異世界突入編
ぼくたちの町にあるゲートは、駅から徒歩数分の空き地に開いている。お客さんも訪れやすく土地的にはかなり恵まれた環境にあるのだが、それでも客が集まらないのは、やはり異世界が残念だからだ。
空き地の近くまでくると、錆びついた看板が立っていた。看板には『のさゲー』と書かれている。
「のさゲー? のさゲーってどんなゲームだ?」
「のさっのさっしたゲームでしょうか?」
「いいや、きっと筋肉のゲームだぜ」
清音と和貴の言ってることは理解不能だが、少なくとも筋肉のゲームではない。ていうか筋肉のゲームってなんだ?
「あぁ、これはですね。『このさきゲート』って書いてあるんですけど、あまりにも看板がぼろいんで、いくつかの文字がかすれて消えちゃってるんですよ」
レイナは笑いながら、バンバンと看板を叩く。がたんと看板が傾いた。
「……わたし、もう帰りたいです」
ぼそりと清音がつぶやく。
ぼくもだよ。でもみんなを説得した手前、帰りたいとは言い出しづらい。
空き地に踏み込むと、高速道路の改札を彷彿とさせる入場カウンターが建っていた。あれはさながら、不正がないかをチェックする城門といったところか。
だがその城門、かなり古びている。しかも埃やら鳥の糞やら虫の死骸やらが付着していて、まったく清掃がされていない。
「汚いな」
「はい。いま契約を結んでいる管理会社さんがずぼらで、入場カウンターの掃除とかちゃんとやってくれないんです」
よっぽどダメな会社と契約を結んでいるんだな。もしくはその会社は異世界のことなんかどうでもいいのかもしれない。明らかに大した利益にはなってないようだし。
カウンターの窓口には、警備員のおじさんが億劫そうに立っていた。近づいてみるとおじさんは目をしばたたかせて、ぼくらを見てくる。
「おや? 珍しいね、今どきの若い人が異世界に行きたがるなんて。うちのガキどもなんかみんなゲームばっかやってるのに」
おじさんの言葉を意訳すると、若者は本物の異世界には滅多にこないということだ。実際ぼくらも、異世界に踏み込むのは今回が初めてだ。
「はい。じゃあ一人一万円ね」
おじさんが入場料を請求してくる。
商売でやっているのだから無論タダではない。異世界に行くには、相応の代金を支払う必要がある。でも一万円は高すぎだ。輝美はともかく、ぼくや清音や和貴みたいな一般家庭の学生がおいそれと出せる金額じゃない。
けどそこはレイナが代わりに支払ってくれるだろう。なんたってぼくらは頼まれて来ているんだから。
「というわけでみなさん。はい、一万円ですよ、一万円」
レイナは両手を出してくる。
……このエルフ、ぼくらに自腹を切れというのか?
「よし、みんな。帰るぞ」
輝美がきびすを返すと、ぼくらもレイナに背を向けた。
「ま、待ってください! 行かないで! 行かないでください! お金払うから! わたしがみんなのお金払うからああああああ!」
「ええい、うっとうしい。ひっつくな」
輝美は腰にしがみついてきたレイナの頭を左手でつかんで強引に引きはがす。意地でも別れようとしない彼女を振り払おうとする彼氏みたいだな。警備員のおじさんが、気の毒そうに地面を転がるレイナを見ている。
「じゃあさっさとお金出してください。五万円」
「あっ、はい……」
目元を赤く腫らしたレイナは立ちあがると、衣服についた泥を手で払って落とす。ジーパンの尻ポケットから財布を出すと、日本円の一万円札を五枚とりだして清音に渡した。
「……ん? 五万円? あの、清音さん。わたしはもともと異世界の住人だからゲートをくぐるのにお金を支払う義務はなくて、だから五万円というのは多いような」
「わけのわからないことをごちゃごちゃ言わないでください。さっきお金払うって言ったじゃないですか? あれはウソだったんですか? 今さら言い訳とか見苦しいですよ、まったく」
清音はぷりぷりしながら警備員のおじさんに入場料を支払う。自然な動きで余った一万円札をバッグにしまっていたが、ばればれだ。
「あぅぅ。わたしの五万円が……」
レイナは泣きながらパーカーのポケットに手をつっこむと、青い翼竜の絵が描かれた紋章を取り出して、警備員のおじさんに見せていた。
「はい、いいですよ」
おじさんが入場を許可すると、レイナは紋章をポケットに戻す。もしかして支払いを免除してもらえる証明書か何かだろうか。
「それじゃあみなさん、レッツゴーですよ! おぉ~!」
金をとられたというのにへこたれることなく、レイナは気を取り直して颯爽と一人で歩き出す。
ぼくらはその背中を見つめて……なぜか誰一人として動こうとはしなかった。
「さぁ、いよいよ異世界に…………って誰もおらん! 誰もついてきてない!」
ぼくらがカウンターのところで停止していると気づくなり、レイナは猛ダッシュで戻ってきた。
「な、なんで誰もついてこないんですか! 危うくわたし一人だけで、バカみたいに異世界に行っちゃうところだったじゃないですか!」
「それならそれでいいけどな。おまえが一人で異世界に行ったら、わたしたちは帰れる」
「きてくださいよ! ちゃんとお金払ったんだから異世界にきてくださいよ! ここまできたんだから、もう行きましょうよ! ねっ!」
「姉ちゃんたち、行ってやんなって」
とうとう関係のない警備員のおじさんまで口出ししてきた。よっぽどレイナが哀れに映ったんだろう。
「しょうがないな」
輝美が歩き出すと、ぼくたちも続いて入場カウンターを通り抜ける。
さっきの二の舞にならないようにレイナはじっとぼくらを見張っていた。さすがにもう逃げたりはしない。たぶん。
「おっ、あれがゲートか?」
和貴が声を弾ませる。
前方に目を凝らすと、直径三メートルほどの黒い円形の穴があいていた。あの宙に穿たれた空洞が、異世界に通じるゲートだ。
ゲート……なんだけど。
「なんか、薄いね……」
ぼんやりと背後の景色が透けて見える。それは吹けば飛ぶような、おぼろげなゲートだった。
「おい、あれ本当に大丈夫なのか? 一度くぐったら戻ってこれないなんてオチにならないだろうな?」
「だ、大丈夫です。大丈夫ですから、まだ」
「まだ? おまえいま、まだって言ったな?」
「まだっていうのはそういう意味ではなくて! え~っと、とにかく大丈夫です! 今すぐゲートが消えてなくなることはありません!」
しきりに両手を振ってレイナは大丈夫だと主張してくる。
不安がいや増しになってきた。輝美の言うとおり、ゲートをくぐったら二度と現実世界に戻れないなんて話になればシャレにならない。そういう窮地に陥るのは、小説やアニメのなかだけでいい。
「本当に大丈夫なんだな? 安全は保障されているんだな?」
「はい。わたしを信じてください」
輝美が念を押すと、レイナはこくこくと頷いた。
レイナのことを信用したわけじゃない。だが、ウソをついているようには見えない。というか器用にウソをつけるタイプとは思えない。おそらくそんな頭脳はない。少なくとも現実世界に戻れなくなる、という最悪だけは起きなさそうだ。
「そこまで言い切るのなら、一応は信じてやる。しかしウソだと判明したときは覚悟しておけ。おまえの顔面を一万発ぶん殴るから」
「ついでにその無駄な乳袋をもぎとります」
「い、い、い、いいですよ! ウ、ウソじゃありましぇんから!」
おぞましい発言をする輝美と清音に、レイナはよっぽどビビったらしく、声が震えてちゃんと喋れていなかった。
ゲートの手前までくると清音は目を細めて、じっくりとゲートを観察する。
「どうしたの清音、なにか気になることでもあるの?」
「いえ、大したことじゃありません。ただこの薄いゲート……うちの親戚のおじさんの頭みたいだなって」
「うおっ、マジかよ! キヨキヨのおじさんやべぇじゃん!」
「はい。やばいです。前におじさんの頭はどうして焼け野原みたいになってるんですか? どこの飛行部隊に爆撃されたんですか? って訊いたら、お母さんからガチ説教されました。おじさんの頭のことは不用意にいじるなって」
