39.生命はシステムに宿る
雪は先ほど車から見た時よりもほんの少しだけ強くなり、道端に止まっている電気自動車の屋根にうっすらと積もっているのが見えるほどになりました。気温はますます寒くなり、手袋をしていない手からあっという間に感覚を奪います。
厚手のコートを着た清一くんは、もう一着のコートを手に、家の前で左右に広がる道を見渡しました。さて、エメトは何処へ行ったのでしょう?
三秒もしないうちに、電柱の影からこちらを伺っている部屋着のままのエメトの姿を確認できました。なんだあいつ、とっくに遠くへ行ったかと思ったらあんなところで隠れてるよ、と思って清一くんが近づこうとすると、エメトはさっと身を翻して逃げ出しました。
「あっ! 待て、なんで逃げる!」
清一くんはエメトを追って走りました。いわれもなく始まる寒中追いかけっこ。エメトは子ギツネのごとく素早く逃げました。散歩中の老人とすれ違い、猛犬注意という札の掛けられた家の前で吠えられ、ダラダラ歩く小学生の集まりを追い越して逃げました。清一くんは裸の並木の下を駆け、コンビニから出たおばさんとぶつかりそうになり、タイ焼き屋の前に並んでいる人々の視線を浴びながら追いました。
エメトは無尽蔵かと思われる体力を持っていました。最初は追いすがっていた清一くんも、いつまでたってもスピードの落ちないエメトには追いつけません。疲れて立ち止まると、十五メートルほどの距離を開けてエメトも立ち止まりました。また走ると、エメトもその距離を保って逃げました。
どれぐらい走ったでしょう。お母さんを迎えに来た駅をかなり通り越し、人気も少ない郊外の池の前でエメトはようやく逃げるのを止めました。汗だくになった清一くんがゼエゼエ息をしながらようやく追いつきます。
口をきく前に、まず清一くんは持ってきたコートをエメトに投げつけました。
「着ろ」
エメトはまだ部屋着のままでしたし、激しい運動の後とは言え、清一くんのように息が上がっているわけでもなかったので、見る人間にとってはとても寒そうです。
「こんなもの着なくても、別に風邪なんかひきませんよ。それにこう見えて、今熱いぐらいなんです。走ったおかげで全身の人工筋肉が熱を帯びていまして」
「いいから着ろ! 見てて寒いんだよ!」
怒られてエメトはしぶしぶコートを着ました。池には鴨の親子がいて、すいすい泳ぎながらたまに水面に顔を突っ込んで何かを食べています。エメトは清一くんの顔を見ないで、その鴨の方ばかり見ていました。
「何で逃げるんだよ……」
まだ少し荒い息をつきながら清一くんが言います。
「清一さんが怒っているかと思いまして……」
「こんなに逃げなきゃ別に怒んねーよ」
「ごめんなさい」
エメトはしおらしく頭を下げました。清一くんは気まずそうに頭に手をやって髪の毛をいじり、それから白い息を吐き出して、池に面した短い草の生えている土手に腰掛けました。エメトがおずおずと歩いて行って、その隣に膝を抱えて座ります。
「清一さんは、あの時私の気持ちが分かったのですか?」
エメトは清一くんの顔色を伺いながらたずねました。清一くんは家を出る前に、エメトがお母さんに食って掛かった時のことを思い出します。
「別に分かりゃしないよ」
「でも私、清一さんに言われる前から、怒るべきかどうか迷っていました」
「それは俺が、エメトが人間だったらきっと怒りたいだろうと勝手に想像しただけ」
「…………」
二人の見ている前で、池の鴨がくわぁと呑気な声で鳴きました。
「相手の気持ちなんか分かんないよ、例え人間同士でも。ただ俺たちは、勝手にお互いの気持ちを想像して、分かったつもりになってるだけだ。本当に相手がどう感じているかなんてことは分かりっこないし、心なんて証明しようの無いもの、本当にあるのかどうかも……」
清一くんは遠い目をして、遠くの空を飛んでいる鳥の影を見つめながら語ります。清一くんの吐く息は白く、隣のエメトの吐く息は透明でした。エメトの息が白くないのは、吐く息に含まれる水蒸気が人間の吐息よりもずっと少ないからです。今度は出かける前に水でも飲ませておけば、エメトも白い息を吐くようになるかなと清一くんはぼんやり考えました。
「私は確かにあると思いますよ。心って」
エメトは清一くんの顔を真っ直ぐ見つめて言います。
