35.綺麗なことだけ選んで学ぶことはできない
清一くんが自分の家の自分の部屋に帰ると、清一くんのベッドに腰掛けて、エメトが漫画雑誌を読んでいました。
「お帰りなさい、清一さん」
漫画から顔も上げずに部屋の主人を迎えるエメト。
「そんなの貸してやるから、自分の部屋で読めよ」
「いちいち借りたり返したり面倒じゃないですか。ここで読んでしまえばいいんです」
ロボットの癖になんていうものぐさな奴だ、と清一くんは嘆息しました。こちらに視線を向けすらせず、だらけた格好で漫画を読むその姿はまるでぐうたらな妹のようです。
「ところで、今日は遅かったですね。西口さんとどんな話をしていたんですか?」
エメトが不意にそんな質問をしました。なんだかんだと話すのに結構時間を食ってしまっていたので、帰りは思ったより遅くなっていたのです。疑問に思われるのも無理はないことでした。清一くんはどう答えたものかと一瞬戸惑いましたが、まあ適当にごまかすことにして、「別に、単なる世間話だよ」と答えました。
「ほう、どこで?」
「駅前のハンバーガー屋……別にいいだろ、そんなことは」
不機嫌そうにそう言い、清一くんは勉強机に向かって椅子に座ります。それと同時にエメトは漫画を読むのを止めてベッドから立ち上がりました。
「ほう、放課後にハンバーガー食べながら二人で世間話。それは怪しいですね」
言いつつ、清一くんの背後に回ります。
「何も怪しくねーよ」
「しかし、世間的にはそれをデートと呼ぶのでは?」
「お前な」
清一くんは反論しようとしましたが、エメトが急に椅子の背もたれに手をかけ、清一くんをぐるんぐるん回し始めたのでそれはできませんでした。
「おい、やめ……」
「どんな世間話をしたんです? 気になりますねえ」
「ふざけ……」
清一くんが気持ち悪くなってくる頃に、やっと回転は止まりました。清一くんは若干危ない足取りで椅子から逃げ、回されないベッドの方に座ってようやく一息つきます。
「冗談ですよ」
奪取した椅子に深々と腰掛けたエメトが偉そうに笑って言いました。清一くんはもはや怒る気にもなれず、黙ってエメトを睨むだけ。
エメトは椅子から立ち上がり、座っている清一くんの前まで来て見下ろしました。
「清一さん、実は私、今日ちょっと怪我をしたのですよ」
「何だって? お前、そういうことはもっと早く言え」
清一くんはすぐ、いつも学校に持っていく鞄から特製パテのチューブを取り出しました。
するとエメトは黙って清一くんに背を向けました。そして、一体どこを怪我したんだと思って見ている清一くんの前で、そっと自分のスカートをたくし上げ始めたのです。
「おいっ、ちょっと待て!」
清一くんは慌てて止めました。
「何故です? 今見せてみろと言ったじゃないですか」
「そんなところ自分で塗れ!」
「自分では塗りにくい位置なんですよ」
エメトはしれっとした顔で言いつつ、怒ってベッドから立ち上がろうとする清一くんの肩をつかんで座らせます。そして、ぶつかりそうな距離まで顔を近づけて、優しく諭すような口調で言いました。
「ロボット相手に何を遠慮する必要があるんです? 腕に塗るのもおしりに塗るのも同じじゃないですか」
この時清一くんは、エメトの体からフワリとバニラのような甘い香りがするのに気が付きました。多分、初めから香水か何かを付けてからこの部屋に来ていたのでしょう。そう思うと清一くんは急に心臓が早く脈打つのを感じました。ロボットであるエメトには、本来香水の匂いと混ざるはずの体臭がほとんどありませんから、原液そのままの香りが少し鼻につきます。
「清一さん」
エメトは清一くんの肩を掴んだまま軽く押しました。清一くんはほとんど抵抗なくベッドの上に押し倒されてしまいました。こういうのを流されたと言うのでしょうか。
「……なんなんだよ」俎上の鯉となった清一くん、弱々しい声で反論します。
「こう考えてみてくださいよ、清一さん。例えば、今から五十年経ったとします。二一〇八年だから、もう二十二世紀ですね」
喋りながらエメトはマウントポジションを取るように体を移動させました。
