11.ネクラガール
仁名村さんはしばらく黙って機会を待ちました。その日の二時間目の授業は化学だったので、時間になるとクラスの皆は揃って化学実験室に移動し始めました。今こそチャンスです。
「あ、ごめん、ちょっと忘れ物したわ」
仁名村さんはそう言って、一人だけ教室に引き返しました。
人のいなくなった教室は明かりを消されて薄暗くなっています。誰も見ていないのを確かめて、仁名村さんはひっそりとほくそ笑みました。
教室に並んでいる全ての机にはパソコンが備わっています。初めから机と一体化していて、取り外しは不可能です。パソコン本体は天板の下に隠れていて、表面に見えるのはモニターとタッチパネル式キーボードとコードレスのマウスのみ。
二〇五八年の高校では、主な授業は基本的に全てこのコンピューターを使って行われます。各種教科書のデータも入っているし、ノートもドキュメントファイルとして作ります。まめな先生なら予め授業の骨子が書き込まれたテンプレートを用意してくれていて、生徒は授業を聞きながらそこに逐次重要語句やポイントを書き込んでいくだけで分かりやすいノートが作れるというわけです。宿題や予習復習をする時は、必要なデータを各自でPDAにダウンロードして持ち帰ればOK。
そんな訳で、紙で出来た教科書やノートの量はとても少なくなり、生徒たちの鞄に入っているのは私物ばかりになりました。そういう理由で、この高校も含めて、今では全国的に制鞄無しの学校が多いようです。私服通学可の高校が増えたのもその影響かもしれません。おかげで毎朝服を選ぶのが面倒な人は制服を着て、ファッションセンスに自信のある人は私服で通学することが出来ます。ちなみに仁名村さんは毎日制服で、西口さんは私服派。
さて、教室の机を一通り見渡した仁名村さんは、その中からエメトの机に近づきました。そのままエメトの椅子に座り、エメトの席のパソコンを勝手に立ち上げました。薄暗い中立ち上がった画面が、仁名村さんの顔を不気味に青白く照らします。
仁名村さんはエメトのパソコンの中を無遠慮に物色しました。各パソコンはそれぞれインターネットに繋がっているし、PDAともデータのやり取りをできるので、生徒たちは進級してクラスが変わるまでの間、パソコンを自由にカスタマイズできます。だからってゲームをダウンロードしてきて授業中に遊んだりはできないように、先生のパソコンから生徒のパソコンを監視できるようになってはいますが。
……そのような自由なシステムになっているのに、エメトのパソコンはほとんど変更された形跡がありませんでした。壁紙はこの学校の校章が一杯に映し出されたデフォルトのままのものだし、授業に必要ないアプリケーションもダウンロードされていないようです。ゴミ箱の中も空でした。転校してまだ日が浅いとはいえ、普通ならもう少し独自色が出るものです。使っているのが人間だったらの話ですが。
「つまんねー女……」
仁名村さんは悪態をつき、授業用のファイルフォルダを探しました。他のファイルが何も無いのですぐに見つかりました。現代文、古文、漢文、数学Ⅰ、数学A……と科目の名前がついたドキュメントファイルが並んでいます。エメトのノートです。ダブルクリックして現代文のファイルを開きました。
「何これ……気持ち悪っ」
そこには、日ごとの授業中に先生の言った事が一言一句漏らさずに記録されていました。教室の扉を開けた時の『はーい、席に着いてー』という台詞から、授業に全く関係ない世間話まで含めて全てがそのままそれも気持ち悪いぐらい正確に書き写されています。一授業あたりの書き込み量は目を覆うほど。要点を色分けしているわけでも自分なりの注釈を入れているでもなく、本当にただ記録しただけで、ノートとしての機能を全く果たしていないように見えます。
「変なの。消しちゃえ」
仁名村さんは全てのノートファイルを完全に削除しました。
「ヒヒヒ、困れ困れ」
仁名村さんは大声で笑いたいところを何とかこらえて、パソコンをシャットダウンしてそそくさと教室を出ました。化学の授業はもう始まっている頃ですから、急ぎ足で化学実験室へ向かいます。鼻歌交じりに走りながら。