38.怒れエメト
「うまいっ!」
一口食べるなりお母さんが絶叫しました。お母さんはカレーライスを食べる前に全部ぐちゃぐちゃにかき混ぜてしまうタイプでした。
「あーうまい。やっぱ日本で食べる日本のカレーは最高だわ。特に腹を痛めて産んだ息子が作ったカレーは世界一うまい! 今まで色んな国に行ってきたけどこれよりうまいもんには会ったことがないもんね。このまったりとした……ルーのアレが……えーと、しいたけがやわらかくて、あと肉がうまい。うまく言えないけどうまい。なんていうかもう、産まれてよかった!」
お母さんは三日ほど何も食べていなかったかのような勢いでカレーを体内に流し込み、清一くんが三分の一も食べないうちにお皿を綺麗にしてしまいました。当然、目を猛禽類のようにらんらんと輝かせながらおかわりを要求します。
「自分でやれよ……」
と文句を垂れながらも食事を中断して二杯目をよそってやる孝行息子の清一くん。
二杯目の時はさすがにお母さんも余裕が生まれたらしく、やっぱり最初にぐちゃぐちゃに混ぜてから、ゆっくり味わって食べ始めました。
「そういえば、すっかり忘れてたけど、噂のロボットはどこにいるの?」
落ち着いた矢先のお母さんの言葉に、清一くんのカレーを食べる手が止まります。
「そうだな、もういいだろう。清一、呼んで来い」
「え? 嫌だよ親父が行ってくれよ……」
「仲直りするチャンスをやってるんじゃないか。いいから早く行け」
「…………」
一度は反抗して見せたものの、本当は誰よりも一番気になっている清一くんは、結局憮然とした顔で席を立ちました。不機嫌そうな足取りで二階へ向かい、エメトの部屋の扉をノックします。
「おいエメト、出て来い」
しばらく間を置いて、遠慮がちな声が扉の向こうから聞こえました。
「行ってもいいのですか?」
「母さんが帰って来たんだ。挨拶ぐらいしろ」
「……はい」
おそるおそる、と言った感じでゆっくりと扉が開き、エメトが顔を出しました。今まで見せたことが無いような情けない、しょんぼりした顔をしています。清一くんはそれと目も合わせようとせずに、さっさと背中を向けて階段を降り始めました。遅れないようにエメトが後を追います。
食卓に戻ると、お母さんが驚いた顔でエメトを迎えました。
「え? 何? 誰なのその子?」
「それがエメトだ。ロボットの」
お父さんの説明を聞いてお母さんの目がまん丸になります。清一くんは一度も口を開かずに、黙って席に戻ってカレーの続きを食べ始めました。
「へええ! こりゃスゴイじゃない。ロボットなんだ、この子!」
お母さんは食事の手を止めて席を立ち、思わずエメトに歩み寄りました。そのまままエメトの周りを歩き回って、色んな角度からジロジロと観察します。
「あの、初めまして。私はエメトです。清一さんとお父さんにはいつも大変お世話に……」
「うはは! 何これ! 勝手に自己紹介しだしたわ! すごいすごい!」
お母さんはとても興奮した様子で、エメトの言葉を途中で遮ってその頭をぐりぐり撫で回しました。首が右に曲がったり左に曲がったりするほど乱暴な撫で方でした。お母さんはそのままの調子で、髪の毛を引っ張ってみたり、肩を揉んでみたり、手相をよく見たりしました。それからエメトの右目を人差し指で突きました。
「わっ、見た目は本物の目玉みたいだけど、触ったらカタイよ。なんかちょっと濡れてる」
「お、おい、乱暴に扱うなよ。壊れたら洒落にならないんだからな」
お父さんが慌てるのもまるで知らん顔。お母さんは続いてエメトの目を指で開かせて、瞳の奥にマイクロカメラがあるのを見つけました。耳の穴を覗いたかと思うと、口を開かせて一本一本の歯の造型を見て感心したり、喉に指を突っ込んでみたりしました。舌の裏にプラグ差込口があるのも発見して、「あ! ここをコンセントにつなぐんでしょ! そうなんでしょ!」と大喜びしました。
「おいおいおい、無茶するなよ、ただのロボットじゃないんだから」
と、お父さんが少し強く注意すると、お母さんはムッと口をへの字に曲げ、
