31.根暗少女の告白
――放課後。
清一くんはコートのポケットに両手を突っ込んで、憮然とした顔で校舎裏に立っていました。
腑に落ちないことが幾つかあります。まず突然、知らないアドレスから短いメールでこんな所に呼び出されたこと。差出人は仁名村七瀬とありましたが、アドレス帳に載っていないアドレスからのメールである以上、相手が本当に仁名村さんかどうかわかりません。本人だったとしても、何故仁名村さんが自分のアドレスを知っているのかとか、何のために呼び出したのかとか疑問が残ります。
清一くんは来たメールに返信しましたが、何の反応もないのでなおさら不気味です。誰かの悪戯なのかも、と思うのは当然のこと。しかし、そのことをエメトに話すと、
「それは本人からのメールで間違いないと思いますよ。私は先に帰っていますので、どうぞ行ってあげて下さい」
と言って本当に一人で帰ってしまいました。これもまた腑に落ちません。エメトは何か知っているのでは。それとも帰ったフリをして、また前みたいにどこかから窺っているのかも知れません。不気味です。
仁名村さんに直接話を聞こうともしましたが、六時間目の授業を彼女は欠席したようでした。それはあのメールと関係があるのか、それとも先の五時間目での騒動で疑いをかけられたことにショックを受けたためなのかは清一くんには分かりません。もっともメールが本人からのものなら、その用件は例の騒動に関係がある可能性が高いということぐらいは想像できましたが。
それにしてもなによりも理不尽なのは、この寒い中呼び出しておいて、その相手がいつまで経っても現れないということです。そもそも、『放課後校舎裏に来てください』という指定がアバウトすぎます。全ての授業が終わったらあとは今日が終わるまでずっと放課後なんですから。
やはり悪戯か、帰った方がいいかと思いつつ、エメトの態度や五時間目の事を思い出すと、あっさり断ずることも出来ず、清一くんはもう結構長い間震えながらここに立っていました。
…………。
ある時ふと見ると、校舎の陰からこちらを窺う小さな人影があるのに気がつきました。
「あ、お前!」
清一くんが呼びかけると、人影はさっと壁の向こうへ引っ込んで、走る足音が遠ざかって行きました。が、それはすぐにドサーッと人が転ぶ音と「あうぐ」という悲鳴に繋がったので、清一くんはすぐに追いつくことができました。
角を曲がると、仁名村さんがヨロヨロと這いずりながら逃げようともがいているところでした。
「おい……大丈夫か?」
清一くんが一応気遣うと、仁名村さんは観念したように、土の上にぺたんと座りました。清一くんには背中を向けたままです。
「ご、ごめんなさ……」
消え入るような声。
「ああ、まあいいよ。怪我しなかったか?」
「して……な……」
仁名村さんがあまりにも哀れっぽく震えるので、清一くんは何か自分が悪いことをして彼女を追い詰めたようで、居心地の悪い思いをしました。とにかくこのままでは、何一つ事情がわかりません。清一くんは仁名村さんの前方に回りこみ、彼女が落ち着くのを待ってから話を聞こうと思いました。
「それで、俺を呼び出したのはお前なんだよな?」
「違……そ、それは、カエデが勝手に……」
「カエデ? ああ……西口か……」
清一くんは今さらのように、目の前で座り込んでいる少女がよく西口さんと一緒にいた女子だったことを思い出しました。西口さんは他の生徒とは目の色や顔立ちが違うためにそこそこ目立っていましたが、その隣にいた仁名村さんのことはまるで背景の一部のようであまり記憶に残っていません。今日このようなことが無かったら最後まで話すことも無かったでしょう。そう思うと、その仁名村さんが今目の前でうずくまっていることがとても奇妙なことのように思えました。
「結局、なんなんだ? 俺に用事があるのか?」
その質問に仁名村さんは答えません。清一くんは根気よく、仁名村さんが自分から何かを語るのを待ちました。冬の冷たい北風が二人の間を吹き抜けましたが、あまり寒そうにしていると相手を焦らせると思い、体が震えるのもできるだけ我慢しながら待ちました。
「…………」
「…………」
寒い。
「じゃ、今日は俺もう帰っていいか? 話があるならまた、屋根と壁のあるところでさ……」
帰ろうとした清一くんを、「待って!」と仁名村さんが止めます。
「言う……言うから……」
仁名村さんはゆっくりと立ち上がりました。そうしてみると彼女は自分より少し背が高かったので、清一くんは少しムッとしました。もちろん仁名村さんは女の子としても決して背が高い方ではないのですが。
清一くんと仁名村さんは、一メートル弱の距離で向き合いました。これは二人が過去最も近づいた距離でしたし、特に仁名村さんにとっては、生まれて初めて清一くんの顔を正面から見据えた瞬間でした。
仁名村さんは、勝手にそらしてしまいそうになる視線を精一杯の力で清一くんの顔に向けます。するともともと目つきが鋭いので、ほとんど睨みつけるような目になってしまいました。清一くんは相手の眼力に飲まれそうになるのが嫌で、口を真一文字に結んで仏頂面を保っています。
この時二人が同時に思ったことがありました。
――あ、こんな顔してたんだ。こいつ。
――清一くんの顔ってこんなんだったんだ。
見つめ合ったのも束の間、仁名村さんは決断を迫られました。思い出すのは西口さんの言葉。
(告白するのよ!)
