12.消えたファイル
しばらくして音楽の授業は終わり、数学の時間になりました。数学教師はアメリカ出身のネイサン=マーティン先生です。体の大きな先生で、黒板代わりの巨大スクリーンと教卓の間につっかえてしまいそうなお腹をしていますが、授業はわかりやすく数学教師のくせにユーモアがあるので生徒たちには好かれています。
ネイサン先生はパソコンを操作してスクリーンに幾つかの数式を表示させると、
「ちょっと今から娘に電話するから、その間にこれ解いててくれ。今日が五歳の誕生日だからね。丁度生まれた時間にハッピーバースデーを言うって約束してたんだよ」
と言い出し、懐からPDAを出して本当に電話をしはじめました。
生徒たちは「なんだそりゃ」「いいのかそれで」などと言いつつも、まあ好都合と思ったようで、それぞれ雑談などしながら砕けた雰囲気で自習を始めました。
みんなに合わせてエメトもパソコンを立ち上げました。いつもどおりならこのまま、数式を解くついでに、先生の電話口での会話も全て記録してしまうことでしょう。
ですが、手順どおりに作業をするはずだったエメトはある段階で行き詰まりました。授業内容を記録しなければならないのに、開くべきファイルがありません。
「…………」
エメトの手が止まったのを見て、隣の席から清一くんがパソコンの画面を覗き込んできました。
「どうかしたのか?」
「清一さん、数学ノートのファイルが紛失しました」
エメトは事実をそのまま述べます。
「紛失した? どこかに間違えて移動させたんじゃ……」
言いかけて清一くんは気付きました。コンピューター仕掛けのエメトがこの手の作業でミスをするはずがないのです。お得意の単純作業ですし、初めて教えられたことならまだしも、入学以来何日も繰り返して完全に覚えたことなのですから。
エメトが間違っていないのにパソコンからデータが消えたとしたら、パソコンの方に何らかのエラーが起きたか、誰か他の人間が触ったとしか考えられません。
「バックアップは取ってないのか?」
「ありません。しかし私の頭の中にデータがあるので、ワイヤレス通信でインターネットを経由してこのパソコンにダウンロードできます」
「お前の脳みそはネットに繋がってたのか」
「時々AIのデータを取るために他のコンピューターと接続する必要がありますので」
「いや、だが止めろ。人間にできないことをするな」
「大丈夫です。私がファイルを紛失したことを知っている人は私と清一さんだけですから、このまま誰にも知られずにデータを修復すれば、その方法について疑問を抱きうる人物はいません」
これはコンピューターにしては高度な判断でした。単なる理論的な推察だけではなく、他人の視点に立った状況判断ができないと、この結論は出せません。
ただし、コンピューターとして優秀と言っても、本職の人間にはまだまだかなわないのでした。清一くんは首を振ってエメトの推論を否定します。
「駄目だ。俺のカンだが、多分お前のパソコンから勝手にデータを消した奴がいる。そいつが不自然に思うかもしれない」
カンと言ってはいますが、清一くんはこの説に強い確信を持っていました。というよりも、いつかこうなるような気がしていたのです。なにせ実際はロボットであるエメトですから、クラスの皆もその正体に気付かないまでも、何かしら違和感を感じて当然。そういった時、人は違和感の対象を生活から排斥しようとするのではないでしょうか。平たく言うと、エメトはイジメられっ子の素質を持っているのです。少なくとも、清一くんから見て。
エメトがイジメに遭ったりしたら、十億円のボディにどんな傷がつくかわかりません。何かが故障した拍子に正体がばれてしまう危険性も急上昇です。清一くんは恐ろしくなりました。
「おい、誰かお前に嫌がらせするような奴に心当たりはないか?」
「ありません」
と言ったって、どうせこいつは目の前で陰口叩かれようと、露骨に避けられようと、何も感じないだろうから当てにはできないなと清一くんは推測します。
「じゃあ、誰かに傷つけられたり、持ち物を壊されたりしたら、すぐ俺に言えよ」
「はい」
「ノートは俺のを転送してやるからそれ使え」
「はい」
清一くんはエメトのパソコンに自分のノートファイルのコピーを送ってやりました。
にしても、こんなことをするのは一体誰だろうと清一くんは考えをめぐらせました。エメトのことが気に食わないからこっそりノートを消してやろうなんて、相当陰湿な考えです。エメトはロボットだったからよかったようなものの、もしそうでなかったら、授業ノートを失うことはとても大きな損失です。他人から借りたノートでは、自分で書いたノートに比べて勉強のしやすさが全然違います。それを簡単に消してしまうなんて、犯人はきっと日頃真面目にノートを取っていないからその重要さがわからないのだろうと清一くんは思いました。
「おい! みんな聞いてくれ! アンナがパパのこと愛してるって!」
ネイサン先生が突然座っていた椅子から飛び上がり、PDAを操作してハンズフリーモードにしました。すると電話口から舌足らずの英語で、「あいらーびゅうだーっど! あいらーびゅー」と嬉しそうに連呼するのがみんなに聞こえてきます。が、
「よかったっすね」
生徒たちの反応は冷め切っていました。