「なによ、ちょっと触ったぐらいで壊しゃしないわよ」
と、これ見よがしにエメトの頭を掴んで左右に揺らして見せました。
「私の知らないうちにこんな可愛い女子高生のロボットなんか作っちゃって怪しいわ! 何か変な使用目的でもあるんじゃないの~」
ジトーっと目を細くしてお父さんを睨むお母さん。
「ボディーを作ったのは俺じゃねえ!」
「はん、そんなの関係ないわ。服の下がどんな感じか見てやる」
と言って、お母さんはいきなりエメトの上着に手をかけました。今までされるがままになっていたエメトですが、この時はお母さんの手を掴んで抵抗します。
「あの……やめて下さい」
「あっ、この、逆らう気ね!」
お母さんはすっかりムキになって、両手を使ってエメトを脱がそうと襲い掛かりました。エメトは少し困った顔をしてそれをかわします。「バカ、何やってんだ、止めろ!」とお父さんが叱り付けますがお母さんは全く聞かず、押し倒さんばかりの勢いでエメトに迫り続けました。
ついに追い詰められたエメトは、襲い来るお母さんの腕を掴む手に、少しだけ力を入れました。
「痛いっ!」
もちろんエメトは十分手加減しました。お母さんの手に痣が出来るほど握ったわけではありません。ただちょっと、女の子の力としては強すぎるかなというぐらいの力で押し返した程度のことです。痛いと言うほどでもなかったでしょう。しかしお母さんはエメトの力が急に強くなってびっくりしたようでした。大げさに叫んで飛びのき、エメトの手が離れた次の瞬間、
「何よこいつ!」
エメトの頭をグーで力いっぱい叩きました。
コォンと人間の頭を叩いたのよりはわずかに高い音がして、エメトの首が張子の虎のように前後に揺れます。
「あっ、お前!」
お父さんが顔を真っ青にして怒鳴りました。エメトは一歩よろけましたが、すぐに体勢を立て直して、次に顔を上げたときにはもうなんでもないような表情になっていました。お母さんだけが激昂してお父さんに怒鳴り返しています。
「なによこのロボット! あ、危ないじゃないの! 凄い力で握ってきたのよ!」
「嘘つけ、どうもなってないはずだ! 人間相手にそんな力出すように教えてない!」
「何よお父さん、私よりこんなハリボテの味方するの!?」
言い合いをヒートアップさせる両親の横で、ずっと黙ってカレーを食べていた清一くんがスプーンを置きました。そしてエメトの方を見て、二人の声に負けないように叫びます。
「怒れ! エメト!」
お父さんとお母さんがハッとして清一くんを見ました。
「怒り方ぐらい分かるはずだ!」
「何よ、セイちゃんまでこいつの味方……」
泣きそうな顔でそう言いながら、お母さんがエメトの方に向きなおった時、エメトはキュッと眉間に力を入れてお母さんを睨んでいました。今までただのハリボテだと思っていたものに突然強い意思のこもった視線をぶつけられて、お母さんは息を呑みます。それは突然銅像に話しかけられたようなショックで、お母さんは思わずこう呟いたのです。
「――え? 生きてる?」
エメトはお母さんによって乱された髪の毛や衣服をさっと手で整え、改めてお母さんを睨みつけました。
「黙って我慢していれば、何なんですかあなたは。いくら清一さんのお母さんだからって、やっていいことと悪いことがありますよ!」
「え、あの」
「私、ちょっと出かけてきます!」
大声で怒鳴ったかと思うと、エメトは大股に歩いて部屋を出て行きました。乱暴に扉を閉める音の後、足音が廊下を遠ざかっていって、玄関のドアから出て行く音がしました。
お父さんとお母さんがポカンと口を開けて見ている中、清一くんは静かに席を立ち、エメトの後を追って部屋を出ました。
「……あ、おい、上着着て行けよ、寒いから」
背中で聞いたお父さんの言葉には「わかってる」と返事をし、清一くんは急ぎ足で自室までの道のりを往復してから出かけます。
お母さんは、テーブルにあるまだ半分カレーの残っている清一くんのお皿と、清一くんの去っていったダイニングの扉とを見比べて、迷子の子供のようにおろおろするばかりでした。