34.理屈と感情とどちらが偉いか
「ごめん、悪かった」
クラスメイト達が談笑する教室の片隅で、清一くんは頭を下げました。相手は物も言わずに彼の頭頂部にキリキリと刺すような視線を落としています。
「あのあと真犯人が名乗り出てきたんだ。あんたじゃなかった。こっちで勝手に勘違いして疑いをかけてたんだ。ごめんなさい」
八夜越さんが許してくれそうにないので、清一くんはもう一度頭を下げました。クラスメイトの目もある中でこうして頭を下げるのは結構な覚悟の要ることではありましたが、しかし清一くんはこういうことには律儀な男です。謝罪の場に教室を選んだのも、見ているクラスメイトたちにも暗に八夜越さんの疑いが晴れたことを示すためでした。
八夜越さんは謝罪が始まってから一言も口を開かず、ただ無言でプレッシャーを降り注ぐだけでした。時折、興味なさそうに自分の髪をいじったりするのが、なおさら八夜越さんの内面の怒りを物語るようです。
「すいませんでした……なんでも埋め合わせはするから……」
清一くんが根気よく、もう何度目かの謝罪をすると、ようやく八夜越さんの唇が小さく動きました。
「ふうん……なんでも?」
清一くんは頷きます。
「じゃ、じゃあ……その……」
八夜越さんは何事か口の中でモゴモゴつぶやきました。あまりにも小さな声で全く聞こえなかったので、清一くんは首を傾げます。
八夜越さんはもう一度、他のクラスメイトには絶対に聞こえないように言い直しました。
「だ、だから、蔵持さんのアドレス教えて……って言ってんの。それで許すから……」
顔を赤らめて、窓の外のほうへ視線をやる八夜越さんの様子に清一くんは思わず目が丸くなります。
「え? そりゃいいけど、そんなんでいいのか?」
「だ、だって蔵持さん、あの時一人だけ庇ってくれたし……カ、カッコよかったし……」
聞こえるか聞こえないかギリギリの声で言って、八夜越さんは両手で顔を覆いました。変な奴だなと思いつつも、清一くんは近くで関くん達と一緒に様子を見守っていた蔵持さんに一言許可を求め、「ああ……いいけど?」と言ってもらってから八夜越さんにアドレスを送りました。
「エヘ、エヘヘ、ありがとう、もう許す」
だらしなく目じりを下げ、蔵持さんのアドレスが入ったPDAを撫でさすりながら八夜越さんが笑うので、清一くんはすっかり拍子抜けしました。まあでも、これをきっかけに八夜越にも特定の友達ができればいいだろうと思い、何よりも緊迫した場からようやく開放されたことに喜んで、清一くんは深く一つため息をつきました。
八夜越さんにアドレスを教えるためにPDAを開いたとき、清一くんは新着メールが一件届いていることに気が付いていました。一仕事終わった今、なんだろうと思ってメールを開くと、送信者は西口さんのようです。
『話があるから学校終わったら駅前に来るように。午後四時半到着厳守』
どうやら清一くんは本当の意味で安心できるのはまだまだ先の話のようでした。
一体何の用だろうと清一くんは訝しみましたが、すぐに、自分と西口さんの間をつなぐある人物の存在に気付きました。となると、俄然西口さんと会うのが辛くなります。きっと、この前の告白のことについて何か言われるのだろうと予測できるからです。
いくら仲がいいからって、友達の恋愛に直接口を出そうとするか? と、清一くんは憂鬱に思いましたが、彼の性格上、無視することもできません。学校が終わると、メールの指定どおり、一人で駅前へ向かう清一くんの姿がありました。
学校の最寄駅前の広場にある、デジタル表示の時計台の下に、すでに西口さんが待っていました。その目は遠くの空を見つめ、左手をポケットに突っ込んで、白い息を吐きながら缶コーヒーなどを飲んでいます。お洒落な白のコートに、アクセサリーのわんさかついたピンク色のバッグ、赤い毛糸のマフラーと、女の子らしい格好をした西口さんにブラック缶コーヒーは全く似合っていませんでした。