そのおじさんの頭はよっぽど深刻なのだろう。というか、そんな質問をした清音の神経のほうがやばい。
「では今度こそ、異世界に出発です。わたしは最後に行きますから、みなさん先にゲートをくぐってください」
またぼくらがついてこないつもりだとレイナは警戒しているようで、どうぞどうぞと先にゲートへ入るように急き立ててきた。
目の前にある黒い穴を見つめる。異世界ではなくて、冥府につながっていたらどうしよう? そんな懸念が頭をよぎる。どうしても足を踏み出すのに躊躇してしまう。ゲートの表面を指先でちょんとつついてみたら、水面に小石を投じたみたいに同心円状の波紋がいくつも広がっていった。
「行くからには楽しむとしよう。残念な異世界とやらをな」
輝美は穏やかな笑みを浮かべると、二の足を踏まずにゲートに入っていく。続いて和貴が鼻歌を口ずさみながら入っていった。清音はちょっと迷うような素振りを見せたが、意を決してゲートに飛び込む。
みんな行ってしまった……。ぼくだけ残るわけにはいかない。
ちらりとレイナの顔を見ると、
「さぁ、ユウさんもどうぞ」
高級ホテルの受付嬢みたいなスマイルを貼りつけて勧めてくる。
一度だけ深呼吸をする。鼻腔の奥に力をこめて息を止めると、ゲートに踏み込んだ。
その瞬間……薄い膜につつみこまれるような違和感を覚える。何か得体の知れないものが全身にまぶされていくみたいで、いい心地とは言えない。
おもむろに目を開けてみると……三百六十度すべてが神秘的な極彩色にそめられた空間に立っていた。
「ここって……ゲートのなか?」
「みたいだな」
輝美は注意深く周囲に視線を巡らせている。
清音は空間内の景色に度肝を抜かれたようで、口を半開きにしたまま固まっていた。和貴は肉体に感じた違和感が気になるのか、右手を開いたり閉じたりしている。
「みなさん、こんなところで立ち止まってないで早く進みましょう。ここは一本道ですから、ひたすら前に行くしかないですよ」
背後にある白い円形の穴からレイナが出てくる。この白い穴が現実世界とつながる出入り口になっているようだ。引き返せば、さっきの空き地に戻るのだろう。
「ささ、行きましょう」
レイナが先導するように前進をはじめると、ぼくらも極彩色の空間を歩き出す。
一歩一歩進むたびに、固い地面ともぬかるんだ湿地とも異なる奇妙な感触が靴底に伝わってくる。こけることはないが、しっかりと踏みしめることもできない。なんだか見えない道の上を歩かされているみたいで据わりが悪い。これが空間の感触ってやつなのか?
「異世界フィーラルって、どういう環境になっているんだ?」
輝美は空間内を歩くことに退屈してきたのか、レイナに問いかける。
ぼくもこれから向かう異世界について、なるべく知っておきたい。RPGとかでもプレイする前に説明書に書かれた設定を読み込んでいたほうが世界観に入りやすいし。
「ふふっ、輝美さんったらそんなに焦らなくても後でちゃんと説明しますよ。今はおあずけですよ、お・あ・ず・け……って痛い痛い痛い! 痛いです、耳を引っぱらないでください!」
「そういうウザイのはいいから、さっさと話せ」
「話します! いくらでも話しますから、耳を引っぱるのはやめて! もげちゃうから! エルフとしてのアイデンティティがなくなっちゃうから!」
輝美がつまんでいた手をはなすと、レイナは赤くなったとんがり耳を押さえて、うぅと涙目になる。
目尻の涙をぬぐうと、レイナは咳払いをして説明をはじめた。
フィーラルは西のノウェスと、東のイアンという二つの大陸から成り立っている異世界だ。もともとノウェスとイアンは一つの巨大大陸だったが、太古に行われた聖光神リアラと暗黒神ゴルフィスの大戦によって、大陸が二つに割れてしまったらしい。一つの大陸を割ってしまうなんて、とんでもない力を持った神様たちだ。
そして異世界での時間の流れは、現実世界の日本時間と同じだそうだ。日本が朝のときは、異世界でも空は明るい。日本で夕陽が沈むと、異世界も空が暗くなる。この現象は異世界につながるゲートが日本に発生したのが原因だと考えられている。
それから異世界の資源を蹂躙したり、異世界の宇宙構造を調査するのは固く禁じられている。資源を奪うのは異世界の人々が許可するはずもないし、ロケットなどを飛ばして宇宙を調べることは、天に住まう女神や天使が承諾しないそうだ。
しかしどこかの国の工作員が一般客を装って忍び込んでくることも昔はあったようで、そういう手合いはゲートに踏み込んだ瞬間に、女神や魔術師に思考を読まれて、ことごとく排除されたらしい。魔術という概念がある異世界のセキュリティは、現実世界にあるどの国家よりも磐石だ。
レイナの説明を聞きながら空間内を進んでいると、入り口のほうにあったのと同じような白い穴が見えてくる。
「あそこをくぐれば、異世界フィーラルですよ。さぁ行きましょう」
レイナが小走りになって駆け出す。輝美も清音も和貴も、そしてぼくも少しだけ歩調を早めた。
残念な異世界に期待はしてない。してないけど……胸の鼓動が高鳴る。わくわくしているのだろうか? そうかもしれない。ぼくだけじゃなくて、みんなそうかもしれない。
白い穴をくぐった。視界がホワイトアウトする。
ぼやけていた視力が回復していき、徐々に景色が像を結んでいく。
まず瞳に映り込んだのは、空き地にあったのと酷似している入場カウンターだ。けどこちらのカウンターは石でできている。警備の人間なのか? 異国風のチュニックを着た男性が、カウンターのそばでやる気がなさそうにだら~んと突っ立っていた。
ぼくたちは顔を見合わせる。初っ端から嫌な予感がするけど、とりあえず入場カウンターを通過する。
カウンターの向こう側には、レンガ造りの家屋や敷石の並んだ大通りが広がっていた。警備の人と同じような異国風の服装をした人々が、雑踏をつくって歩いている。
……目に入ってきたのがそれだけだったら、異世界に来たという感動に打ち震えていたかもしれない。
「……汚ったないな」
輝美は顔をしかめて感想をもらす。
そう、汚ったない。
道のところどころに茶色い紙くずや、ぼろい布切れなどのゴミが散乱している。おまけに現在のテレビでは放送できないような吐瀉物や、動物の糞まで落ちていて、蝿がたかっていた。悪臭が鼻先を突き、軽い吐き気を覚える。
よくよく見てみれば、軒を連ねる建物の壁は黒いシミだらけでよごれていた。
「リ、リアルな異世界はこういうものなんです! ゲームみたいにゴミ一つ落ちてないきれいな町なんて、あるはずないじゃないですか!」
レイナはムキになってこの異世界の正当性を主張してくるが……さすがにこれはひどすぎる。ここの住民たちには、もっと清潔感を持ってほしい。
「なんか、さっきのカウンターに立っていた無気力な警備員や、ここの不衛生な様を見ただけで、この異世界の程度が知れるな」
輝美の意見に賛同するように、うんうんと清音は首肯した。ぼくも激しく頷きたい。というかもう帰りたい。帰っていいかな? だめだろうな、たぶん。
うぅっ、とレイナはたじろいだが、めげることなく町の紹介をする。
「ここはジェネイラ。ノウェス大陸のなかでも最大の都市で、現実世界から訪れたお客様が召喚される場所です。ゲームでいうところの、はじまりの町的なあれですね」
異世界のエルフのくせに、ゲームで例えてくるのはどうなんだろう? わかりやすくていいけどさ。
この都市ジェネイラは、人間だけでなくレイナと同じエルフ族や、ドワーフ族なんかも暮らしているそうだ。明確な領主は存在しておらず、ギルド連合が王国からの命を受けて都市の統治を任されている。
そのギルドだが……レイナの話によれば、あまりにも客が来ないせいで、ほとんど機能してないとか。冒険者ギルドだけが、かろうじてまともに活動しているそうだ。かろうじてまともって、はたしてまともなのか?
