23.清一くんとエメト
その帰り道、清一くんとエメトは肩を並べて歩いていました。エメトは無表情なままでしたが、しきりに胸の辺りに手を当てて異物袋を気にしているように見えます。
「大丈夫か? ちょっと量が多かったんじゃないのか?」
清一くんが一応心配して声をかけますが、エメトは首を横に振りました。
「水分を多く取ったので、体内で水がゆれて少し平衡感覚に違和感が生じただけです。実際に姿勢制御に問題がでるほどではないですから、大丈夫です」
意訳すると、お腹の中がチャプチャプして気持ち悪い。
「やっぱりお前は食べ物なんか食べないほうがいいな」
「でも、美味しかったですよ」
エメトが無表情のまましれっと言うので、清一くんは思わず「嘘つけ! お前に味覚が無いのは知ってるんだぞ!」とムキになって怒鳴ってしまいましたが、「気持ちの問題です」と笑うエメトを見ると毒気が抜かれ、反論する気も起きなくなりました。
「それにしても恋愛って、私の思っていたものと少し違うようですね」
エメトは不意に立ち止まり、道沿いの川の方へ視線をやりながらそんなことを言いました。特に表情に変化があったわけではないですが、話の内容と立ち振る舞いからどこか感慨深げに見えます。何を言い出すんだ、こいつは? と思いながら清一くんが見ていると、エメトは自分の鞄から一冊の文庫本を取り出し、清一くんに手渡しました。本のタイトルは『学園ラブ☆ハリケーン⑤~暗黒生徒会長とさらわれた美瑠華~』でした。
例によって西口さんに借りたらしい少女小説です。表紙にはやけに線の細い絵柄で美少年たちの姿が描かれています。「なんだこれ?」と言いつつ清一くんはその本の折り返しにあるあらすじをちらりと読んでみました。
――今年の春から三年生! 卒業までになんとか輝と結ばれたい美瑠華だけれど、新学期早々怪しい黒塗りの高級車にさらわれてしまったからさあ大変。犯人は玉玻璃学園の生徒会長、金と権力を使って全てを手に入れてきた男、王我龍真だ。輝は美瑠華を救うため、単身王我所有の豪邸へ向かうけれど、輝より先に美瑠華を助けたい聖哉と衝突してしまう。そうこうしている間にも、美瑠華に王我の魔の手が……! 「俺は欲しいものは力ずくでも手に入れる主義だ!」
…………。
二十一世紀もとっくの昔に折り返したというのに、こりゃいつの時代の流行りなんだ?
清一くんは呆れ顔になりました。本文には全く目を通していませんが、なんとなくこの本の偏った恋愛観とご都合主義的展開が見えてくるようです。
今日のドーナツ屋へ自分からついてくると言い出した時から変だなと思っていたけれど、もしやエメトはこの本を見て恋愛に興味を持ったのか? と清一くんは訝りました。
「やはり、本よりも実体験の方が勉強になるようです。私はもっと恋愛について学ぶ必要がありますね。今回の一件で、恋愛が人間を形作る上で重要な要素の一つになっていることを確信しました。恋愛を身につければ私はまた一つ人間に近づくことができるでしょう」
清一くんの推理を肯定するようにエメトが言います。その時のエメトの顔に今までに無い表情のようなものを認めて、清一くんははっとしました。目元や口元に少し力が入り、微妙に意思の感じられる顔つきです。いつのまにこんな表情が作れるようになったのでしょう。
清一くんがエメトの表情に無意識のうちに見とれていると、不意にズボンのポケットから「お電話ですよー」という女の人の声が聞こえました。PDAに電話がかかってきたことを知らせる着信音です。清一くんがPDAを取り出すと、ディスプレイには『関総次郎』と送信者の名前が表示されています。
あんなことのあった直後です。関くんはどれほど落ち込んでいるかわかりません。多分彼も慰めてもらうことを期待して電話をかけてきたのでしょう。仕方ない、ここは友達として、期待にこたえてやらなくてはなと思い、慰めの言葉を考えながら清一くんは電話に出ました。
「セイちゃん……」
PDAの電話口から、関くんのまるで生気の感じられない声が聞こえてきます。
「ごめん、折角来てもらったのに、僕だけ先に帰っちゃってさ……」
「何言ってんだよ、そんなのは気にするな。それより大丈夫か?」