清一くんの姿を認めると、西口さんはコーヒーの残りをくぅーと飲み干し、空き缶を路上に置きました。するとすぐ近くを巡回していた清掃ロボットが目ざとくやってきます。キャスターが付いた八本の足を器用に操って、人込みの中を誰にもぶつかることなく滑るように移動し、空き缶の前まで来ました。そして四本ある腕の一本を伸ばし、電磁力でガチンと缶を吸い付け、自分の体の中へホイと放り込みます。円筒型をした本体の内側は三つのスペースに区切られた空洞で、その内の〈ビン・カン〉と書かれたスペースに缶はうまく収まりました。
仕事を終え、遠ざかっていく清掃ロボットに、頭の禿げた中年男性が直接新聞を投げ込むのが見えました。西口さんは一部始終をどこか感慨深げに見守っていましたが、ロボットの姿が人ごみに消えてしまうと、ようやく清一くんの方に向き直ります。
「ま……ここで立ち話もアレよ。どっか入りましょ」
「あー、うん」
西口さんのどことなく冷めた目つきに、今後の展開をあれこれと予想しては憂鬱になる清一くんでしたが、今は逆らわないほうがいいと思って黙って前を行く背中に付き従いました。
「ここで勘弁しといてやるわ」
そういって西口さんが入ったのは、どこにでもあるごくあたりまえのハンバーガーショップでした。学校終了直後ですので、店内には高校生の姿が目立ちます。
「勘弁って何だ?」
「あまり高い店に入ると困るでしょう? あんたが払うんだから」
「お前……呼び出しといてなんだそりゃ」
清一くんは抗議の声を上げましたが、じろりと睨まれて「安いもんでしょ?」と一言いわれると黙るしかありませんでした。
カウンターで西口さんが容赦なく注文します。
「ダブルチーズバーガーとウマ辛チキンカツバーガー、それからポテトのLサイズとホットコーヒーMサイズ。ついでにとろけるプリン」
「千三百九十円になりまあす」
「お前……せめてセットメニューにしとけよ」
という清一くんの抗議も空しく、西口さんが据わった目で促しました。店員の差し出す読み取り機にPDAをかざすと、「ポピ」という音とともに清一くんの口座から無情に代金が引かれま
す。清一くんはその後しょぼくれた顔でただのハンバーガーセットを注文しました。
二人は明らかに重さの違うトレイを手に、窓際の席に座りました。すぐ隣では関係の円熟した雰囲気のある高校生のカップルがお気楽そうにだべったりしていましたが、こちらの席にはそんな牧歌的な空気はありません。
清一くんはハンバーガーに手もつけず、顔中で不満を表しながら話しました。
「あのさあ、話ってのは多分仁名村のことだとは思うけど、なんで俺がお前に奢ってやらなきゃいけないんだ? 俺はお前に何か悪いことをしたか?」
西口さんは澄ました顔で肉と野菜とチーズをパンで挟んだ食べ物にがっつき、もぐもぐやりながら喋ります。「わういもほお? もくううはねえ」……ごっくん。「まあ、ナナセの話は、それはそれよ。でもあんた、他に私に何か言うことがあるんじゃない?」
「ああ?」清一くんはしばらく考えましたが、心当たりが何もないので、黙って西口さんの食べているものからチーズと肉一枚を引き算した食べ物を齧りました。
「私一人じゃなくて、皆に隠していることがあるでしょう」
「…………」
「エッちゃんに関することで」
清一くんの口の動きが止まりました。西口さんがダブルチーズバーガーをわしわし貪る音と、隣のカップルがきゃたきゃた笑う声が続く中、清一くんはしばらく目を閉じて硬直していました。
やがて口のなかにあった物を飲み込むと、清一くんは手にしていたハンバーガーを置きました。