「そうすると、今より大分技術が進歩して、私と同じようなロボットが普及し、町を当たり前に歩くようになります。丁度、今で言う清掃ロボットのようにごく普通の存在として認識されるようになるでしょう。そうなると当然、ロボットたちは様々な目的で利用されるようになりますよね。清掃ロボットの代わりに町を掃除することもできますし、自動販売機の代わりに店番もできます。宇宙や深海での作業もできますし、災害救助ですとか、危険な場所での仕事も平気です。となると、当然ある分野でも大いに私たちが活躍することになると思うんですよ」
自分の体にのしかかり、どこでそんな表情を覚えたのか、テロンととろけた視線を上から落としてくるエメトを、清一くんは難しい顔をして見上げていました。エメトは体温調節機能を少し高めの温度に設定しているらしく、体を押さえつけている手が熱いのを感じます。その熱さに反して顔は白いまま何の火照りもみられないのは、仕方のない事ですが少し悲しい景色でした。
「性産業は人間がある限り不滅の商売。ひょっとしたら規制されるかもしれませんが、まあどう転んでも絶対にそういう目的でロボットを使おうとする人々は後を絶たないでしょう。人間のそっち系の商売の人なんかあっという間に駆逐する勢いで広まるに決まっています。インターネットのアダルトサイトに、『見た目も性格もあなた好みにカスタマイズ!』なんて売り文句が踊り狂う様が目に浮かぶようじゃないですか。でも、その時にはもうそれが普通の世の中になっているのです。だからこれは何も悪い事じゃないんですよ」
そして……エメトはいよいよ清一くんのシャツのボタンに手をかけました。
「さあ、清一さん。時代を先取りしましょう」
エメトが本当にボタンを外そうとした時、清一くんは金縛りが解けたように素早く動いてその手を掴み、体を起こしました。握力最高百二十キロの人工筋肉を内蔵したエメトとはいえ、所詮体重は見た目に合った四十三キロしかないので、あえなくベッドの上に投げ出されます。
「……あっ」と、妙に色っぽい声を出して、エメトがもう一度取りすがろうとするのを、清一くんは冷たく突き放しました。
「お前、一体何を考えてるんだ?」
上下が入れ替わり、今度は清一くんがエメトを見下ろす番です。ただし、先ほどのエメトの熱っぽい視線と比べると、あまりにも温度の低い目で。
その視線を受け止めるエメトの瞳は、アクリル樹脂の模造品にもかかわらず、ココアのように甘く煮詰まって見えました。黒く潤んだ瞳孔の奥でマイクロカメラが絞りを調節する時、いつもと違う「ごぼ」という水っぽい音がするような気さえします。
「怪我はどうしたんだ、怪我は」
「すいません、嘘でした」
しれっとそう言うと、エメトはベッドの端に座りなおし、清一くんを上目遣いに見つめました。
「清一さんは、いつでも私のことを気にかけてくれましたね。いつでも私を庇ってくれたし、何より私のために怒ってくれました。私はロボットですが、この世で一番私を大切にしてくれているのがあなただということぐらいはわかります」
「…………」
「だから私は、清一さんのことが好きなんです」
その言葉で、ギュッと清一くんの眉間にシワができました。むしろ酷く傷つけられたように悲しそうな顔をして、視線を壁の時計に移します。もう夜の七時を回っていました。
エメトは清一くんのズボンの裾にそっと手を伸ばして言います。
「愛しているならこうしたいと思うのは当然なんじゃないですか?」
「もういい! やめろ!」
その手が触れる前に、清一くんは怒鳴ってエメトを黙らせました。椅子に座り、憔悴した様子で頭を振り、ため息をつきました。エメトを一瞬睨んだかと思うと、また壁に視線を戻しました。
様々な感情が一度に押し寄せ、焼けた鉄の棒で頭の中をかき混ぜられているような気持ちです。視線が一点に定まらず、あっちをみたりこっちを見たり、俯いたり天井を睨んだりを繰り返しました。その傍らでエメトは、ベッドに腰掛けたまま何も言わず、両足の膝小僧がくっついたところに目を落としていました。気まずい沈黙がしばらく続きます。
「お前、もう俺の部屋には来るな」