「うん……大丈夫」
まるで大丈夫には聞こえません。
「色々大変だったけど、落ち込むなよ。あのあと俺たち蔵持と少し喋ったんだけど、気にしてないって言ってたぞ。それから、今夜お前に電話するって」
「そう……」
蔵持さんの話題にも気の無い返事しか返ってこないのを見て、これは相当重傷だと清一くんは思いました。小手先の慰めなどいくら言っても無駄かもしれません。
かけるべき言葉が見つからないまま、二人とも無言の状態がしばらく続きました。話が進まないので、清一くんは思わずエメトの方に助けを求めるような視線を送りました。エメトはまた無表情に戻り、全く他人事のように小首をかしげて電話が終わるのを待っています。こういう時、相手が人間だったら視線や仕草で元気づけてくれるかもしれないのに。
先ほどの表情に人間らしさを見たためか、こういう状況で無意識にエメトに心の支えを求めてしまったのを、清一くんは悔しく思いました。例え少しばかり表情作りが上手くなったからといって、相手がロボットであることに変わりは無いのに、と。
「セイちゃん……」電話の向こうの関くんの声。「一つ真面目に答えて欲しいんだけど」
「ん? なんだ? なんでも答えてやるぞ」
清一くんは気をとりなおして電話口での会話に集中することにしました。関くんが元気を取り戻すならどんな質問にも答えるつもりです。が、
「エメトちゃんとは今どうなってんの?」
どう答えていいのか分からないこともあります。
「……お前……どうって……」
「うまく行ってるんでしょ? どんな感じなのか教えてくれよ」
関くんはおふざけで言っているような感じではありません。しかし何故、今このタイミングで、わざわざこんな質問をしなければならないのか、清一くんには全く理解できませんでした。
清一くんはエメトを見ました。先程と変わらぬ姿勢と表情でそこに立っています。何故みんな、この物体と自分を恋人同士にさせたがるのか……。
「あのな、上手くいくも何も、俺たちは本当に付き合ってないんだ」
相手はロボットなんだから、と清一くんは心の中で付け足します。その答えとして、PDAから聞こえてきたのはまず落胆の溜め息でした。
「頼むよセイちゃん、真面目な話なんだ。毎朝一緒に学校来てさ、一日中一緒に行動しててさ、帰りも二人一緒でさ、付き合ってないわけないじゃん、見てりゃわかるもの。エメトちゃんと付き合ってないんならさあ、セイちゃんは誰か他の人と付き合う気があるわけ? その人にエメトちゃんをただの従兄妹だって紹介するわけ? 誰が納得するのさ」
関くんの声に珍しく怒気がこもっていたため、清一くんはうろたえました。
「いや、だからな……?」
「お願いだからセイちゃんとエメトちゃんの楽しい話を聞かせてくれ! 今、女という種族全体が嫌いになりそうなんだ。仲良くやってる二人の話で僕の目を覚まさせてくれ。やっぱり恋愛っていいもんだよなと僕にまた思わせてくれ。僕にとって君達だけが救いの光なんだ」
関くんはどこまでも真剣でした。清一くんに反論するスキを与えません。
「今日はこんな結果になってしまったけど、これで終わりにしたくないんだ。またかなえちゃんと会って、今日のことを謝ったり、告白をしなおしたりしたいんだよ。でもいまのままの気持ちじゃ無理だ。何一つ成功するイメージが湧かない。セイちゃんが話を聞かせてくれたら勇気が出る気がする。だからお願い! 聞かせてくれたらなんでもする!」
「…………」
友人からのこうまで必死な願いを、聞き入れられない清一くんではありません。しかし、実際、ロボットであるエメトとの間に恋人関係などあるはずもなく、かといってその事情を説明するわけにも行かず……。
しばらく黙って考えていた清一くんでしたが、やがて何かを決心し、「ちょっと待っててくれ」と断ってからPDAを操作して電話を保留状態にしました。
そしてエメトの方に向き直り、
「ちょっと電話が長くなるから、お前は先に帰ってろ」
と言って、一人で先に行かせました。
エメトの背中が見えなくなるまで見送った上で、清一くんは人目を避けて建物と建物の間の路地に入りました。これから話すことに対する後ろめたい気持ちがそうさせるのです。