「西口」
「ん?」
「……なんでも注文してくれ……」
取調室でカツ丼を前に観念して自供をはじめるコソ泥よろしく、清一くんはすっかり肩を落としてうな垂れました。
いつか、いつの日かこんな日が訪れるのではないかと、恐れていたことが今日起きたのです。清一くんは最早ハンバーガーの味など皆目わかりませんでした。口の中がカラカラに乾きましたが、トレイの上にあるグレープジュースを手に取る気力さえありません。
「嫌ね、別にゆすろうってんじゃないのよ」
西口さんは落ち着いた表情でコーヒーに口をつけました。すでにダブルチーズバーガーはトレイから姿を消しています。
「こうして奢ってもらった以上、少なくとも私は全てチャラにしてやるわ。他の人に話したりもしない。ナナセにもね」
それを聞いて清一くんはゆっくり顔を上げましたが、その眉毛はハの字になっていました。
「大方の事情は察しがつくわ。あんたのお父さんの会社で決まったことなんでしょ。ゼロワンシステム。デカい会社だとは思ってたけどそりゃデカくもなるわね。あんなの作れるんだもん。だから、あんたも今日まで色々苦労してたんだろうってことはわかるつもりよ、私」
西口さんがここへ来て初めて優しい口調で語ります。
「そりゃあ、私も最初に気づいた時は、一瞬頭が真っ白になったわ。でも、関係ないって思うことにしたのよ。人間じゃないかもしれないけど、エッちゃんはエッちゃんだもの。今までの思い出がそれで急に嘘になるわけじゃないからね」
励まされても、清一くんの表情は少しも晴れませんでした。わき腹にナイフでも刺さっているんじゃないかと疑うような青い顔をして、ずっと下を見つめています。
「いや……許されることじゃないよ。俺はクラスの奴ら全員を騙していたんだ。エメトは本当はロボットなのに、あいつが笑おうがふざけようが、それはプログラムがそうさせているだけなのに、分かっていて俺は……」
頭を抱えて吐いたため息が、ねっとりと重くトレイの上に溜まっているような気さえしました。
「アンタが悪いわけじゃないでしょう……」
そう言いながら西口さんは、胸の中にモヤモヤしたものを感じました。
何でこいつ、こんなに責任感じてんのかしら。私だったら、こいつと同じ状況になったらとっくに逆ギレしてるよ。
あ、やばい。なんかこいつの辛そうな顔、ちょっとイイかもとか思ってしまった。
私がこれ以上話をややこしくしてどうするんだ。惚れっぽいのだけはどうにも治らないもんか。今度からはどんな理由があっても男と二人で店に入ったりするのやめよう。
西口さんは邪念を払うため、ウマ辛チキンカツバーガーを一気に三分の一ほど口に詰め込みました。名前はウマ辛でしたが、なかなかどうして刺激的な辛さです。額にじんわり汗が滲んできたので、ちょうど顔が赤らんだのをごまかせていいと思いました。
「それにねえ、プログラムだって捨てたもんじゃないと思うわよ。だって現にエッちゃんは普段から私たちと対等のやり取りをできてるんだから。考えても見なさい、人間だって、結局は脳の中の電気信号のやりとりで物を考えているわけでしょ? その時一つ一つの神経細胞の状態は、〈興奮している〉と〈興奮していない〉の二種類しかないわ。それはコンピューターでいう〈0〉と〈1〉と同じと言えないかしら。そう考えると、コンピューターだって十分人間の脳と同じ働きをできるはずだと思うわ。人間の脳は確か約百四十億の神経細胞から出来ているから、単純計算で百四十億バイト、つまりたった十三ギガバイトちょっとのスペックよ。私のPDAのHDDでも二テラバイトあるぐらいだから、エッちゃんなんかその百倍はあるんでしょうね。オーバースペックもいいとこじゃない」
「人間とロボットは違う」
