32.彼女が彼女たる所以
およそ女の子の部屋とは思えないし思いたくないような雑然とした部屋で、仁名村さんはボーッとしていました。畳の上に散らばる少年漫画、お菓子の袋、空き缶、衣類、万年床。ついでにゴミの中に紛れて、侵入者(主に仁名村さん)の足を捉えるハンガーのトラップ。
太陽はすでに地平線に沈み、窓の外は黒一色に塗られています。仁名村さんは布団の上に体育座りをして、何をするでもなくじっとしていました。目を閉じて、今日のことを思い出しています。何度も繰り返し思い出しているようです。
PDAからバカに騒がしい音楽が聞こえて、電話がかかってきたことを知らせてくれました。仁名村さんが机の上のPDAを、できるだけ布団から移動しないで済むように一杯まで腕を伸ばして取ると、ディスプレイに表示されていた発信者の名前は〈カエデ〉です。
「はいよ」
「あ、ナナセ。大丈夫だった?」
電話口から西口さんの心配そうな声が聞こえてきました。
「ああ、大丈夫大丈夫。心配されるようなことはなんもないよ」
「やけに明るいわね。ひょっとして、上手く行ったの?」
「ん? 全然。フラれた」
さっぱりした口調で答える仁名村さん。しかしその爽やかさは、逆に西口さんを不安にさせたようです。
「本当に大丈夫? ショックで変な薬にでも手を出したんじゃないでしょうね」
冗談半分、本気半分で心配する西口さん。
「そんなもんどこで手に入れるのよ」
「だってあんた変じゃん」
「変じゃないっつの。言いたいこと言ったらスッキリしたのよ。ついでに、今までエメトに嫌がらせしてたことも全部白状してきた」
「ええっ? あんた、そんなことしたらフラれて当たり前じゃないのよ!」
西口さんがいきなり大声を出したので、仁名村さんはびっくりして一度PDAを耳から遠ざけました。
「……んーん、清一くん、許してくれたよ。優しいんだ」
「そ、そっか。許すとは……思わなかった。にしても偉いわね。自分からそんなこと白状するなんて、あんたらしくないじゃないの」
「誉めてないよねそれ」
「いや、過去最大級の賛辞よ。それはそうと、無理に告白させちゃって悪かったわね。結局フラれちゃったみたいだし、これでも責任感じてるのよ。明日からまた、気を取り直して新しい恋を探しましょ。手伝ってあげるからさ」
「なにそれ? そんなの要らないよ」
「いやいや、だってさ……」
「フラれたけど私、全然諦めてないもん。清一くんがエメトと別れるまで百年でも待つことにしたの。たとえばエメトが八十で死ぬまで付き合ってたら、私は百まで生きてその後清一くんが死ぬまで一緒にいる。清一くんにも長生きしてもらわないとなあ。もっと早く別れてくれたら一番嬉しいけど」
PDAのスピーカーから、西口さんが感心、もしくは絶句する長い沈黙の気配が送られてきます。西口さんが次に口を開くまでには、五秒以上の時間が必要でした。
「いやあ、あんたやっぱ……スゴイわ。真似できない」
「そう?」
「ちょっとマジで尊敬する」
「そりゃどうも。それはそうと、清一くんが変なことを言うのよね。エメトが実は人間じゃなくてロボットだったって言うのよ。お父さんの会社で作った自動学習装置? が何とかって」
「へぇ?」
「そう言えば私が傷つかないと思ったのかな。やっぱり優しいなあ」
「優しいか? それ」
「エメトはロボットだから、傷つけたって気に病むことは無いんだって言ってくれたの」
「はぁ……?」
電話の向こうで西口さんは、激しい違和感を感じました。
ロボットだから、傷つけたっていい? それがあの花火騒動でエメトの顔に焦げ跡が出来た時、学校中に轟きそうな声で怒鳴った男の言うことか? ナナセの妄想なんじゃないのか。いや、それにしちゃ、ナナセ自身がその話を全然信じてないのはおかしい。
西口さんが考え込んでいる間にも仁名村さんは延々、私が泣いていたらハンカチをくれたとか、手を取って立たせてくれたとか、清一くんを賛美する言葉をつらつら並べ立てていたので、あえてその考えを口にすることはありませんでした。でも適当に相槌を打ちながら、頭の中は次第にそのことで一杯になって行きました。
西口さんは清一くんと普段そんなによく話す方ではありませんでしたが、仁名村さんとの付き合いを通じで、何だかんだで遠目に観察する機会はよくありました。なので西口さんは、あの理屈屋で頭の固い清一くんが、その場で一時的に仁名村さんの機嫌を取るためだけに、そんな下らない嘘をつくなんてことはありえないという結論に達したのです。
ではなぜ?
ロボットだと言うのは、ナナセの聞き間違いだった? それとも何かの例え話? それともまさか……嘘偽り無い本当の話なのか。
清一くんのお父さんがあの大手ロボット開発会社ゼロワンシステムに勤めていることは、西口さんも以前に聞いたことがありました。こうして疑いの眼差しを向けてみると、急に転校してきたばかりの頃のエメトの様子が思い出されます。ずっと無表情にしていたかと思えば急に笑顔になったり、何を聞いても短い受け答えしかしなかったエメト。なんだか変な奴と思ったものです。
いやしかし、そんなのは慣れない学校で緊張していただけのことだろう、と西口さんは思いなおしました。常識的に考えて、クラスメイトの一人がロボットだったなんてことがあり得ていいはずがないのです。アメリカで開かれて最近話題になった世界ロボット展でも、人間と対等にサッカーをプレイするロボットとか、落ちているものは何でも片付けるその辺の掃除ロボットと違って、必要なものとそうでないものを自分で区別して整理整頓してくれる次世代掃除ロボットとかはありましたが、エメトのように人間と同じレベルで会話できるロボットなどというものはまだまだ遠い存在でした。
ありえない。もしエッちゃんがロボットだったら、今まで私が信じてきた友情はなんだったっていうのよ。
つきまとう疑念を振り払おうとかぶりを振る西口さんでしたが、それでもどういうわけか、胸の内に広がる不安を抑えることができませんでした。もし、清一くんが言った名前がエメトでなくて他の誰かだったなら、こんな気持ちになることはなかったでしょう。
西口さんがエメトと話すとき、ほんのわずかに、心の中に抱いていた〈違和感〉……。それがこの不安と結びついてしまったのです。西口さんはもう、疑心暗鬼から抜け出すことができなくなっていました。
よし。明日なんとかして確かめよう。
西口さんはそう心に決め、いつまでも終わらない仁名村さんの長話に相槌を打つ作業を適当に切り上げて電話を切りました。