26.傷つくもの
嫌がらせは日に日にエスカレートして来ているようでした。この日はエメトの鞄にカッターナイフの刃が仕掛けられていました。鞄の裏側の三箇所に、見えにくいように黒く塗った刃がテープで貼り付けられていて、気付かずに鞄に手を入れたエメトは手の甲の二箇所に切り傷を作りました。
「清一さん、切りました」
何気なく言いながら差し出されたエメトの手の甲には、大小二つの直線が刻まれています。長いほうの傷はかなり深いようです。人間なら大出血しているところですが、そこはエメトですから、傷はゴムの塊に切れ込みを入れたのと同じで、単なる溝でしかありませんでした。
エメトの傷と鞄の中のカッターの刃を見比べて、清一くんはさっと血の気が引く思いがしました。もしエメトが人間だったら、今頃どんな悲惨なことになっていたか。あの見るも痛々しい傷が人間の肌に刻まれていたら。
「……ちょっと待ってろ」
清一くんは自分の鞄から、丁度手のひらに収まるぐらいの大きさのチューブを取り出しました。何のラベルもない、白一色の怪しいチューブです。
「よし、来い」
清一くんはチューブをポケットに入れ、エメトを連れて教室を出ました。一滴の血も出ない手の傷を人に見られないように隠しながら、廊下を三十秒走った先の空き教室に入りました。
誰もいない、薄暗い教室で、清一くんはポケットからチューブを取り出しました。このチューブの中身は、お父さんに渡された特製のパテです。フローリングの床についた傷を塗り隠すように、エメトの人工皮膚の損傷を埋めることが出来ます。
チューブから押し出されたパテはエメトの肌の色と全く同じ白さで、触ると柔らかく、冷たくないソフトクリームのようでした。
「手、出せ」
「はい」
差し出された白い手に、清一くんは白いパテを塗ってやりました。パテはすぐエメトの肌に馴染み、傷を覆い隠しました。塗り跡はとても綺麗で、近くで見ても少し濡れている程度にしか見えません。それもすぐに乾いて、あとは全く違和感が無くなりました。
二つの傷を埋めてしまうまで、三十秒もかかりませんでした。清一くんは修理の終わったエメトの手をしばらくじっと見つめていました。
……直ってしまった。簡単に。
人間だとこうは行きません。エメトがロボットだから、簡単に修復できるのです。
なんとなく、見たくなかった現実を見せ付けられた気持ちになって、清一くんが深刻な表情でその手を掴んだまま黙っていると、不意にエメトが明るい声を出しました。
「なんだかドキドキしますね」
「は?」
「暗い教室で二人きり。クラスの皆には秘密の出来事ですよ。いいじゃないですか」
エメトの口調は普段とまるで変わらず、それゆえに深刻になっていた清一くんを馬鹿にするようにはずんで聞こえます。
エメトは確かに、笑うのが上手くなりました。冗談を言ったり、人をからかうことも覚えました。それは学校と言う舞台にいつでも溢れているもので、エメトが毎日体験してきたものです。けれども、怒りや恐怖のような、人々が日頃ひた隠しにする感情……しかし同時に、人間の根本に関わる原始的で切迫した感情については、いつでも触れられるわけではありませんから、まだAIが学習していないのでしょう。
エメトはどんな嫌がらせを受けても笑っていますが、それは何か理由があって余裕ぶっているのとは違います。ましてや、恐怖を抑えつけて強がっているわけでもありません。知らないのです。嫌がらせされて、悪意をぶつけられて、傷つく心を初めから持っていないのです。
「やめろよ……」
清一くんが怖い顔をして言ったにも係わらず、エメトは笑って言葉を続けました。
「私が西口さんに借りた本でもですね、こういうシチュエーションを見かけるんですよ。怪我の治療をしてくれたのをきっかけに恋が芽生えたり……」
「やめろって!」
二度目の「やめろ」は、自分でもびっくりするほど強い口調になってしまいました。清一くんは慌てて自分の口を押さえます。人にばれないようにわざわざ空き教室にまで来たのに、そこで大声を出していては何の意味もありません。
次に顔を上げて見た時、エメトは急に全てに興味を無くしたように無表情になっていました。
「清一さん、今私の言ったことは、気に障りましたか」
「…………」
「人間として不自然な点があったなら教えて下さい。今後の参考にしますので」
初めて会った頃のように、機械的な一本調子で話すエメト。会話中に清一くんが予測外の拒絶反応を示したため、AIがそれまで通りの判断を一旦保留し、指示を求めてきたのです。
最近のエメトはすっかり人間らしくなっていただけに、こうして時々無生物の顔に戻る瞬間が、とりわけて異様に見えました。清一くんはいきなり我に返ったような気持ちになりました。考えてみれば彼は一人で空き教室に篭もり、ロボットを相手に声を荒らげていたのです。
熱くなっていた頭が急激に冷えていくのを感じました。心臓から氷水のような血液が送り出され、清一くんの全身を寒気が襲います。
「いいか、エメト」
どうかすると震えて歯が鳴りそうになるのを抑え、清一くんは声を絞り出しました。
「人間には冗談を言っていい時と悪いときがある。今は、嫌がらせで怪我をしたお前を介抱している時だ。真面目な時だ。茶化すんじゃない」
「はい。すみませんでした」
「……謝るな」
その時でした。清一くんが、エメトの鞄にカッターナイフを仕込んだ犯人を、心の底から憎いと思ったのは。
エメトを傷つけた。血の出ない傷口を、エメトが人間でない証拠を見せ付けられた。自分がすでに、エメトに対等の人間性を期待していることに気付かされてしまった。そしてそれが満たされないことにも。
理由はいくつもありますが……身も蓋も無い言い方をすれば、色々上手くいかなくて苛立っているところに、丁度よく怒りをぶつける対象があったものだから、全ての矛先をそこへ向けてしまったと言うのが本当のところかもしれません。嫌がらせをするのは悪いことですが、エメトが人間でないことに対する憤りまでもその犯人にぶつけるのは、八つ当たりというものです。
しかしそれでも一つ確かなことは、こうして実際にエメトに傷をつけた以上、清一くんが犯人を許すことはありえないということでした。