清一くんは保留を解除しました。
「待たせてすまんな。それじゃあ話すから聞いてくれ」
「うん」
「言っておくが、他の奴にはくれぐれも内緒にしておいてくれよ。こういう事情が無かったら絶対に言わないことだからな。それだけは約束しろよ」
「分かってる」
「……じゃあ……話すけど……」
それから清一くんは、全くの嘘八百を並べ立てはじめました。
「お前も聞いたと思うけど、エメトは以前体が弱くて、家で寝ていることが多かったんだ。俺は従兄妹同士だったし、家も近かったから、よくその看病をしに行ってた。エメトの両親は留守勝ちで、家を空ける時はいつも俺が呼ばれたんだ。俺も両親が家にいないことが多かったから喜んで行ってたし、特に用が無い時にもよく遊びに行ってたから、親といるよりもエメトといることの方が多いぐらいだった。それで、いつの間にかすっかり懐かれて、まあ俺は妹みたいに思ってたんだけど……」
「うん、だけど?」
「ある時エメトの両親が仕事の関係で海外に引っ越すことになって、エメトも一緒に行くことになった。でもエメトは、一人で日本に残ると言ってきかなくて」
「それって、セイちゃんと離れたくないから?」
「ま、まあ……そう」
話の内容は予めお父さんと話し合って決めておいた、エメトの人間としての過去設定をそれっぽく脚色したものに過ぎません。随所で関くんが興味深そうに相づちを打つのが余計に清一くんの胸の奥をむずがゆくさせました。
「それで、二家族間で話し合った結果、エメトをうちに預けて親だけ引っ越すことになったんだ」
「えー! それじゃあ今二人同棲してるの?」
「ま、まあ……見方によっては……」
「でも、セイちゃんちってお父さんもお母さんも滅多にいないんだよね」
「いやまあ……うん」
「てことはそういうこと? 当然そうなるよね?」
もしエメトが人間だったら確かに大問題です。従兄妹同士とはいえ若い男女が一つ屋根の下に二人きり。親の目も無いとなると当然大変なことになります。清一くんは返答に困りました。
「それはまあ……アレだ……察してくれ」
そういうことになってしまいました。
「うわーっ、セイちゃん、わー、うあー」
はしゃぐ関くんの声の調子は、全く今日の悲劇を忘れてしまったように聞こえます。だからとにかくこれでいいのだ、何も間違っていないのだと清一くんは自分に言い聞かせました。
「も、もうこの辺でいいだろ? お前も元気になったようだし」
「何いってんの、まだ始まったばっかじゃん。ほら、いつもデートとかどこ行ってるの?」
まだ解放してもらえそうにありません。清一くんは観念して、とにかく口からでまかせを言いつづけることにしました。
「大体買い物とか映画とか……あと家でゲームしてたりとか」
「例えばどんな風に?」
「それは……」
言われるままに清一くんは次々に作り話を話して聞かせました。エメトとどこへ遊びに行ったとか、どんな話をしたとかいうことを、過去に人から聞いた話や、漫画やドラマで見たような話をつなぎ合わせたり少し変えたりしてなんとか誤魔化します。
二人でいるときはいつも手を繋いで歩いてるとか、エメトはとても料理が上手くて、まるで母親の代わりのように毎日食事の用意をしてくれるとか、大嘘もいいところです。本当は清一くんこそ毎日親の分までご飯を作らされているというのに。でも言葉というものは不思議なもので、話しているうちに清一くんもだんだん気分が乗ってきました。毒喰らわば皿まで、なんてことわざが頭をよぎる中、清一くんの作り話は次第に一人歩きを始めます。
そのお話の中では、エメトは普通の人間の女の子で、幼い頃から一緒にいて、今まで一度もケンカなんかしたことがないのでした。幼稚園の頃には将来結婚する約束をしていて、今でもお互いその約束を信じているのでした。毎日家で一緒にいるのに、週末には必ずどこかへ遊びに出かけるし、伊遠さんのように相手の気持ちを無視してわがままを押し付けるようなことは絶対にしないというわけです。
「ああ、セイちゃんはいいなあ! エメトちゃんが彼女で!」
関くんがとても実感のこもった声で言いました。
「お前だって、蔵持と付き合えばいいじゃないか」
「でも……」