「ん? あれは……」
輝美は難しげな顔をすると、ちょっとだけ首を前に突き出す。その視線の先には、タルのような恰幅のいい体形をした男性と、筋肉質なのだが身長が一メートル弱しかないおじさんが親しげに話しながら歩いていた。
「へっ、あの小っさいおっさん、なかなかいい筋肉してるじゃねぇか」
「いや、筋肉はどうでもいい」
「なん……だと」
和貴は面食らっているが、ほんと筋肉はどうでもいい。輝美が気になっているのは別のことだ。
恰幅のいい男性は耳の形がとんがっている。レイナと同じとんがり耳だ。ということはもしかして……。
「あぁ、あれはわたしと同じエルフ族ですね」
「エルフ? あれが? あんなに太っているのに? エルフって、もっとスレンダーじゃないの?」
「ユウさん。そんな固定観念にしばられちゃだめですよ。エルフにだっていろいろあります。やせているエルフもいれば、ぽちゃってるエルフもいます。もちろんわたしのように胸の大きなエルフだっていますよ」
「エルフも千差万別というわけか。なるほど、だからレイナはデブなんだな」
「輝美さん、わたしはデブじゃないですよ。おっぱいが大きいだけです。腰周りや二の腕はぷにぷにですけど、デブじゃありませんよ。そこはわたしゆずりませんから」
レイナは真顔で太ってないことをアピールしてくる。まぁ太ってはないけど。
「えっと、じゃああの太っているエルフの隣にいるのはまさか……」
「ドワーフですね」
ドワーフ。あれがドワーフ?
「ぜんぜん髭もじゃじゃないです」
げんなりしたように清音が言う。
そう、ドワーフといえばもじゃもじゃの髭だ。もじゃもじゃの髭こそがシンボルだ。なのにあのドワーフには髭が生えていない。顔の下半分はつるぺたですっきりしている。
「ゲームのなかのドワーフみたいに髭が伸びていたら邪魔じゃないですか。きちんと剃らないと、私生活に支障が出ます」
レイナの言っていることは至極正論だ。あんな大量の髭があったら、邪魔になって日常生活もままならない。それでもドワーフには、髭もじゃであってほしかった。
「ていうか親しげに話しているけど、エルフとドワーフって犬猿の仲じゃないの?」
「ふつうに仲良しですよ? そんな顔を合わせるたびに口論をするわけないじゃないですか」
エスプリのきいたジョークでも聞いたみたいにレイナは笑うが、笑っているのはレイナだけだ。ぼくも含めて他のみんなは能面のような顔になっている。
エルフとドワーフが険悪なのはファンタジーのお約束だ。せめてそこだけは守ってほしかった。
……なんだろう。どんどんぼくのなかで、ファンタジーの観念が砕かれていく。この異世界に居続けたら、最後はファンタジーへのイメージが木っ端微塵にされてしまいそうでこわい。
レイナの話によれば、フィーラルには獣耳の生えた亜人や、下半身が魚の尾になっているマーメイド、その他にも天使や悪魔など多種多様の種族が生活しているらしい。
かつてはそういった種族の異世界人が現実世界にやってくるときは、監視役がつけられていた。それは現実世界の人間も同じで、異世界にきても四六時中、監視の目がついてまわったそうだ。その頃はまだ互いの信頼関係が築けていなかったんだろう。こうして現実世界と異世界を自由に行き来できるようになるまで、多くの障害があったに違いない。
ちなみに異世界人は、金銭を支払わなくても現実世界を訪れることが許されている。その代わりに、かなりの制約がつけられているようだ。
まず異世界人は、日本国から出ることができない。外国に渡るのは条約違反だ。日本国で商品を買って、それを異世界に持ち帰ることも禁じられている。他にもたくさんの制約があるため、通行料は無料でも十全に現実世界を楽しむことはできない。
一応、日本国内だけでなら異世界からの移民を受け入れているが、申し出る人はほぼいない。異世界人というだけで不気味がられたり、好奇の目を向けられるからだ。特に人間とは外見が異なる魔物は、そういった偏見を受けるきらいがある。昔は現実世界に魔物が来ただけで、大衆から携帯で写真や動画を撮られていたそうだ。そのときのことを根に持っている種族もいるらしい。
フィーラルの住民は人族も魔物も関係なく、誰もが異世界人の証である紋章を所持している。レイナが持っていた青い翼竜の絵が描かれた紋章だ。その『異世界の紋章』には魔術が施されており、持っているだけで現実世界の言語や文字を理解できるようになる。こうしてレイナがぼくたちと普通に会話できているのも、異世界の紋章のおかげだ。
そしてゲートをくぐる際も、異世界の紋章が必要になる。紋章は通行証の役目も果たしているので、紋章を見せなければゲートを通ることはできない。
ジェネイラの目抜き通りを北上していき噴水のある中央広場までやってくると、レイナは思い出したように足を止めた。
「そうでした。みなさんに渡さなくてはいけないものがありました」
「いらない」
「もらってください! あげたいんです! わたしがみなさんにあげたいんです! だからどうかもらってください! お願いします!」
また土下座しそうな勢いでレイナはすがりついてくる。
輝美は億劫そうに唇をすぼめて息を吹いた。
「もしろくでもないものだったら受けとらないぞ」
「それは大丈夫です」
にぱぁ~っとほがらかな笑顔をたたえると、レイナはパーカーのポケットをごそごそとあさり、木材で造られたワッペンくらいのサイズの平たいものを四つ取り出した。表面は赤く塗装されていて、交差する二つの剣と大きな盾の絵が描かれている。
「みなさん、一人一つずつ、この『冒険者の紋章』を受け取ってください」
「冒険者の紋章?」
「はい。異世界フィーラルでは、現実世界からきたお客様を冒険者と呼びます」
そう言ってレイナは、ぼくたちに冒険者の紋章を手渡してきた。
娯楽として異世界を楽しんでもらうために、異世界ではルールが設けられている。お客が冒険者というのは、そのルールの一環だ。
そしてぼくたち冒険者は、この異世界を冒険して魔物を倒すのが目的らしい。
なんというか、ありきたりなゲームの設定をまんまリアルに持ってきたみたいだな。
受けとった赤い紋章は冒険者の証であり、異世界を楽しむための必需品だ。
冒険者の紋章には、異世界の紋章と同じく魔術が施されており、持っているだけで異世界の言語や文字が理解できる。自動的に異世界の言葉を喋ったり読んだりできるみたいだ。この冒険者の紋章がなければ、異世界人とコミュニケーションをとるのは難しい。
異世界で金銭を得るときも、この紋章が必要になる。というのも魔物を倒したらそのことが紋章に記録され、紋章の記録を冒険者ギルドで読みとってもらって、倒した魔物の強さや撃対数に応じて金銭を与えられるからだ。
