35-6
マリアが俺のほっぺたをつつく。
「アッシュ、聞いてますの?」
「聞こえない」
「まあっ、アッシュったら。恥ずかしがりやですわね」
ふふふっ、とマリアは笑みを浮かべていた。
――と、そのとき、視界の端に黒いものが映った。
俺は上半身をひねり、前方を見る。
街道の先になにかが立ちふさがっている。
「おじいさん。道の先になにかいます」
「ワシは目が悪いから見えん」
人ではない。
目を凝らす。
その黒いものは四つ足で立っている。
獣か。それとも魔物か。
「馬車を止めてください」
馬車が止まると、俺とマリアは黒いものの正体をさぐるため、道の先へと進んだ。
「魔物ですわ!」
道に立ちふさがっていたのは魔物だった。
オオカミをひと回り大きくした、黒い体毛の魔物。
ブラックウルフだ。
しかし、ブラックウルフがなぜここに……。
ブラックウルフは基本的に群れで行動し、森林で獲物を連携して狩る。
人通りの多い昼間の街道に――それも単独で現れることはまずないはず。
ブラックウルフは俺たちをじっとにらみつけている。
しかし、襲ってくるこようとも、逃げようともしない。
「わたくしの魔法で追い払いますわ」
「待て、マリア」
俺は攻撃しようとするマリアを制止し、ブラックウルフへと近づいた。
人間が接近してきても、ブラックウルフは動こうとしない。
それどころか、その場にしゃがみこんでしまった。
こいつ、ケガしている……。
近づいてようやくわかった。
ブラックウルフは背中に大きな傷を負っていた。
他の魔物と戦ったのだろう。ツメによる負傷だ。
この傷では助かるまい。
マリアがおそるおそる近寄ってくる。
「ケガしてますのね……」
手負いのブラックウルフはその場にしゃがみこみながら、無言で俺たちを見上げていた。
俺は魔書『オーレオール』を片手に持ち、ブラックウルフに手をかざす。
そして、魔法を発動させた。
淡い光がブラックウルフを包む。
すると、背中に負っていた傷がみるみるうちにふさがっていった。
傷はまたたく間に完治した。
ブラックウルフが立ち上がる。
俺とマリアは身構えたが、ブラックウルフはすぐさま走りだし、街道を外れて林の中に逃げ込んでいった。
冒険者ならば魔物は倒すべきなのだろう。
しかし、俺はそれができなかった。
この行為は冒険者として間違っているのだとわかっていながら。
「やさしいですのね」
マリアが微笑みながらそう言う。
「そういうアッシュがわたくし、好きですのよ」
これまで散々、結婚だの婚約だの言われてきたのに、こんな自然に「好き」と言われて俺はどきりとしてしまった。




