾諾と捕食されていた。
彼のくれる食事は母よりもっと焦げ付いて、シロップ薬みたいな甘さで、喉に張り付いた。
「──、ぁ、なに」
「……はっ、はあ」
彼が力を振り絞って、私の身体を引きはがす。唇をつなぐ唾液の糸を彼は真っ赤になって見ていた。指先までぽかぽか暖かくて、それにうっとりした気分でしばらく彼の表情を眺めていた。少し吊り上がり気味の目、溝の深い二重、薄い唇。うらぎりもののおとうさんのかお。輪郭だけは、覚えているより少し、幼い……。
「──うわあ!?」
そこで正気を取り戻して、彼の胸を突き飛ばした。反動で私の方がしりもちをつく。棺に太腿を強打して大きな音が響いた。いた、とこぼすと慌てたように彼が屈む。
「だ、大丈夫……?」
「こ、来ないで」私の顔をのぞき込んで、彼が瞠目する。なにが見えただろう。怯えか、怨嗟か。「……神宮字さん」
「……俺のこと知ってるの?」
「知ってるも、なにも……」
十歳まで一緒に暮らしてた。つぶやくように言うと、彼はその目を猫みたいに見開いた。嫌悪が瞳の中にいっとき灯って消えた。
「あんたは、柊さん? 柊桃子の娘?」
「そ、そうだけど……」
「なら、あんたが言ってるのは、親父だ。俺は、あれの、息子」
「息子?」
「神宮字羊一」
あの人は峰生といったはずだ。確かに、落ち着いて観察すれば、羊一と名乗る彼は黒い学生服を着ていた。あの人には、私より二つ下の息子がいると聞いた。二つ下なら高校生くらいだ。歳は合う。
親父に付いて弔問に来た、と彼は言った。
でも、息子といってもあまりに似すぎだ。対面しているだけで恨めしさがじくじく湧いた。似ている自覚はあるのか、彼は手の甲で自分の頬をこすった。
「……別人、だから」
「そう……。あの、ごめんなさい、くち」
「ああ、あれ、なんだったの? 急に、き……キスとか。実はすごい痴女なの?」
「そんなんじゃない。けど……」
「実は痴女」の方がまだしも現実味がある。キスが食事になるなんて。けれど羊一は荒唐無稽な私の話を、終わりまで黙って聞いていた。ずっと重ねていたせいでまだ赤みのひかない唇を、親指の腹で撫でている。
あらかたの説明が終わると、考えるように首をかしげて、それから私へ尋ねる。
「ずっとキスできないと、さっきみたいになるの? その、誰彼構わず食事をもらう感じに」
「試したことはないけど……そうかな……」言っていて気分が暗くなった。痴女妖怪だ、そんなものは。「でも、私のこと、好きな人じゃないと意味がないから、そんなことしても結局死んじゃうんじゃないかなあ」
ぐう、と羊一が突然打撃を受けたようにうなった。耳が赤い。どうかしたのか。うつむいてしまった彼のつむじを見ながら考えて、数分経って理解した。
「羊一くん、私のこと好きなの?」
「うぐ……ぅ……」
「なんで? 話したこと、ないよね?」
「あああ……」
突然人語を話さなくなってしまったので、様子を見る。しばらくかけて復帰した彼が、ぱっと顔を上げる。
「あの! さ」
「な、なに?」
「あんた、これからどうすんの?」
「これから、って?」
「よければ、俺が、あんたの食事──」
「や、やだ」
言わんとすることを理解して、とっさに拒絶していた。
ぎゅ、と自分の身体を抱く。目元、眉の形、鼻筋の通り方。すごく、似てる。憎らしいくらい。頬に残る幼い印象も、これから数年たてば薄れて、もっとあの人そのものになるのだろう。あの唇とキスをしたくない。母が愛した人、私たちを裏切った人と。
いや、と身体を引いた瞬間羊一は唇を結んで、こぶしを握った。その関節がじわりと白くなる。
「っ、なんで」
「だって、顔、が」
「ちが、違うよ、俺」
「おとうさん──」
こぼした瞬間、ヒュ、と羊一が鋭く息を吸った。頬がこわばっていた。
虎の尾を踏んだ気がした。
「──違う! 俺は、あれとは違う! あんなのとは……!」
肩を強くつかまれる。関節が外れてしまいそうなほど力が込められて、喉の奥でうめいた。
いたがって身をよじる私を押さえつけ、彼の口の端が痙攣するみたいにひきつる。顔を横切る亀裂に似たその表情が、いびつな笑みだったことに、しばらくして気づいた。ハハ、と妙に明瞭な笑い声がする。
「でも、でも、ねえ。あんた、選択肢なんかないでしょ」