ちなみにフィーラルでの通過はRPG定番のゴールドだ。銅貨一枚で一ゴールド。銀貨一枚で百ゴールド。金貨一枚で一万ゴールドになる。
たくさん魔物を倒して紋章に記録されても、冒険者ギルドにたどりつく前になんらかのトラブルに巻き込まれて紋章を紛失したら金銭は与えられない。これまでの努力が水の泡になる。紋章は無料で何度も再発行できるが、なくさないように用心しないといけない。
そしてぼくたち冒険者が戦っていいのは魔物だけだ。冒険者同士で争うのは禁じられている。魔術で意識が混濁していたり、やむえない事情を除いては、悪意をもって冒険者を攻撃、殺害するのは御法度だ。ネトゲーでいうところのPK行為が禁止なのと同じだ。違反が判明したら相応の処罰が下される。異世界には透視魔術を使える者がいるので、どんな手段を講じてもルール違反は隠蔽できない。
仮にルール違反を犯していなくても、マナーの悪い客は妖精がやってきて注意するみたいだ。
ゲームとは違ってリアルな冒険を想定しているので、当然のように不測の事態は起きる。行方がわからなくなったり、時には戦闘で死亡したりもする。そのへんはギルド側が魔術を駆使してサポートしてくれるようだ。
行方不明になっても魔術を使えば簡単に居場所を特定できるし、死亡しても教会かギルドに連れて行けば無料で蘇生してもらえる。それに死亡してから一定の時間が経過すると、自動的にジェネイラの神殿で復活する魔術をゲートをくぐった際にかけられているそうだ。なので死んだまま放置されることはない。
ゲートに踏み込んだとき肉体に違和感を覚えたのは、その魔術をかけられたせいだろう。
「さぁ、これでみなさんは立派な冒険者ですよ」
説明を終えたレイナは、人差し指を立ててにこりとした。
みんなの反応は一様に薄い。輝美も清音も和貴も、手のなかにある冒険者の紋章を無関心な目で見ている。そして……。
「てりゃ」
「こんにゃろ」
「んぎぎぎぎ……へっ、俺の握力でも潰せないとは、やるじゃねぇか、この紋章」
輝美は石でも投げるように紋章を放り投げ、清音はメンコみたいに紋章を地面に叩きつけ、和貴は右手で紋章を握り潰そうとした。
「ちょっ、みなさん、なにやってんですか!」
「あんな紋章はいらないから捨てた」
「いります! 超いります! みなさんは冒険者なんですよ!」
「今さら冒険者とかいいです。もう他のゲームでさんざんなってきましたから」
「そういうこと言わないの! ちゃんと設定を守って! ねっ!」
レイナは泣き顔になると、輝美と清音が捨てた紋章を拾ってきて、二人に無理やり押しつけた。二人ともしぶしぶ紋章を受けとる。
まだ知り合って半日も経ってないのに……このエルフはどれだけ輝美たちに泣かされるんだ。
レイナは肩で息をすると、柳眉を下げてぼくらを見てくる。ここまで輝美たちの相手をしてきて、かなり疲れたようだ。
「あの、すぐ戻ってきますから、ちょっとの間だけここで待っててもらってもいいですか? 本当にすぐ戻ってきますから」
「ん? あぁ、かまわないぞ」
「勝手に帰ったりしないでくださいね」
「わざわざ異世界のなかまできたんだ。帰りはしないよ」
「絶対ですよ。絶対の絶対に帰らないでくださいね。戻ってきていなくなってたら、わたしこの場で号泣しますから。いい大人なのに」
「心配するな。誰もおまえをいい大人だとは思っていない」
「え? あの、それってどういう意味ですか? 詳しく説明してください」
「いいから、さっさと行ってこい」
不服そうに下唇を突き出すと、レイナは「わかりました」と言って、広場の西側にのびた道を走っていく。
レイナの姿が小さくなっていき完全に見えなくなると、輝美は左手を腰に当てて一同の顔を見まわした。
「……帰るか」
「そうしましょう」
「いやいや、さすがにここでいなくなるのはレイナがかわいそうだよ。たぶんあの子、ほんとに泣くよ。遠足でおいてかれた子供みたいに泣くよ」
「そういう辛い経験も、時には必要だ」
「傷つくことでしか、心の耐久力は強くならないんですよ、ユウ先輩」
「レイナのためみたいな感じで言ってるけど、それただのおためごかしだよね? 二人とも早く帰りたいだけだよね?」
「うん、そうだ」
輝美が開き直った。開き直ってぶっちゃけた。
「勝手に帰ったとしても、たぶんレイナはまた現実世界にやってきてぼくらを異世界に連れて行こうとするよ。それだったら今日のうちに面倒なことは片づけておいたほうがよくない?」
二人とも本気で帰るつもりはなかったらしく、ぼくが説得したら思いとどまってくれた。
その間、和貴は「これが異世界の風か」と一人で気取っていたが、からむ余裕はなかったのでノータッチで流しておいた。
それから五分も経たないうちに、レイナは広場に戻ってくる。
「みなさん、お待たせしました」
森の妖精という言葉が頭に思い浮かぶ。さっきまで着ていた現実世界の衣服ではなく、純白のチュニックに緑色の外套を羽織った衣装に着替えている。エルフらしい格好になって、異世界人というのをより一層意識させられた。あと、あふれんばかりのおっぱいの谷間が強調されているのがいい。
「どうですか? こうして衣装チェンジしただけで、がらりとわたしへの印象が変わりましたよね?」
「そうだな。急激にいやらしくなった。そっち系のお店のコスプレみたいだ」
「このド腐れビッチエルフが」
「ええええええええ!」
レイナは半泣きになる。ほめてもらいたかったんだろうな。
輝美は冗談まじりに言ったみたいだが、清音の目はマジだ。マジで殺意を抱いている。胸を強調した衣装は、清音のコンプレックスを刺激するので逆効果だったみたいだ。
ぼく個人としては、その衣装はグッジョブだ。ありがとうございます。ごちそうさま。
「うぅ、それじゃあこちらに来てください」
げんなりとしたまま、レイナは案内を続ける。そのけなげな姿勢に、がんばれ負けるな、とエールを送りたい。
都市の北側に足を運ぶ。このあたりはいろんなギルドのオフィスが並び立つギルド街になっているそうだ。そのなかでも一際大きな建物の前に連れていかれた。
「ここが冒険者ギルドです」
冒険者ギルドは、その名の通り冒険者をサポートするギルドだ。
冒険者としての登録はここで行う。ゴールドの受け取りや、冒険者の紋章の配布や再発行もここでできるし、皮袋や背負い袋や水袋など冒険の必需品も貸してくれる。
冒険で入手したアイテム・武具・ゴールドはギルドの倉庫に預けることが可能だ。一度現実世界に戻っても、また異世界に来たときにギルドに立ち寄れば前回入手した装備やゴールドはそのまま手元に戻ってくる。ゲームでいうところのセーブポイントみたいなものだと考えればいい。