西口さんの長々しくて強引な、けれども専門用語などが織り交ぜられているせいで妙に説得力のある説を、清一くんはたった一言で切り捨てました。濁った空気を全身から撒き散らしている今の清一くんには何を言っても届かないようです。うなだれた頭がやけに弱々しくいじけて見えます。
西口さんはなんとなく正面から清一くんを見ると切なくなってしまうような気がしたので、窓の外に視線を送りながらわざと不機嫌な声で悪態をつきました。
「……あーあ! 泣き言ばっか言いやがってつまんねー奴。ナナセもエッちゃんもあんたなんかのどこがいいのかサッパリ理解不能だわ。せっかく人が励ましてやってんだから、素直に元気になってりゃいいのにさ。女々しいっつうの。そんなんだからチビなのよ、あんた」
「悪かったな……チビで……」
結構本人は身長のことを気にしていたようです。さらに輪をかけてしょぼくれてしまいました。もうちょっと何か言い返してくれれば清一くんの気分もマシになるかと思っていたのに、ただ単に落ち込んでいた所に追い討ちをかける結果になってしまった西口さんは、さすがに彼を可哀想に思い、視線はそらしたまま手元にあったとろけるプリンをそっと差し出しました。
「プリン……食べる?」
「要らん」
「食べなきゃ大きくならないわよ」
「プリンで何がどう大きくなるんだ」
「…………」
それからしばらく二人とも話すことが無くなったので、隣のカップルのおしゃべりがやたらと耳につくようになりました。
だからさ、俺は思うのよ、今のガキは躾けってもんがなってないよね。きゃはは、説得力ねーって。いやいや、こないだもさ、本屋で俺が立ち読みしてたら五歳ぐらいのガキが棚の本をどんどん抜き出し始めてさ、なんか床の上に並べてんの。可愛いじゃん。いや可愛くねえよ。親は何してんのかと思ったらすぐ横で立ち読みしてやがるしさ。親が腐ってるから次世代を担う子供の未来が奪われていくんだぜ。あんたみたいなこと言ってる奴百年前からどこにでもいるよね。
不意に西口さんはポテトを一本なめらかプリンに突き刺して、塩味の効いた上に黄色いクリーム状のプリンがついたそれを口に入れました。
「まっずい」
「遊ぶなよ……」
雰囲気はちっとも明るくなりません。
「ああ! もういいわ! OK! この話はここでおしまい。あんたは一生人間とかロボットとかにこだわってて頂戴。私はエッちゃんをありのまま受け入れるけど、あんたは勝手にして」
「…………」
「で、ここから本題に入ります」
「えっ?」
さっきまで険悪な雰囲気を漂わせていたのに、突然コロッと声のトーンを変えた西口さんに清一くんは少なからず戸惑いました。
「ナナセのことだけど」
その名前を聞いて、清一くんはどっと疲労感が増すのを感じます。もう開放してくれ、いいじゃないか、こっちは色々大変なんだ、と言いたくなりました。
「あんたさあ、エッちゃんのことそーゆーふーに言うってことは、当然エッちゃんと付き合う気はないのよねえ」
意地悪く細めた目をして西口さんが問い詰めます。
「あるわけ無いだろ」
「じゃあ、ナナセと付き合ってくれてもいいじゃない」
やっぱり来たよ。とばかりに清一くんは今日で何度目かのため息をつきました。
「あのさ、俺あの子のこと何も知らないしさ、急すぎる話で……」
「それを知るために付き合うんじゃないの? 知らなきゃ付き合えないなら、あんた誰となら付き合えるの?」
「いやでも……」
西口さん、清一くんに反論を許しません。機関銃のようにまくし立てます。