「最近やっと分かってきたような気がします。今まで私が模倣しようとしてきたものの正体が。私と言う存在は、そもそも人間の行動原理をコピーすることを目的として作られていました。だからそうすることが正しいと思って、ずっと人間を観察し、その行動を真似てきたのです。でも本当に大事なのは実際の行動ではなくて、その行動を起こさせる元となった意思だったのですね。他人から見れば同じ行動でも、意思が違えばその意味は全く違ってくる。同じように話していても、それは本当なのか、嘘なのか。素直な気持ちからの行動なのか、それとも自分の意図に反した結果なのか。出す答えは同じでも、それを導く計算式が違うということが重要なのです」
エメトはここで立ち上がり、広い池に向かって演説をするように大きな声で語り始めました。
「人間はみんな同じように見えて、内側では全然違うことを考えている! 清一さんを愛するあまりに私の机にネズミ花火を仕掛けた仁名村さんも、その仁名村さんの恋愛の面倒を根気よくみている友達思いの西口さんも、普段は毅然としているけれど、関さんの話になると途端に顔の締まりが緩む蔵持さんも、見た目はカッコいいのに普段のあまりにも情けない態度で台無しと女子の間で噂の関さんも、いつもお調子者でクラスの盛り上げ役の須藤さんも、すごく強そうなのにいつも黙っている大島さんも、山田先生やクラスの他の皆さんも、みんなみんな、見た目に分かる行動からだけでは想像もつかないような〈心〉という広い世界を抱えている! 素晴らしい! 私はもっと知りたい、心という物が分かるようになりたい、そして、私自身も心と呼べるものを持つようになりたい! ……私がそう思うのも、元を辿れば人工知能の根元に据えられた〈人間を模倣せよ〉というプログラムによるものなのかもしれませんが……でも、それはそれでいいのです。どういう由来にしろ、今はそれが私自身の〈気持ち〉なのですから」
演説が終わる頃には、鴨の親子が怖がって池の奥に泳ぎ去ってしまっていました。エメトはやり遂げた顔をして、再び清一くんの隣に座ります。それから、
「そして、私が一番知りたいのは、清一さんの気持ちですよ」
そう言って笑い、清一くんの顔を覗き込みました。
清一くんはここで目をそらすと何かに負けてしまう気がしてエメトの目を見つめ返そうとしましたが、一秒やっと保ったぐらいであえなく負けました。エメトが勝ち誇ったように楽しそうに「ふふ」と笑うので、清一くんはどうにも面白くありません。ちぇっ、と小さく舌打ちして、
「エメトお前、いつの間にか生身の人間と入れ替わってんじゃないだろうなあ」
と、改めてエメトの目を睨んで、瞳の奥のマイクロカメラを覗き込みました。すると、
「もっとちゃんと確かめてみて下さいよ」
そう言ってエメトは手を伸ばし、清一くんの頭を自分の胸に抱き寄せました。エメトの胸からはヴ――ンと低く響くモーターの音が聞こえます。今日は何もつけていないので、コートの布地の臭いしかしません。エメトはやっぱりロボットでした。
「ほらね。変わらないでしょう?」
大切そうに清一くんの頭を撫でながら、エメトが優しく呟きます。清一くんはその胸深くに顔を埋め、どうかするとそのまま眠ってしまいそうな安心感を感じていました。まどろみに飲まれないように目をしっかりと開いて話します。
「いいや、お前はやっぱり生きてるよ」
それを聞いた瞬間、エメトの瞳の奥でマイクロカメラがキューンと音を立てました。
「人間とは違うけど、見りゃわかる。エメトはロボットとして生きている」
自分の胸から顔を上げた清一くんを、エメトは感電したように目を見開いて見つめています。
「清一さん、私たぶん、今初めて、嬉しいという気持ちを心から理解しましたよ」
エメトの中のコンピューターは自分の人工知能の状態を確認しました。そしてそこに無数の0と1との積み重ねによって描き出される感情という影を、これこそ〈嬉しい〉という状態だと定義してメモリーに焼き付けました。また、それは不思議と泣きたい気持ちでもあったので、エメトはごく自然に目から少しの涙をこぼしました。
粒の細かい雪がしんしんと降り続けていて、次々と池の水面に落ちては溶けます。遠くで電車が通り過ぎる音が聞こえます。
清一くんが言いました。
「なあ、お前はいつまでウチにいられるんだ?」
「少なくとも、一人の生徒として高校を卒業するまではいる予定です」
「そうか……」
エメトの答えを聞いて清一くんは悲しげに、池の向こう岸近くでガァガァ話し合っている鴨達に目をやりました。卒業するまで一緒にいられるとしても、その先は一体どうなるのでしょう。どんなに人間らしくなっても、エメトは結局株式会社ゼロワンシステム所有のロボットです。学校生活を通じて立派に人間的な判断のできるAIを育てたら、商品としての存在に戻る運命なのかもしれません。コスト方面の問題で量産できない以上、当面の役割は会社のマスコットとして宣伝活動をすることでしょうか。