ギルドの屋内にはいくつかのテーブルが並んでいて、壁には掲示板が設置されている。奥には受付のカウンターがあった。
「あっ、イリーシャ」
レイナは親しみのこもった笑顔で、カウンターに歩み寄っていく。
カウンターには赤髪をポニーテールにくくった、黒スーツのお姉さんが腰掛けていた。目つきが悪くて、くわえタバコをしている。なんだかヤンキーっぽい。
「レイナ? どうした、こんなところにきて?」
イリーシャというお姉さんはタバコを指先でつまむと、ふぅ~と口から紫煙をくゆらせる。
「レイナ……この人は?」
ぼくが問いかけると、レイナは体ごとこっちに向き直った。ぷるんとおっぱいが揺れる。清音が目元をひくつかせた。我慢して。キレないで。
「彼女はイリーシャ。冒険者ギルドの受付嬢です」
受付嬢……このヤンキーっぽいお姉さんが? もしもぼくがファンタジー世界にいる本物の冒険者だったら、こんな柄の悪いお姉さんがいるギルドには立ち入らない。
「んで、レイナ。この子たちなに? もしかして客?」
「はい、その通りです。お客様ですよ、お客様。冒険者ですよ!」
「うわっ……わざわざ客引きしてきたの? めんどくさっ。わたしの仕事増えんじゃん」
チッ、と舌打ちをするイリーシャさん。めっさ態度が悪い。こんな人が現実世界で接客業のバイトをしたら、即クビにされる。
横をうかがってみると、輝美と清音は冷たい目になっていた。イリーシャさんには好感が持てないようだ。舌打ちされて好感を持てというほうが無理がある。
イリーシャさんはタバコの火を灰皿に押しつけてもみ消すと、ぼりぼりと頭をかいてカウンターの下から一枚の紙を取り出した。その紙に書かれた文字をかったるそうに読む。
「そんじゃあまずは冒険者としてどの職業につくかだけど…………あぁもうめんどくさい。レイナ、あと任せたから」
「えっ? ちょっ、イリーシャ?」
イリーシャさんはカウンターを立つと裏側に引っこんでいった。まさかの職務放棄だ。
冒険者として職業選択をする前に受付嬢がいなくなるって、こんな展開はどんなゲームでも経験したことがない。
「根っこの部分からして堕落しているな、あの女。そのぶん矯正しがいがある。わたしが上司だったら、まちがいなく鼻フックをかましているぞ」
「そこからの背負い投げですね」
鼻フックをかまして背負い投げするって、どんな上司だ。
「へっ、あんな人でも筋肉で接すればちゃんとわかってくれるさ。筋肉は全てを救うからな。お互いの筋肉をぶつけあえばいいんだよ」
「和貴先輩、それセクハラに聞こえますよ?」
清音からのツッコミに、なんだとっと和貴はのけぞる。
とりあえずぼくは、責任を追及するようにレイナを注視した。
「え、えっと……まずは冒険者としての職業選択ですね」
ちょんちょんと指先を突き合わせながら、レイナはしどろもどろに言葉をつむぐ。そして空元気をしぼりだすように、喜色な笑顔をつくった。
「ほらほら職業選択ですよ、職業選択! みなさん、テンションあがりませんか?」
「まったくあがらん。そもそもわたしたちはまだ高校生だ。どんな仕事につくべきか、考える時間はたくさんある。というか、わたしのやりたい仕事はこの異世界にはない」
「仕事の話とか、ほんと鬱になるからやめてほしいです。親戚のおじさんが言ってました。仕事はストレスの原因だ、それで俺もハゲたんだって。わたしハゲたくありません」
「俺の夢は世界最強になることだ。常識の枠にとらわれて、普通の職業につく気はさらさらねぇよ」
「輝美も清音も、なんでリアルな話をしているの? あくまで異世界での職業選択だから。本当の職業選択じゃないから。あと和貴はバカ丸出しすぎだよ。ちゃんと将来のことを考えようよ」
せっかく異世界にいるのに、現実世界の話とかやめてほしい。楽しくゲームをプレイしている最中に深刻な悩みを打ち明けられたみたいで興醒めしてしまう。
「えっとレイナ、それで冒険者の職業ってどんなのがあるのかな?」
いくらなんでも鉄板の戦士や魔術師はあるはずだ。それだけでも十分楽しめる。
「遊び人です」
「……ごめん、なんだって?」
「職業は遊び人があります」
遊び人って……ゲームだったらランダムでわけのわからない行動をとってくる、戦闘の役には立たない職業だ。レベルをあげたらすごい職業につけたりもするけど、選択する人はほとんどいない。
「あぁ、遊び人ね。へぇ、変わった職業があるんだね。他にはどんな職業があるの?」
「ありません」
「ん? いまなんて……」
「ありません、と言いました」
「ありません? ありませんって……どういうこと?」
「そのままの意味です。いろいろ事情がありまして、現状では冒険者は遊び人にしかなれないんです」
「それってもしかして、戦士とか魔術師の職業について、剣や魔術でバチバチやれないってこと?」
「はい。ユウさんは理解が早いですね。助かります」
助かりますじゃねぇよ。こっちはぜんぜん助からないよ。
「やっぱりわたしのやりたい仕事は、この異世界にはないようだな」
輝美がさっきと同じセリフを言う。今なら同意することができた。
「み、みなさん、まさか無職になるつもりですか? ちゃんと働いてください! ちゃんとみんなで遊び人になってください!」
「遊び人はちゃんと働いてないから」
しかもみんなで遊び人になるっていう響きからして嫌だ。きっとろくでもないパーティに違いない。ゲームだったら確実に全滅している。
ぼくらは職業選択をせずに、無職のまま冒険者としての登録を行った。無職のままっていうのも嫌な響きだ。
「ではここで、みなさんに悲しいお知らせがあります」
「悲しいお知らせなら、おまえと出会った瞬間からずっと聞かされつづけているが?」
輝美の指摘に「うっ」とレイナは鼻白む。それでもくじけずに話を進めた。
「本来なら選択した職業に応じて各人に初期装備が提供されますが、フィーラルは平和が永年続いた異世界です。なので争いに用いる武具が流通していません」
「それってつまり……」
「剣や盾や鎧は、冒険者ギルドにはないということです」
呆れて文句を言う気にもなれない。剣や盾や鎧がない冒険者って、それは果たして冒険者といえるのか? もしかして選択できる職業が遊び人しかないのも、戦士や魔術師の武具を用意できないからか? おそらくそうだ。
「わたしたちは無職な上に装備なしで冒険に出なきゃいけないんですか? なんですかそれ、どんな死にゲーですか?」
「いえ、そこはちゃんと代わりの武器を用意してますから。もちろん無料で」
詰め寄ってくる清音をなだめるように、レイナは両手を前後に振るう。
さすがに装備なしで放り出したりはしないようだ。ちょっと安心する。
「で、その代わりの武器っていうのはなんなの?」
「はい。こん棒か、つまようじです」
なんでつまようじ?