清一くんが壁を睨みながら言いました。
「漫画が借りたいときは部屋の外で受け渡ししてやる。だからもう出て行け」
「でも……」
エメトは口を開きかけましたが、その後に言葉は続きませんでした。エメトには後姿だけで清一くんの言いたいことがある程度分かるようです。立ち上がり、物言わぬ背中に向けてぎこちなく微笑んでみたり、真面目な顔で見つめてみたりしましたが、もうそれ以上、清一くんはエメトの方には一瞥もくれませんでした。
エメトはしばらく名残を惜しむようにそこに立っていましたが、やがて、扉を開いて自分から部屋を出ました。扉を閉めるときは音を立てないようにそっと閉めました。
エメトがいなくなった後、清一くんはギリギリの水位で保っていたコップの水が僅かに溢れ出すように、一粒だけ涙をこぼしました。
自分の部屋に戻ったエメトは、机の上に他のいろんな物と一緒に無造作に置いてあった手鏡を手にとって椅子に座りました。鏡に映る自分の顔をつぶさに観察します。笑ってみたり、泣き顔を作ってみたり、怒った顔になってみたりしました。照れ笑い、得意げな顔、知らん顔、右側は笑って左側は泣く、と、鏡の中の顔が百面相をします。先ほど清一くんの部屋で作った「トロけた視線」も鏡に向けて試しました。エメトの作る表情は今やどれも完璧と言えます。
しばらくそうして表情テストをしていたエメトでしたが、嘲り笑いの後で急に無表情に戻りました。何の表情も作っていないその顔を、今さらのようにじっと見つめます。そうしていると、鏡の中のエメトの右目に、じわりと水の玉が染み出てきました。瞬きをすると、瞼に弾かれた水が涙のように頬を伝います。
人間の体を参考に作られているエメトですから、カメラの汚れを防ぐために、ボディーを循環している保温用の水を涙がわりに目から出す機能も当然つけられていました。水の量を調節すれば、こうして泣いているような効果も得られます。
エメトは続けて、両目からボロボロと涙をこぼしました。次々と伝う涙が顔に跡を作る様子を観察しました。ハンカチで一度顔を拭いて、右目だけで泣いたり、左目だけで泣いたりして違いを確かめました。次に流す涙の量を増やして、漫画みたいに涙が一続きになって滝のように溢れるのを見ました。涙の雫を指で受け止め、机の上に置いてそれをじっくり観察しました。
次は、涙に表情も加えてみました。眉毛をハの字にして、口はへの字に食いしばりながら涙を流します。少しわざとらし過ぎる顔になったので、幾分和らげてそれらしい表情を整えると、鏡の中には立派に『悲しくて涙を流す少女』の姿がありました。
ネズミ花火事件の時、泣いていた八夜越さんの姿を記憶映像から呼び出したエメトは、今度は顔を覆って床の上にくずおれて泣きました。隣の部屋にいる清一くんに聞かれては困りますから泣き声こそあげませんでしたが、悲しくてたまらないように背中を丸めてうずくまり、完璧にあの時の八夜越さんを再現して見せました。ただ、顔を覆っている以上自分ではその姿を確認できないので、どの程度再現できているかコンピューターには認識できませんでしたが。
エメトは立ち上がり、顔についた涙をハンカチで拭きました。あれだけ涙を流したのに目は全く充血していなかったし、涙の跡も一度拭いたら綺麗に無くなってしまいました。
「うそくさい」
エメトは小さく独り言を言います。
「ハナミズが足りないのだろうか?」
再現できるのは涙まで。エメトは自分の鼻をつまみ、軽くひねってみましたが、どう考えてもそこに粘った液体を分泌するような機構は備わっていないのでどうしようもありません。
エメトは机の引出しから黒いコードを取り出しました。その一方を口にくわえて舌の裏の差込口に差し、もう一方をコンセントに繋いで充電を開始しました。その格好のまま、ベッドに寝転がって目を閉じます。いつもの、コンピューターが情報整理に入る時の姿勢です。
エメトは口にコードをくわえていましたが、その声は喉の奥のスピーカーから出ているので、そのまま普通に独り言を続けることができました。
「どうすれば伝えられるのだろうか……私は今悲しいのに」