「別にいきなり好きになれとは言ってないわよ。付き合った結果、やっぱり駄目ですってのもそれはアリ。でも付き合いもしないうちから決めちゃうのはおかしいでしょ? ひとまず形だけでも彼氏彼女になってさあ、どっかご飯食べに行ったり、遊びに行ったりしてあげてよ。そしたら意外とあんただってナナセのこと好きになるかもしれないわよ。それにあんただって、誰でもいいから彼女欲しいって思ったことぐらいあるでしょ? それでいいのよ、難しく考えることなんかなんもないわ。とりあえず付き合って、いずれ他にもっと好きな人ができたらサヨウナラしてもいいの。しょっちゅうそんなことばかりじゃ困るけどね。まあ、長い人生、好きな人が変わることぐらいあってもいいじゃない。それは悪いことじゃないのよ。でもね、他に付き合ってる奴もいないのに、なんとなく気が乗らないからって告白してくれた子を拒絶するってのはそれ、あんたの単なるワガママよ。可哀想だと思わないの? ナナセは本当にあんたの事が好きなのに」
清一くんは諦め顔で、西口さんが話し終わるのを黙って待っていました。エメトのことにしろ仁名村さんのことにしろ、よくこんなに口が回るなあと感心さえします。そうしてハンバーガーの残りを齧りながら、西口さんが疲れてコーヒーを飲むために話を中断するまで好きなだけ喋らせました。話が途切れたのを見計らって、清一くんも反論します。
「西口、俺はお前にそこまでプライベートに踏み込んだ話される覚えはないぞ。そりゃ、言ってることは間違いじゃないかも知れんが、お前は直接関係ないだろ? 俺にだって気持ちの問題ってのがあるんだから、付き合いなさいと言われてはいわかりました、とはいかないんだよ」
「気持ちの問題って何よ?」
西口さんは清一くんを試すような目つきでジロジロと見つめます。
「だから……色々あって……」
「本当はやっぱりエッちゃんの事好きだから?」
「違う! 何回も言わせるなよ」
エメトの名を出された途端、躍起になって否定する清一くんを見て……また他にも、ほんの小さな視線の動きや微妙な声色などから、西口さんはありありと清一くんの本心を読み取る事ができました。そして、ああやっぱりな、と心の中で呟きます。
面白くない。最初から決まりきっていたことかもしれないけど。
私の感じた通りだとして、ナナセが今から高月くんの気持ちに割り込むことが、果たして出来るかしら? 無理かもしれない。本人が認めようとしないだけで高月くんの気持ちはきっともうとっくに決まっているはずだもの。でもそれじゃあ、どうすればナナセは幸せになれる?
…………。
西口さんは「ふっ」と、ため息とも苦笑とも取れる短い息を吐きました。
「私はねぇ、高月くんがエッちゃんを好きだって言うなら、それは少しも変な事じゃないと思うのよ。人を好きになるのって自分じゃなかなか止められないからね。同性とか兄弟とかを好きになっちゃう人ってのも、あんたと同じ気持ちかも」
「……もう何とでも言えよ」
「ただね、どっちつかずのままじゃいけないわ。ずっとモヤモヤしたままじゃ脳みそ腐っちゃう。エッちゃんを選ぶならさっさと開きなおりなさい! 諦めるんなら、ナナセじゃなくてもいいから、さっさと人間の恋人作ったほうがいいわ。それが私にできる精一杯の助言よ」
清一くんはもう返事をする気も無いようで、黙ってグレープジュースの残りを飲み干しました。飲み干すと、今度はカップの蓋を取って中のジャラジャラした氷を食べました。平気なフリをしていますが、その表情には明らかに動揺や焦りといったものが見られます。それは、西口さんが自分の言葉が大なり小なり相手に届いたことを確信するには十分でした。
これでいい。もしナナセにチャンスが回ってくるとしたら、それは高月くんがエッちゃんと一度付き合って、その後別れた時ぐらいだろう。少なくとも高月くんがうじうじ悩んでいる限り、ナナセの出番はいつまで経ってもこない。
――吹っ切ってしまえ、高月清一。お前は私が見たところ、そんなにダメな奴じゃないはず。
