89-1
しばらく待つが、くちびるに変化はない。
薄く目を開けると、ベオウルフが下を向いてもじもじしていた。
やっぱり恥ずかしいんだ。
「あの、アッシュお兄さん。ボク、なんだか急に恥ずかしくなってきまして」
「それならやめよう。無理することはない」
「い、いえ! それはダメです!」
覚悟を決めた表情をしたベオウルフが俺に急接近する。
そして俺の頬に自分にくちびるをつけた。
一瞬の出来事。
口づけを終えたベオウルフはすごい勢いで後ずさりした。
風呂上がりのように頬を紅潮させて、ぼんやりとした顔をしている。
俺は口づけをされた頬に触れる。
わずかに湿っている。
「すっ、すみません。どうしても口と口でキスするのはできませんでした」
「あ、ああ……」
「ボクなんかとキスしても面白くないですよね……」
「そんなことはない。ベオウルフみたいなかわいい女の子にキスされてよろこばない人はいないさ」
「はうう……」
ベオウルフは余計顔を赤らめてしまった。
なんだかきまずい。
キスするまえは平然としていたベオウルフは、いざことを終えると恥じらいを見せていた。
「胸がドキドキします。どうしてでしょう」
「それは――」
そのとき、扉からガチャリと音がした。
カギが開いたのだろうか。
ノブをひねって押してみると、扉が開いた。
「ほっぺたにキスでもよかったんですね。安心しました」
どうやらなんとか試練を乗り越えられたらしい。
扉の先の廊下を進み、階段を上がると書斎があった。
書斎には押し売りの老人が俺たちを待っていた。
「よくぞ試練を乗り越えた。若き男女よ」
大仰な身振りと口調で老人は俺たちを歓迎した。
「いったいなんのつもりだ。ポルックス」
「おや……」
「え、アッシュお兄さん、このおじいさんの名前を知ってたんですか?」
ようやく思い出したのだ。
こいつは賢竜ポルックス。人間の姿に化けた変わり者の竜。
以前、旅の途中でいろいろと関わったのだ。
「おじいさん、竜だったんですね……」
「私を憶えていてくれて光栄だよ」
ポルックスは人間を犠牲にして不死の研究をしていた。
善か悪かに分類するならば完全に悪寄りだ。
「お前の悪趣味な研究に俺たちを巻き込むつもりか」
「そう邪険にしなくてもよかろう。王都に住処を移して思考盗みの魔法の研究をしていたら、偶然この少女の悩みを聞いてしまったのだよ」
思考盗み……。
やはり悪趣味だ。
「悩みを聞いたからには解決の手伝いをするのが人というもの。まあ、私は竜だがね。とにかく、私は純粋に彼女を助けるつもりだったのだよ」
「あの危険な試練は……」
「困難を乗り越えなければ価値は生まれないだろう?」




