悦楽の部屋 ミドリ
──心地よい風でしょう? ガイア
脳裏に浮かんだのは女の声だった。私だけにしか聞こえていないと思いながら、シカトをしようとすると、ヤシロはくすくすと笑いながらこう言った。
『起きたみたいだね、ほらガイア、君の分身に挨拶しなくてはいけないよ?』
「分身?」
『僕が言わなくても分かっているんじゃないの? 形として作られていなくても、君の中で生きているよ。その子は』
生きていると言われても、私には到底理解出来ないことばかり起きている。空を舞う事も出来ないし、自分の頭の中で幻聴と言われても仕方のない存在が私に話かけてくるのだ。
『僕は集中するから、ガイアは彼女と話してていいよ』
「は?」
『じゃ後はよろしくね。ミドリ』
そう言い残すと前にいたはずのヤシロの姿が色を失っていく。足から上半身へと徐々に透明化していっているのだ。絶句をしている私に、頭の中で生きる女が私を支配していった。
──手は握ったままでいてね、感触を感じる事は出来るでしょう?
急に異空間に連れられたような黒の世界に女はいた。
『ここは悦楽の部屋よ、ようこそガイア──初めまして』
「君は?」
『私の名前はミドリと呼ばれているわ。人間達のように本当の名前がないから仮の名前と言った所かしらね』
悦楽の部屋と呼んでいる彼女の部屋は『無』と『快感』をつかさどる部屋らしい。自分の心の一部にこんな部屋があると思うと、ゾッとしてしまう。
そんな私の考えている事に気付く彼女は、黒い影のまま、本当の姿を見せぬまま、私に近づき、抱きしめた。
妻以外に抱きしめられたのは幾年ぶりだろうと思ってしまった自分の欲望に脱帽してしまいそうだ。耳元で怪しく囁かれると──ドクンと、心臓の音が高鳴る。それを基準に体にも異変が起きていくのだ。
「熱い」
『いいのよ、欲望に忠実になりましょう』
何を見て、興奮している訳でもないのに、彼女の温もりが体を包み込んでいく。何も考えられなくなりそうだ。脳みそが溶けていくような錯覚を覚えた。
姿は影だが抱き心地は女性そのものの柔らかさを体感する。彼女は楽しそうに、新しいおもちゃを見つけたように、私の全身へと手を伸ばしては添わしていく。
「いい加減に──」
『これは挨拶なのに、何故興奮しているの?』
「興奮なんか」
『してないって言い切れる?』
どうやったらこの部屋から出られるのか分からない私は、ただただ硬直するしかなかった。助け船のヤシロは黙ったまま、助けてもくれやしない。
右手を包み込むヤシロの手の感触だけが存在しているだけだった。