19.関くんと蔵持さんと伊遠さん①
「総くん、今はこんなのが好みなんだ」
伊遠椎子は対面の蔵持さんを蔑むような目で見ました。「何だよ」と応えながらも蔵持さんは若干気圧されています。
「いい身分ね、総くん。私のこと捨てておいて、自分だけ幸せになろうっていうんだから」
伊遠さんはうつむく関くんの顔を横から覗きこみました。関くんは逃げるように顔を反らせます。伊遠さんの視線はねっとりと絡みつくようで、尋常ではない執念が感じられました。
「ちょっとあんた何なんだよ! 前カノかなんか知らないけど関係無いだろ!」
蔵持さんがちょっと素に戻って怒鳴りましたが、伊遠さんは一瞬そちらに冷たい視線を送っただけであとは目もくれず、関くんだけを見つめて、その手の上に自分の手を重ねました。さらに関くんの肩に頭を預けて、母親が小さな子供をあやすような声で喋ります。
「ねえ総くん、今からでも遅くないわ。私を捨てたことも、許してあげる。だから、ね? 私たち、よりを戻しましょう。その方がいいわ。総くんだってそうしたいでしょう?」
関くんはすっかり怯えた様子で、汚いものでも払いのけるように肩に乗った伊遠さんの頭を振り払いました。そして頭を抱えながら、
「わ、別れようって言ったのは椎ちゃんじゃないか……」
消え入りそうな声で反論します。するとその途端、伊遠さんは大声で、
「あんなの、総くんの気を引きたくて言ったに決まってるでしょう!」
叫びました。
「どうして私の気持ちわかってくれないのよっ!」
店中に響き渡りそうな声でした。
集音マイクのついていない清一くんたちにもその声は届きました。伊遠さんの叫びは店にいる全てのお客さんを一気に静まり返らせました。激しく罵る声はなおも続きます。
そこで、大島くんがぬうっと立ち上がりました。
「止めてくる」
嫌に据わった目をして手首の骨をバキボキ鳴らしながら言うので、須藤くんと清一くんが慌てて押さえつけて椅子に座らせました。
「止めろ! 俺たちの出る幕じゃない!」
大島くんは興奮の冷め切らない様子でしたが、なんとか我慢して座ってくれました。
店内が静まり返った今、伊遠さんの怒鳴る声は集音マイクのついていない清一くん達にもはっきりと聞こえています。そのことを理解した上で、エメトが須藤くんに質問をしました。
「関さん達はどちらが先に別れを切り出したかで揉めているようですが、実際のところはどうだったと思いますか?」
皆が重く沈む中、授業で分からないところを先生に質問するような態度のエメトは少し浮いて見えます。須藤くんは心配そうに遠くの怒鳴り声に耳をそばだてながらその質問に答えました。
「総が言うには、ある日突然、伊遠から一方的に別れを宣告されたって」
「ではなぜ、伊遠さんは自分が捨てられたなどと?」
「それは……」須藤くんはしばらく考えた後、「わからん。あいつはそういう奴なんだよ」と言って小さくため息をつきます。
「分からない」
エメトは小さな声で須藤くんの返答を繰り返し、無表情に関くん達の方へ視線を送りながら、頭の中で熱心に何かを計算しているようでした。やがて手元に残ったドーナツの最後のひとかけを口に含んで一言、「不思議ですね」と言いました。