「大丈夫だよ。何も心配することないって。前の彼女がなんていうか、特殊だっただけだ。世の中にあんなのがそう何人もいるわけないじゃないか」
「…………」
関くんはしばらく黙っていましたが、電話の向こうの沈黙は、話し始めた時と比べてかなり柔らかくなっているように感じられました。
「セイちゃん、ありがとう」
急に真面目な口調になって、関くんが言います。
「だいぶ気分が晴れたよ。なんていうかすごく、いいイメージが湧いた」
「それならよかった」
「うん。僕のほうからかなえちゃんに電話してみることにする。気分がいいうちに」
「そうしろ」
「セイちゃんも内緒にしてないで、堂々と付き合えばいいのに……」
「……こっちのことは気にするな」
「あはは、ごめんごめん、それじゃあね。今度何かお礼するよ」
「別にいいよこれぐらい。じゃあな」
清一くんは、笑って通話を切りました。
…………。
切った途端、激しい後悔が込み上げて、清一くんはその場にしゃがみ込んでしまいました。関くんが最終的に元気を取り戻してくれたからよかったようなものの、一体自分はなんであんな恥ずかしい話をしたのだろうか。どうかすると、友人を元気付けるためというよりは、自分の無意識の願望を語っていたような気さえしてきます。話の内容を思い返せば思い返すほどに恥ずかしさと自己嫌悪が押し寄せてくるのに、脳が勝手に記憶を掘り返すのを止めてくれません。
ああ、このまま消えてしまいたい!
絶望という名の螺旋階段の真ん中を上から下まで延々落ちていくような精神状態に陥りながら、清一くんはふと、視線に気付いて顔を上げました。
「……っ!」
建物の影から、先に帰ったはずのエメトが顔を半分だけ覗かせて清一くんを見つめていました。目が合うと、エメトは口の端をにゅうーっと吊り上げて意地悪そうに笑いました。それは、エメトが今までに作った中で、一番生々しくて人間らしい表情でした。
一体いつからそこに? 今の話を聞いていた? なぜそんな真似を?
様々な疑問を何一つ言葉に出来ずに絶句する清一くんに、いつも通りの表情に戻ったエメトが声をかけます。
「清一さん、やっぱり一緒に帰りましょうよ」
ただし、明らかにからかうような調子を含んだ声で。
「幼い頃に結婚を約束した仲じゃないですかぁ、私たち」
実はエメトは帰ったふりをして、PDAの通信電波を傍受し、清一くんと関くんの会話をこっそり聞いていたのでした。無線通信でインターネットにも繋がるエメトですからそれは造作も無いことです。
聞くだけならまだしも、こんな悪戯を仕掛けることをいつのまに覚えたのでしょうか。おそらくそれはクラスでの友達とのやり取りだったり、漫画や小説の似たシチュエーションからだったりしたのでしょうが、やられた清一くんは目の前が真っ白になりました。もう永遠にこの暗い路地裏から出たくないとさえ思いました。このまま闇に溶け込むようにして消えてしまえたら、どんなにいいか、と。
清一くんは自分がなぜこんな気持ちにならなければならないのか分かりませんでした。もしも清一くんがエメトを本当にただのロボットだと思っていたなら、どんな話を聞かれたとしても、これほど恥ずかしくなることは無かったはずです。エメトに話を聞かせることは、ボイスレコーダーに声を録音することと等しかったでしょう。
羞恥心を感じるということは清一くんがエメトに人格を認め始めている証拠でもありました。でも清一くんは認めたくありませんでした。意思あるものとして、対等の存在としてエメトを見ることは、彼にとってとても危険なことです。どんなに人間と似ていても、エメトの体を構成しているのが無機質な素材の集まりであることは変わりなく、エメトが父の会社の所有物であって、AI教育のため一時的に清一くんと一緒にいるのだという事実にも変わりが無いのですから。もしエメトをただのロボットとして見れなくなったら……。
関くんのはしゃぐ声が何故だか思い出されます。
日に日に人間らしさを身に付けていくエメトに、清一くんは感情移入し始めていました。どうかこれ以上、エメトが人間らしくならないように彼は祈ります。先の見えない未来に自分を投げ込まなくても済むように……。