「なにを……」
「あんたのことが好きな奴なんて、もうさ、世界に俺しかいないじゃない」
大好きなあんたのおかあさんは、ほら、死んでしまったんだから。
呆然と、間近で羊一の豹変を見つめる。
乾いた声で少し笑って、それから彼はぼろぼろ泣いた。冷たい涙が喪服の胸に降ってきた。
玄関に足を踏み入れた途端、びしゃり、と頭から液体がかけられた。
アルコールの匂いがする。どうやら酒らしい。目に入らないように袖で拭った。
玄関先には、私と向かい合って、空のグラスを持った女性がいた。中年のきれいな人だけれど、足元も目の焦点もおぼつかない。昼間から泥酔しているようだ。
彼女は羊一の母親だった。羊一は私を彼の自室に呼ぶから、高い確率で彼女とも鉢合わせる。驚くほど羊一と顔が似ていない。酒気でぽってりとした唇が開き、そこから恨み言が流れてくる。
「あんたも、あんたの母親も、疫病神だ」
反駁する気なんて起こらなかった。うつむいた髪から酒の雫が落ちる。これは、魔除けの酒だったのかもしれない。酒の帯びる聖性など効かないわが身が悲しかった。
「本当は、あたしがあの時、結婚するはずだったのに──」
何度も聞かされて覚えてしまった。
長く交際し、将来を約束していた恋人が、突然子持ちの女に一目惚れした。その不実をいくらなじろうと彼は私の母を諦めてくれず、ついに自分は「家庭のある男と不倫する女」になり下がったのだと。
私と母にとっての幸福な日々は、一つの不幸の上に成立していた。
彼女の横をすり抜けて、階段へ足をかける。羊一の部屋は二階の一番奥にある。ドアを開けると、机に向かっていた彼が椅子を回転させて私を見た。
「びしょびしょだ。どうしたの?」
「いや……」
「母さん?」
黙る私へ、ふうん、とだけ言う。返事なんてなくても察しているのだろう。私が来るようになってから、彼の家は、数日おきに訪れるだけの私にもはっきりわかるほど空気が悪い。そんな家庭の不和にも頓着しない様子で、彼はカバンを漁ると中からタオルを取り出した。放られたそれを避けられず顔からかぶる。
「部活用のやつ。まだ使ってないよ。それで拭いて」
「う、うん」
もそもそ、顔周りと髪の水分をふき取る。タオルからもつんと酒の匂いがする。結構度数が強いのかもしれない。お酒に弱くなくてよかった。肌から吸収した分では、酔っぱらうまでには至っていない。
「タオル、洗って返すね」
「いいよ別に。母さんが嫌がったら、俺がテキトーに洗うし」
「や、でも……」
「そんなことどうでもいいよ。ね……久留守、お腹すいただろ」
ぐ、と喉が詰まった。いやだ。でも、おなかすいた。ほんとうは倒れてしまいそうだ。
どうする? と羊一が私に笑いかける。あの日からずっと壊れたままの笑顔で。
「くだ、さい」
「どうしたらいいと思う?」
「お願いします。ください、きすしてください」
「でもあんた嫌なんだよね? 親父と同じ顔にキスされるの」
はい。いやです。
今でも、どうしても好きになれない。裏切った人で父親だった人だ。キスなんてしたくない。もう飢えて死んだっていいと思うのに、でも、私はいつも空腹に耐えられないのだ。
フローリングに膝をついて、頭を擦り付けた。涙が止まらないのを見られたくなかった。羊一は私が泣くと嬉しそうにする。
「お願いします、ごめんなさい、キスして、きすして」
「人ってこんなに惨めになれんだね」彼も膝立ちになったようで、声が少し近くなる。「あんたを見てるといつも思うよ」
頬に手が添えられる。栄養が足りず血の気のない私よりも、ずいぶん熱い手だ。掌に導かれてそっと面を上げた。濡れた下瞼を親指がなぞる。
「キスしよっか」
「はい、ください、ください……」
「もう黙っていいよ」
つぐんだ口に唇が重ねられた。
どろどろ、にがい、焼け焦げた恋の味がする。
無残に炭化した彼の恋情が、私はかなしかった。歪な関係に陥った私たちは、もうこの先、お互いのしあわせを壊し合って生きることしかできないように思う。
私、はやく死なないかな。
他人事みたいに考える。全部不幸にする前に、死にたいな。溶けちゃいそうに熱い羊一の舌に舌をからめ取られる。彼の恋情を呑む。
そうして、また数日の命を繋ぐ。