「わ、私……」
顔を真っ赤にして、震える声を絞り出します。
(ちゃんと言いなさい!)
「私は……」
(このままじゃよくない!)
「清一くんに……言わくちゃいけないことが……」
(生まれ変わるのよ!)
「前から……言おうと思って……ずっと前から……」
仁名村さんは、自分の気持ちを表すことのできる言葉を探しました。
言わなくちゃいけない。私がどれほど、あなたのことを好きだったかを。あなたを想って、どれほど辛い思いをしてきたかを。あなたに話し掛けることも、近づくことさえもできない、臆病な自分をどれほど呪ったかを。あなたと笑いながら、当たり前のように並んで歩く日を、どれほど夢に描いたかを。そして私が、あなたに恋焦がれるあまり、今までどんな事を……。
…………。
仁名村さんは、告白より先に言わなければならないことがあるのを思い出しました。
「ごめんなさい!」
「え?」
清一くんは、今まで何かを口篭もっていた仁名村さんが突然切迫した声で謝罪したかと思うと、深々と頭を下げたので面食らいました。頭を下げたままの仁名村さんが続けます。
「今までエメトに嫌がらせしてたのは、私なの!」
それを聞いた途端に清一くんの顔色が変わりました。ほとんど瞬間的に、花火騒動の時に見せたような憤怒の形相が戻ります。
「お前……!」
「ネズミ花火を仕掛けたのも私。靴にイタズラしたり、授業ノート消したり、鞄にカッターも仕掛けた。当たらなかったけど二階から生卵投げつけたし、本とか小物とか、持ち物色々盗んで捨てたりした。他にも色々、全部私です。ごめんなさい。本当にごめんなさい!」
仁名村さんは地面にくずおれ、土下座に近い格好でひたすら謝り続けました。身を守るように体を縮め、「ごめんなさい」を何度も繰り返しました。落とした涙で土を暗い色に染めながら、繰り返し繰り返し頭を下げました。
清一くんはその様子を怒りに歯を食いしばりながら見下ろしていました。お腹の底から次々と、目の前の少女を口汚く罵る言葉が浮かび上がります。しかし、命を削るような悲痛な声で謝りつづける仁名村さんの姿を見て、なんとかそれを飲み込みました。熱い塊が喉を通る感触さえあるようでしたが、清一くんは堪えて飲み込みました。
「もうそれぐらいでいい」
清一くんは仁名村さんの手を取って立たせました。仁名村さんはそれでもまだ小さな声で途切れ途切れに「ごめんなさい」を続けています。
「どうしてそんなことをしたんだ」
努めて冷静に問い掛けると、仁名村さんは涙で赤く充血した目で清一くんを見ました。
「それは……」
口篭もる仁名村さんを、清一くんは早くしろと言うように目で急かします。
「……好きだから……」
「え?」
「あなたのことが好きで……もうずっと前から、初めて見た時から好きで……。清一くんは私のことなんか、今まで目に入ってなかっただろうけど、でも私は好きだった。それなのに話し掛ける勇気も無くて、それで、いつもあなたと一緒にいるあいつが……憎くて……」
清一くんは、頭から冷水をぶっかけられたような顔をしてその話を聞いていました。
「私は……バカです」
仁名村さんはうなだれ、清一くんは全てを理解しました。山田先生の言葉が正しかったことも、五時間目、八夜越さんを犯人扱いしていた自分を蔵持さんが止めた理由も、ここに来る前、エメトがわけ知り顔で帰ってしまった理由も。
――知らなかったのは俺一人か。みんな、エメトでさえ、この事に気付いていたんだな。知っていて黙っていた。言えなかったんだろう。そりゃそうだ。こんなこと、他人に言われるまで気付かない方が間抜け……。
「よく分かった。バカは俺だった」
清一くんは、ポケットから取り出した淡い緑色のハンカチを仁名村さんに手渡しました。
「あんたの気持ちはよく分かったけど、当分考えさせてくれ。今はちょっと色々あって、そういうこと考えられる状態じゃないんだ、悪い」