人間そっくりの見た目と内面を持つロボットとしてのエメトの存在が公表された時、世の人々が受ける衝撃は相当なものになるでしょう。そして、その技術を持ったゼロワンシステムの社会的影響力は計り知れないほど大きなものになると思われます。
やがてエメトのAIを元に、エメトと同じようなロボットが量産される時代が来るかも知れません。それから先の世界がどうなっていくのかは、二〇五八年の今を生きる清一くん達には計り知れないことなのでしょう。
清一くんにとっては、人類の未来もゼロワンシステムの躍進もどうでもいいことで、ただひたすら、エメトと過ごす時間を永遠のものにできないことだけが重要な事実でした。
「大丈夫ですよ」
エメトが清一くんの手を握って微笑みかけます。
「私のコンピューターはインターネットに繋がっているんですもの。その気になれば、私を捕まえられる者はこの世にありません。例え物理的には離れても、清一さんがPDAを持っていれば、いつでも会えます」
その言葉と同時に清一くんのポケットの中から「メールですよー」と例の着信音が聞こえました。PDAを取り出して開くと、画面が真っ白になっていました。アイコンも背景画像も何も表示されていません。故障かと思いきや、次の瞬間画面いっぱいにエメトの顔が映し出されました。それからカメラが少し引いて、バストアップになったエメトが清一くんに手を振っています。
PDAのスピーカーから声が聞こえました。
「マイクもカメラもハッキングしたから、ほとんど問題なく相互通信できますよ。PDAじゃなくても、パソコンやテレビ、自動車のカーナビ、ネットと繋がってる電化製品なら何でもあっという間に乗っ取れます。やれというなら飛行機や人工衛星だって落とせると思いますし」
「や、やめとけよ?」
PDAに向かって返事をすると、隣で本物のエメトがクスクスと笑いました。つられて清一くんも笑います。しばらくの間、楽しそうな笑い声が池に響きました。
清一くんはもう、エメトが自分の元を去れば二度と笑えなくなるであろうことを認めざるを得ませんでした。生き生きとした表情を見せるエメトを見つめ、穏やかな気持ちで言います。
「いつか大人になったら、何とかして金を稼いでお前を会社から買い取るよ。そうすりゃわざわざPDAなんか使わなくて済むだろう?」
「期待してます。その頃にはもっと安く買えるようになっているといいですね」
「全くだ。十億なんて金何すりゃ手に入るのか見当もつかん」
「私が手近なネット銀行にでも侵入して……」
「やめとけ」
ひとしきり笑った後は、お互い黙って静かな時間が訪れました。それはなんとも心地よい沈黙でした。清一くんは凍死するまでこうしていようかと思ったほどでしたが、さすがにそうも行きませんので、何度目かの電車が通る音を遠くに聞く頃、名残を惜しみつつも立ち上がらなければなりませんでした。
「帰るか、そろそろ」
「はい」
家に帰った途端、お母さんがすがり付いて泣きながら謝って来たので清一くんは大いに困りました。エメトが「いいんですよ、お母さん」と言って快く許したので、彼もそれに倣います。
お母さんはカレーの残りも食べないで清一くん達の帰りを待っていたようです。その間、お父さんにもこってり叱られたらしく、清一くんは帰るのが遅くなって悪かったなと思いました。
「なんだか複雑だけど、こういう事ってあるのね。もうあなたをただのロボットだとは思わないわ。これからは家族として仲良くしてくれる?」
「ええ、もちろん」
エメトとお母さんは握手してめでたしめでたし。
それからすっかり冷めてしまったカレーを温めなおして、ちょっと遅いけれどお昼ご飯をみんなでやり直しました。四角いテーブルを四人で囲んで、やっと大きなテーブルを満足に活用できた感じです。今日は特別にエメトもカレーを食べました。「凄く美味しくて、後で洗い流さなきゃならないのがもったいないくらいですよ」なんてエメトが言うので、「バカ、出さなきゃ腹の中で腐るだろう」とお父さんが叱りました。それからお母さんは、またおおはしゃぎでカレーをおかわりして、「太るぞ……」と清一くんにたしなめられました。
あまりにも広かった家が、やっと正しい人口密度になりました。独りで過ごす時間の長かったことを思うとまるで夢のようで、清一くんはどうにかして時間が止まらないものかと真剣に悩んでしまうほどです。けれどそういう時に限って時計の針は張り切って回るもので、太陽は撃ち落とされたように沈み、月は砲弾のように空を通り過ぎて、あっと言う間に一日が終わるのでした。