こん棒はいいよ。初期装備としてはよくあるものだから。でもつまようじは聞いたことがない。それだったらこん棒だけでよくない? いちいちそんなツッコミを入れるのも面倒になってきた。
「この異世界では武器を使ってスキルや魔術を習得しますが、こん棒とつまようじからはなにも得られません。ご容赦を」
要するに最低の装備ということだ。特につまようじは最低だ。
「さぁ輝美さん。こん棒とつまようじ、どちらにしますか?」
「どっちもいらん」
「なんでですか! 選んでくださいよ! どっちか選んでくださいよ! 選んでくれなきゃなにも始まらないじゃないですよ! こういう最初の選択こそが、冒険の醍醐味じゃないんですか!」
駄々っ子みたいにごねだした。このエルフ、うざい。
「なら、つまようじでいい」
「わたしもそれでいいです」
輝美と清音は意外な選択をしてきた。
「二人とも、なんでつまようじなの?」
「軽いし、歯につまったものをとれるだろ」
「捨てやすいですしね」
テキトーな理由だった。ていうか清音は捨てるつもりなんだ。
「ユウさんはどちらにしますか?」
「ぼくは、無難にこん棒にしておくよ」
「ふふっ、もぉう、男の子なんですからぁ」
男とか女とか関係ない。役立ちそうなほうを選んだまでだ。とりあえず訳知り顔をするレイナにイラッときた。
手渡されたこん棒は直径一メートルほどの長さで、重量はそこまでない。木製バットみたいなものだ。これで魔物と戦うのかと思うと……かなり心もとない。
「和貴は、どうするの?」
「へっ、俺にはこの肉体がある。武器なんていらねぇよ」
「そういうのはいいですから、さっさと選んでください。バカ貴先輩」
「キヨキヨ。俺はバカ貴じゃねぇぜ。和貴だ」
「はい、知ってます」
清音に冷たくあしらわれると、和貴は「ぬぁにぃ!」と驚いてから、こん棒をチョイスした。
まともな武器を持っているのはぼくと和貴だけだ。これ、本当に冒険に出て大丈夫なのかな?
「あっ、みなさん。財布やスマホなどの貴重品はギルドに預けていってくださいね。なくしたら大変ですから」
パソコン、スマホ、ゲーム機などの機器は異世界に持ち込んでもいいが、ネット、電話、メール等の機能は使えない。冒険にいった先で死亡して、スマホをなくしたり壊したりしたら大変なので、大切なものは事前にギルドに預けておく必要がある。
スマホのカメラ機能は使えるので、預けるように警告しても異世界の風景を撮影するためにスマホを手放さない冒険者がたまにいるらしい。
携帯機器に限らず、異世界に持ち込んだ現実世界の道具は、きちんと現実世界に持ち帰ることが義務づけられている。そして現実世界の道具を異世界で売買するのは厳禁だ。
逆に異世界のアイテムやゴールドを現実世界に持ち帰って売買することも禁じられている。異世界のアイテム類を現実世界に持ち込んでいいのは異世界人だけだが、その異世界人でも現実世界でアイテムを売買するのは許されていない。
異世界人のなかには、自分たちの生活環境が異国の文化に侵食されていく感じがするという理由で、現実世界の道具を異世界においていかれるのを快く思わない人たちもいるそうだ。
「さぁみなさん。準備が整いました。いよいよ冒険にレッツゴーですよ」
一人で明るく、レイナは拳をかかげる。
準備? 準備ねぇ……。準備という準備はしてないように思えるが、とにかくギルドでやることは済んだらしい。
ぼくらは無職のまま、こん棒とつまようじを装備して冒険者ギルドを後にした。ほんとに大丈夫なのかこれ?
レイナに連れられて、ジェネイラの西側にある酒場や飲食店の並ぶ通りを抜けると、町の外へと踏み出す。
そこには果てしなく広がる平原があった。点在する樹木が涼風を受けて葉擦れを奏でている。辺りに建物がないだけで、ジェネイラのなかにいたときよりも青空がひらけて映った。この自然に満ちた眺めだけは、絶景だといえる。
「わたしたちを町の外に引っぱり出して、どこに連れていくつもりだ?」
「もちろん、魔物が出現する森にです」
魔物との戦闘が許されているのは、ダンジョンやステージと呼ばれるエリアのなかに限られているそうだ。町中や街道では、人の迷惑になるので争うことはできない。
ふつうファンタジーといえば、魔物と出会えば即戦闘になる。しかし異世界フィーラルでは人間と魔物の間に平和条約が結ばれているので、魔物が牙を剥くのはあくまでお客様である冒険者を楽しませるためだ。好きこのんで人を襲っているわけではない。
冒険者が死亡したら蘇生させてもらえるように、魔物も死亡したらギルド職員に蘇らせてもらっているらしい。つくづく平和な異世界だ。
これは余談だが、復活できるのは外傷のみで、病死や寿命で亡くなれば、いくら異世界の魔術でも蘇生はできない。天命には逆らえないということだ。
ひたすら街道を進んでいくこと数十分、ようやくそれらしき森が見えてきた。木々が密集していて、いかにも魔物が出てきそうな場所だ。
「あそこはコモレビの森といいます」
冒険者が最初に挑戦する森で、難易度が一番低いステージだそうだ。出てくる魔物もゴブリンだけだ。けっこう深い森なので、油断すると道に迷うこともある。そのへんは注意しないといけない。
「気合い入れていきましょう。なんたってあの森は、唯一まともに活動しているステージですからね」
「ちょっと待て」
先行しようとするレイナを、輝美が引きとめた。うん、ちょっと待ってほしい。なんか、聞き捨てならないことを言った。
「唯一まともに活動しているステージって、どういうことだ?」
輝美が詰問すると、レイナはぎくりと身をすくませる。目を泳がせながら、たどたどしい口調で説明してきた。
「えっとですね、その……あまりにもお客様が来ないので、魔物たちはやる気をなくしたといいますか、面倒くさくなったといいますか、あの森以外のステージやダンジョンにはよりつかなくなったんです」
つまり、この異世界ではあの森にいるゴブリンとしか戦えないということだ。深山に潜んでいるドラゴンや、古城に住まう吸血鬼なんかのファンタジーの定番とは戦えない。これはすごい話を聞いてしまった。
はじまりの町の近くにある森でしか遊べないとか……もう壮大な冒険もへったくれもない。
「ですが、あの森のなかでなら楽しい冒険ができますよ。だから行きましょう。ね? ゴブリンを殺しにいきましょう。あそこでいっぱい殺しましょう。きっとおもしろいですよ、殺すの」
「殺すのおもしろいとか言うな。生々しくて怖いよ」
それにぼくらは好きこのんでゴブリンを倒しにいくのではない。レイナに頼まれたから仕方なく付きあっているだけだ。
「ていうかわたし、ここまでの移動で疲れたんですけど。まだ歩かないといけないんですか?」
「なんだキヨキヨ、もうバテたのか? 体力ねぇな。日頃から運動しないとだめだぜ」
和貴はやれやれと首を振るうと、清音の前まで行って背中を向けたまま腰を沈めた。
「しょうがねぇな。ほらよ、おぶさんな」
「てい!」