仁名村さんは涙を拭いたあとのハンカチをじっと黙って見つめています。
「いいの、期待してないから……。私、あんなことしたし」
「あ、いや、それとこれとは……」
「それに、清一くんには、あいつが……」
言うそばから涙が溢れ出し、仁名村さんはまたハンカチを顔に押し当てました。緑の布がみるみる絞れそうなほど濡れていくのが見えます。
「いや、それは違う! 誤解だ!」
清一くんは慌てて弁解しました。
「違うんだよ、エメトとはそういう仲じゃない。あいつは、なんていうか、そういう対象じゃないんだ」
しかし仁名村さんは、しばらく黙ってハンカチに水をやったあと、「嘘」と短く呟いただけです。清一くんは困りました。小さいころから一緒にいて妹みたいなものだとか、クラスの奴らが変な噂するからそう見えるだけだとか、苦しい言い訳を重ねましたが、仁名村さんは黙ったまま何も言いません。
いよいよ困りました。正直なところ、仁名村さんに告白されても、今まであまりにも相手のことを知らなかったのでどう反応していいかわかりません。好きか嫌いかもよく分からず、その辺の感情は未処理のままになっていますが、ただ、ここまで思いつめて、こんなに涙を流して、これほど真摯になって告白してくれた女の子に、誤解されたままでいるのは辛いということだけは確かなのです。
清一くんは迷った末、とうとう、心を決めました。
「わかった。本当のことを言う。ただ、絶対に他人には漏らさないでくれ」
仁名村さんがハンカチから顔を上げて頷きます。
「実は、エメトは人間じゃないんだ」
それから清一くんは洗いざらい、本当に本当のことを話しました。エメトは父がプログラマーを務める会社が開発した、自立学習型人工知能搭載のコミュニケーションロボットであること。学校に許可を得て、AIを成長させるため、生徒として学校に通わせていること。そのボディーの修繕には莫大な費用がかかるため、故障させないように、いつでも傍についていること。
「だから、恋愛対象になるなんてありえないんだ。あんたがやったことも、その、高いロボットを傷つけたってだけで、人間に怪我させたのと同じように、気に病むことはない……というか」
言いながら清一くんは不思議と、心の中に罪悪感が広がるのを感じました。本当のことを言っているはずなのに、むしろ嘘をついているような気がします。今言ったことは、事実ではあるけれど、本心ではないのでは……。
仁名村さんは清一くんが話し終わるまで口を挟まずに聞いていました。いつの間にか涙も引き、目の周りはまだ赤く腫れていましたが、その瞳は洗われて綺麗に澄んでいます。
そして仁名村さんは言いました。
「清一くん、私、ずっと見てたんだよ。間違えるなんてありえない。清一くんは、エメトの事が他の誰よりも好きなんだよ」
「…………」
「ありがとう。私なんかのために嘘ついてくれて、すごく嬉しかった。ハンカチは洗って返すね」
服についた土を払い、仁名村さんは最後に一回頭を下げました。そうしてスッキリした顔で、回れ右をして背中を向け、
「でもこれで、余計に好きになっちゃった! 諦めないから、エメトと別れたら絶対、私を彼女にしてよねー!」
叫びながら、走って行きました。すごい速さで遠ざかっていく背中を目で追いながら、清一くんは全身から力が抜けるのを感じました。
なんだこりゃ。何をやってるんだ、俺は。
地べたに座り込み、仁名村さんが零した大量の涙の跡を見下ろしながら、清一くんは思考を切り替えようと思い、漠然と別のこと考えました。
そういえば八夜越にも謝罪の電話を入れないといかんな。今日一日で二人も女の子を泣かせてしまうなんて、とんだ悪人だ。
そして随分重そうにPDAを取り出しましたが、アドレス帳を見ても八夜越さんの電話番号は入っていなかったので、やっぱり途方に暮れました。