20.関くんと蔵持さんと伊遠さん②
関くん達の席での口論はますます白熱していました。会計カウンターの向こうでは、バイトの店員達が「あれヤバイだろ、誰か止めに行けよ」「え? 俺嫌だ」「店長いない時に限ってこういうのが来るんだもんなあ」などと話し合っています。
「だああ!」と叫んでついに蔵持さんはキレました。「ちょっと関くんこの電波女に何とか言ってやったらどうなんだよ!」
関くんはお母さんに叱られた小さな子供のように、目をつぶってぎゅっとズボンの膝のあたりを掴んで黙ったままです。伊遠さんはここぞとばかりに関くんの頭を抱き寄せて、
「ちょっと! そんな大声ださないでよ! 総くん怖がってるじゃないの!」
と、蔵持さんを睨みつけました。そのまま関くんの頭を自分の胸にうずめて猫のように撫でくりまわし「おお、よしよし」なんて言い出す始末です。ついさっきまで自分こそ大声で怒鳴っていたことは棚に上げて、あんまりな言い草。
「関くんっ! なにされるがままになってんの! 嫌なんでしょ! なら嫌って言えよ! どうなんだよおい! このバカ! ○○○ついてんのか!」
蔵持さんも頭に血が上ってきました。関くんはただ硬直するばかり。涙をこらえるのが精一杯であるように見えます。
伊遠さんは自分の胸元にある関くんの耳に真っ赤な紅を引いた唇を寄せて囁きました。
「今の聞いた? これでわかったでしょ、こいつはこういう女なのよ。総くんは私のお陰でこの女の醜い本性に気付くことができたの。あのままこいつと付き合っていたらどんなひどいことになっていたか。やっぱりあなたの全てを受け入れられるのは私だけなのよ。分かるでしょ? だから、ねえ、私のところに戻ってきてよ。怒ってないから。私だけはいつでも愛しているから」
呪文のように同じ内容を繰り返し、聞こえるか聞こえないかのかすかな声で呟いています。その間も蔵持さんは「ちょっと離れろよ!」とか「聞いてるの!?」とか罵声を浴びせているのですが、伊遠さんは全く動じる様子がありません。まるで本当に全く聞こえていないかのよう。蔵持さんからは、伊遠さんの長くて艶やかな髪が関くんの顔を覆い隠す様が見えるばかりです。
「さあ総くん、いつまでもこんな所にいることないわ。行きましょう」
伊遠さんは一方的に話を切り上げて立ち上がりました。さらに関くんの手を引いて立たせようとしましたが、関くんはそれに抵抗しました。伊遠さんは一瞬、なぜ彼が従わないのかわからないと言った風に、きょとんとした目で関くんを見つめます。
「やめてくれ!」
顔は俯いたままでしたが、その時関くんははっきりと伊遠さんを拒絶しました。
「もういいよ! 僕はお前なんか好きじゃない! 帰ってくれ!」
関くんの叫びは凍りつくような店内の静寂に吸い込まれ、伊遠さんは五秒ほどの間、魂が抜けたように呆然として立っていましたが、ある瞬間その場にくずおれ、関くんにすがりつきました。
「どうして!? なんでそんなこと言うの? 私なにか悪いことした? 教えて! 私なんでもするから! 総くんの気に入らない部分は何でも変えるから! すぐに変えるから!」
伊遠さんはボロボロ涙をこぼしていました。泣くと化粧が崩れ、涙は薄汚く濁った汁になって白い頬を伝いました。
関くんはそんな伊遠さんから目をそらし、じっと白い壁を見つめました。関くんも泣いていました。蔵持さんは、もはや怒っていいやら泣いていいやらわかりません。拳を握り締めて黙っているだけです。
自動ドアの開く音がして、一人の男性客が店内に入ってきました。大学生ぐらいの軽薄そうな服装の男の人です。間の悪いこのお客さんに一瞬だけ店中の視線が集まりました。男性客は、店内のただならぬ空気に戸惑うこともなく、一直線に歩いてカウンターを素通りし、関くん達のいるテーブルに来ました。
「おい」
呼びかけて、男性は伊遠さんの肩に手をかけました。
「触らないで!」
伊遠さんはその手を乱暴に跳ね除けます。視線は完全に関くんに縫い付けられたままです。
「お願い総くん、目を覚まして! 総くんは騙されてるのよ! 総くんには私しかいないの!」
なおも関くんにとりすがろうとする伊遠さんを、男性が無理矢理引き剥がしました。
「おいこら!」
イラついた声で怒鳴りつけられても、伊遠さんは全く動じず、再び関くんに抱きつこうともがいています。男性は「ふう」と小さく溜息をついて、首を竦めました。
「あのな、そういうことは外で彼氏を待たせてない時にやってくれるか」
この言葉に清一くん達を含めて店内で一連のやり取りを静観していた全ての人々が度肝を抜かれました。そこかしこで息を潜めながら会話する声をエメトの集音マイクが拾います。
「今何て言った? 彼氏?」「え? 今来た奴が?」「うそ?」「いや言ったって」「あの女他に彼氏いるのにあんなこと言ってたわけ?」「わけわかんねぇ」
恐るべきは伊遠さん。涙で化粧が崩れ非芸術的な顔になった彼女は、両腕を振り回し、彼氏を名乗る男性の体を手当たり次第に殴りました。
「放して! あんたなんか彼氏じゃないわ! 別れる! 今別れるの! 私には総くんしかいないんだから!」
彼氏さんはボコボコに殴られながらも冷静です。
「はいはい、気を引きたくて言ってるんだよね。もう何度も聞いたから」
もう慣れた感じというか、彼は伊遠さんの扱い方をよく心得ていました。
「違うっ! もう嫌い! バカ! 死ね! 百回死ね! この早漏!」
ボロクソに言い始めた伊遠さんを、彼氏さんは人攫いのように肩に担ぎ上げて、放り出された伊遠さんの鞄も拾いました。ついでに彼氏さんを引っかいたために剥がれたつけ爪が、飲み終わったメロンソーダのコップに落ちたのも拾い上げ、他に何も忘れていないのを確認してから、
「どうも、ご迷惑をおかけして済みませんでした」
関くんと蔵持さんに向かって小さく頭を下げて、なおも暴れる伊遠さんを担いだまま、のしのしと歩いて店を出て行きました。
……嵐は去りました。
その途端、時間が動き出したように店内が騒がしくなりました。「今の彼氏すごいな! ああじゃないとアレとは付き合えないのか」「惚れる」「アイツになら俺の遺産をやってもいい」「それにしても女は恐ろしい」……などと、人々が言葉を交わすのが聞こえます。
「一体なんなの? ワケわかんない」
蔵持さんが頭を抱えてテーブルに突っ伏しました。
「ねえなんなの? 教えてよ関くん、私これどう受け止めたらいいの?」
関くんはそれには答えず、幽霊のようにふらっと立ち上がると、
「ごめん……気分悪いから、また今度……」
と言い残し、病人のような足取りで去っていきました。テーブルに伏せったままの蔵持さんだけが残されました。