厚意を示す和貴の後頭部に、清音は前蹴りをくらわせた。ぐへっ、と潰れたカエルみたいな声をもらして和貴は地面に顔をうちつける。
「痛てぇじゃねぇか!」
「すみません。和貴先輩ごときにバカにされたのがムカついて、つい蹴っちゃいました。鼻血出てますよ」
「うおっ、マジだ」
赤く腫れた鼻から垂れる血を手の甲でぬぐう。ティッシュやハンカチを使わないところが和貴らしい。
それと清音はミニスカなんだから、あんまり足を開くのはよろしくない。一瞬だけ青い布のようなものがちらりと見えたのは、ぼくの心のなかに秘めておこう。
「あの、みなさん、もういいですか?」
一向に森に入ろうとしないぼくらを見かねて、レイナがこわごわと催促してくる。
「ん? あぁ。ぱぱっと行って、帰ってくるとしよう」
輝美は右手に握っていたつまようじを指先でピッと弾いて捨てると、コモレビの森に踏み込んでいく。「あっ」とレイナは捨てられたつまようじを一瞥したが、わざわざ拾いはせずに輝美についていった。ぼくと清音と和貴も、その後を追いかける。
森のなかは人が通れそうな道がいくつも枝分かれして広がっていた。おそらく冒険者を気遣って木々や雑草を伐採し、人工的につくった道だろう。複雑な森の道を把握しているレイナを先頭において、迷わないように進んでいく。
林立する樹木の隙間から差す木漏れ日のおかげで、視界は良好だ。コモレビの森という名の由来はここにあるのかもしれない。けど日が沈んで夜になったら、かなり視界は悪そうだ。
そして森のなかなのでやはり虫が多い。いきなり横から飛んでくる羽虫や、樹木の枝に巣を張っているクモ、草地の地面を這う毛虫もいた。虫嫌いの人にとっては最悪の環境だ。
その点に関して、うちの女子たちは免疫があるみたいだ。輝美も清音もレイナも虫が目についても平気そうに歩いている。なんだか心強い。
ゴブリンを警戒しつつ、奥へ奥へと進んでいく。進んでいくのだが……ぜんぜんゴブリンが出てこない。もう森に入ってから、かれこれ三十分は経過している。
ゴブリンだけでなく、他の冒険者の姿も見当たらない。もしかして森にいるのってぼくたちだけじゃないのか? そういえばジェネイラでも他の冒険者を見かけなかった。まぁ異世界風の格好をしてて判別がつかなかっただけかもしれないが、でもコモレビの森にいるのはぼくたちだけのようだ。評判どおり、この異世界にはよっぽど客がこないのだろう。
「まだゴブリンは出てこないのか? いい加減あきてきたぞ。これじゃあただの散歩と変わらない」
痺れを切らした輝美が愚痴る。
「もうちょっと。もうちょっとだけ待ってください。そしたらほら、出てきますから。ゴブリン的な何かが」
ゴブリン的な何かってなんだ。それってゴブリンじゃないのか。
レイナのこめかみからしたたる水滴は、暑さからくるものじゃない。焦りからくる冷や汗だ。
この調子だと、ゴブリンの登場は見込めないな。森のなかを散歩するだけで終わりそうだ。
「あっ、ほら! あれ! あれを見てください!」
町中で好きな芸能人を発見したファンのように、レイナははしゃぎながら木立の間を指差した。そこには四角い大きな箱が置いてあった。あれはもしかして、宝箱か?
「ステージやダンジョンには、こういったサプライズもあるんですよ。わくわくしてきたでしょ? いかにも冒険をしている感じが出てきたでしょ? あの宝箱のなかにはお宝がいっぱいですよ」
へぇ、とぼくらのリアクションは薄い。もうね、この異世界のひどいところばかり見てきたから、今さらわくわくなんてできない。
「なんですか、その無関心な反応は?」
「無関心だから、こういう反応なんだ」
うっ、とレイナはたじろぐ。
「まったく、これだから最近の若者は」
「若者って……レイナはいくつなの?」
「わたしですか? 今年で十六になります」
まさかの同い歳だった。だったらぼくらを若者扱いできない。というか、もっと年上かと思っていた。
「わたしより年上なのに、尊敬するところが一つも見当たりませんね。和貴先輩と同じです」
「おいおい、キヨキヨ。俺は唯一無二の存在だぜ? 誰かと同じじゃねぇよ」
「あっ、はい。ソウデスネー」
和貴はビシッと決め顔をつくって親指で自分を指し示すが、清音はおざなりにあしらっていた。
「それよりも宝箱ですよ、宝箱! 中身が気になりますよね? そうですよね?」
「ならない」
「なってください! そこは気になってください! お願いします!」
しょうがないな、と輝美は嘆息する。
表情に明るさを取り戻すと、レイナは小気味よい足取りで宝箱に近づいていった。
「ではいよいよあけますよ? 心の準備はいいですか? 本当にあけちゃいますよ? あけちゃってもいいんですか、これ?」
うっざ。いいからさっさとあけてほしい。
「いざオープン!」
ガバッと勢いよく宝箱のフタが開かれる。
そのなかには…………腐った食べかけの果物や、なにかの動物の骨、紫に変色した布切れなど、悪臭を放つゴミが押し込められていた。
バタン! レイナは即座に宝箱をしめる。
「さぁみなさん! 冒険のつづきにいきましょう! ゴブリンを探しにいきましょう!」
宝箱をなかったことにするレイナだが、そうは問屋がおろさない。
「おい、クソエルフ。お宝なんてどこにあるんだ。ん? お宝なのか? あんなゴミがおまえの目にはお宝に見えるのか?」
「痛い! 痛いです、輝美さん! 引っぱらないで! わたしの耳を引っぱらないで! 耳はわたしのチャームポイントなんです!」
輝美にとんがり耳を引っぱられるレイナは、泣きながら言い逃れをしようとする。
「か、価値観は人それぞれじゃないですか。人によっては、この宝箱の中身がお宝に見えるかもしれません」
「そうですか。では輝美先輩。このエルフを宝箱のなかに閉じ込めましょう。きっとお宝に囲まれて幸せなはずです」
「ごめんさない! この宝箱に入っているのはゴミです! ただのゴミです! なんの役にも立たないゴミです!」
「そうですね。ゴミですね。なんの役にも立ちません。あなたと同じです」
「うわああああああああああ!」
清音から罵倒されると、レイナは滂沱のごとく涙をあふれさせる。輝美がとんがり耳をはなしても、ひっぐひっぐと泣きじゃくっていた。かわいそうだけど、弁護の余地はない。
「でも、なんで宝箱のなかにゴミが?」
「そ、それはたぶん、この森を訪れたゴブリンが、いらなくなったものを宝箱に捨てたからです」
なるほど。だったらこれは宝箱じゃない。ゴミ箱だ。……あけなきゃよかった。
レイナは泣きやむと、自身を奮い立たせるように「よし!」と掛け声を発して両手を握りしめる。タフだな。そこだけはほめてあげたい。
それからも森のなかをそぞろ歩いたが、ゴブリンは一体も現れなかった。魔物とすら戦えないなんて、どこまでも残念な異世界だ。
「そろそろ引き返そう。このまま森をうろついたところで、ゴブリンは出てこない」
「輝美先輩の言うとおりです。こんなところにいても時間の無駄なので帰りましょう」
「激しいバトルがないなら、森にいる理由はねぇな」