西口さんは清一くんに力の篭った視線を送ると、席を立ちました。
「悪かったわね、部外者の癖にお節介なことばっか言って。もう言うことは言ったから、この先あんたがどうしたって文句は言わないわ。じゃあ、また明日学校でね。あ、そのポテトは食べきれないからあげる」
まだ半分ほど残ったポテトを置いて、西口さんは去りました。ポテトはいつしかすっかり冷めて、しんなりしています。もちろんそんなものを食べる気にはなりません。けれども清一くんは何も食べないまま、しばらく一人で窓の外を眺めていました。
清一くんは西口さんに言われたことを、じっくりと思い出しました。そしてなぜ彼女はああしてエメトの正体を知った上で揺らがずにいられるのだろうかと不思議に思いました。ああいう風に、割り切ってしまえたらいい。でも清一くんにはそれはできませんでした。一番近くにいるだけに、エメトのどうしても人間と違う所をよく知っているのです。
仁名村さんのことについても考えました。彼女がエメトに対してした数々の嫌がらせについて責める気はすでにありません。あの瞬間まで抱いていた熱湯のような激しい怒りは、仁名村さんの二つの告白を受けた時点で完全に行き場を失い、半分は消えて半分は清一くん自身に自責の念として返ってきたように思います。
だから彼女のことはもうなんとも思ってない……というわけではありませんでした。言葉というのは偉大なもので、好きだと告白されただけで、ついこの間まで殆ど意識に上がることもなかった仁名村さんが急に可愛く見えてくるではないですか。
モヤモヤしたままでいるのは確かによくない。それは、西口さんの言う通り。ちょっとでも仁名村さんを良いと思うなら、そのまま付き合ってしまえばいい。そうすればロボットのことなんかすぐ忘れるかもしれない。でも、それはできない。どうしてもできない。振り切れない思いがすでに清一くんの胸の内に居着いているから。……なのに、その相手は人間ではないのです。
窓の外ではだんだん暗くなってきた空の下、人々は寒そうに背中を丸めて歩いていました。一つのポケットに二人で手を入れて歩くカップルがいます。くたびれたコートを着たくたびれたおじさんがいます。ベビーカーを押して歩く白人のお母さんがいます。清掃ロボットは体の周囲に黄色いランプを灯し、夕闇の中に自分の存在を主張しています。
感傷にひたる清一くんのポケットで、「メールですよー」とPDAが喋りました。現実に引き戻された思いで届いたメールを確認すると、送信者名は〈母さん〉とあります。
『予定通り明日には帰れそう。ドイツ土産のお菓子を持って帰る。セイちゃんは私のために日本式カレー(甘口)を作って待つように。母は今から唾液で溺れそうになってます』
「またカレーかよ……」
PDAに向かって文句をいいながらも、清一くんは頭の中でカレーのルーと具材の買い物について考えました。久々に建設的な思考をして、脳のコリがほぐれた感じがしました。
どうやら明日、長い間海外にいた清一くんのお母さんが帰って来るようです。エメトが来てからというものお父さんもよく家にいるので、久々に家族全員が家に揃うことになります。そう考えると清一くんの気持ちはずいぶん明るくなりました。
その直後、また「メールですよー」の声とともにお母さんから二通目のメールが来ました。
『さっき書くの忘れた。お父さんの会社のロボットが家に来てるらしいね。見るのが楽しみです。くれぐれも写真とか送って母から想像する楽しみを奪わないように。それじゃあね。 Tschuess!』
そういえば揃うのは家族だけではありませんでした。一年ぶりかと思われる一家団欒の時ですが、今から一抹の不安がよぎります。清一くんは、一人窓の外を眺めながら、「あーあ」と深く息を吐きました。