輝美、清音、和貴から不満の声があがる。ぼくも三人の意見に賛成だ。
「というわけだからさ、レイナ。悪いけど、森の入り口まで引き返してもらってもいいかな?」
「え? あっ、そ、そうですか、引き返すんですか。あ~、でもその……もうちょっとくらいゴブリンを探すのもいいかもしれませんよ?」
「いや、たぶんこれ以上は探しても見つからないよ。だから日が落ちる前に引き返そう」
「ひ、引き返すんですか、森の入り口に……」
なんか変だ。レイナはやたらきょろきょろして、森の景色に目を配っている。まさかとは思うけど……。
「レイナ、もしかして道に迷った?」
ぎくりとするダメエルフ。うん、これ確実に迷ってるな。
レイナはこほんと咳払いをすると、神妙な面持ちになって、ぼくらを見つめてくる。
「いいですか、みなさん。迷わない人生なんてないんです。いつでも好きなように来た道を引き返せるだなんて思わないでください」
「清音、やってしまえ」
「わかりました」
輝美から命じられると、清音はレイナの前に立ち、たわわに実った二つの乳房を下からすくいあげるようにわしづかみにして、むぎゅむぎゅともみしだいた。
「あっ、やめっ、やめてください! うぅ……すみません! 迷いました! わたし道に迷ってしまいました! 調子に乗ってずんずん進んでいたら、どこにいるのかわかんなくなっちゃいましたぁ!」
朱色に染まった顔を激しく振りながら、扇情的な声をあげて自らの非を認める。
清音が両手をはなすと、レイナは膝から崩れ落ちた。乱れた呼吸を整えながら、自分を抱きしめるようなポーズをとる。
「これってまずいんじゃない? 今は明るいからいいけど、暗くなったら視界が悪くなって身動きがとれなくなるよ。下手したら今日は家に帰れないかも」
ギルドからもらってきた水袋があるけど、それだってすぐにつきる。なにより腹持ちするような食糧がない。空腹に耐えながら一夜を過ごさなきゃいけないなんて、軽い遭難状態だ。
ずっと帰らなかったらギルド職員が魔術で透視して捜索にきてくれるだろうけど……きてくれるのかな、イリーシャさん? きてくれると信じたい。きてくれなさそうだけど信じたい。
死んでも自動的に復活するから最悪の事態だけは回避できる。だけど、ぶっちゃ復活するとわかっていても死ぬのは怖いし、痛みも苦しみも味わいたくない。絶対にごめんだ。
よくないことばかりが頭に浮かんでくる。ざわざわと気持ちが色めき立ち、胸の鼓動が早鐘を打っていた。
「さてと、どうしたもんかな」
内心ドキドキしているぼくと違い、輝美は余裕だ。肝が据わっているというか、器が大きい。なんだか自分が人間として矮小に思えてくる。
とりあえずぼくも落ち着こう。落ち着かないと良案は浮かばない。
軽く握った拳を胸に当てて深呼吸する。それを繰り返していると、心音が静まってきた。
ふぅと息をもらす。かさかさという音が鳴った。
腰をひねって、振り返ってみる。
後ろに生えている丈の高い林が揺れていた。
はて、野生動物かと思ったが、林をかき分けて出てきたのは……全身が緑色をした生物だった。
身長は小柄で一メートル半くらいしかない。大きな黄色い目が二つあって、鷲鼻がついてて、口は頬まで裂けている。腰には茶色い布を巻いており、外見は緑色の赤ん坊のようだ。
ぼくは目の前の生き物をよく知っている。アニメやゲームでさんざん見てきた。
ゴブリンだ。ファンタジーでおなじみのモンスター、ゴブリンがそこにいた。
本物のゴブリンを目にした途端、反射的に身構える。剣道なんてやったことないけど、握ったこん棒を剣に見立てて構えた。
和貴もこん棒を構えている。だけどその構えはバッターボックスに立つ打者の構えだ。まちがっている。
清音もぼくと同じように剣道の構えをとっているが、なにせ握っているのがつまようじだから小さい。武器が小さすぎる。ふざけているようにしか見えない。
輝美は徒手空拳のまま、なにも構えていない。ほう、と感心しながらゴブリンを観察している。生ゴブリンを目の当たりにして多少は驚いているみたいだ。ちょっとは戦おうとする姿勢を見せてほしい。
はたして勝てるだろうか? わからない。ぼくはまともな喧嘩なんてろくにしたことないし、これといったスポーツもやっていない。あんまり自信は持てなかった。頼りになるのは腕っ節の強い輝美と和貴だ。この二人がそろっていれば、まず喧嘩で負けることはない。
それでも異世界の魔物に太刀打ちできるかどうかは不明だ。
一体いつになったら戦端が開かれるのか? 少しずつ緊張感を高めていると……。
「ジ、ジグラさん! 助かりましたぁ!」
レイナがゴブリンに泣きついた。……あれ? 戦わないの?
「レイナ? どうしたんだ、こんなところで?」
「実はその、帰り道がわからなくなって……」
「また迷ったのか? これで何度目だ? ったく、しょうがねぇな」
また迷った? これで何度目? ジグラというゴブリンはそう言った。
もしかしてこのエルフ、何度も森で迷っているくせに、ドヤ顔でぼくらを連れ込んだのか?
ジグラは流暢な言葉づかいで親切に帰り道を教えてくれる。ゴブリンが喋るのって、なんだか動物が人間の言葉を喋っているみたいで、かなり不思議な感じがした。
「もう迷わないように気をつけろよ」
「はい。ありがとうございます」
森の奥へと歩いていくジグラにむかって、レイナはにこやかに手を振るう。
「さぁみなさん、もう安心ですよ! 帰り道がわかりました!」
ふふんと偉そうに大きな胸を張るが、威張れるようなことは何もしていない。
「というか、戦わなくてよかったの? せっかくゴブリンが出てきたのに」
「あっ! そ、そうでした! もう長らく冒険者が森にきてなかったので、わたしもジグラさんもすっかり戦うのを忘れていました!」
それを忘れてしまったら、冒険そのものが成り立たない。ギルドでの職業選択や武器を選んだりしたのはなんだったのか?
なんでもレイナによれば、異世界フィーラルの魔物は冒険者と戦う気があまりないようだ。それもこれも冒険者がぜんぜんステージやダンジョンにやってこないのが起因している。
けど冒険者との戦闘で自分たちが殺されることには理解を示しているらしい。というのも、戦闘イコール殺し合いだと考えているのが魔物だからだ。それに死んでも魔術で復活させてもらえるので、殺されることをそこまで深刻に考えてはいない。
ちなみに戦闘中に冒険者が降参したら、魔物はそれ以上の危害を加えてはいけないというルールがある。冒険者が降参したら、すみやかに異世界の紋章に備わった魔術を発動させて、冒険者をジェネイラに強制転移させる。そうなったら冒険者は所持している武器やアイテムをロストする。うまく逃走できれば武器やアイテムをロストせずにすむが、痛い目にあいたくなかったら、早めに降参するのがおすすめだ。
そんな駆け引きが発生することもなく、ぼくらはゴブリンとの遭遇を難なく終わらせた。
「え、えっと……みなさん、これからどうします? 引き返すのはやめて、もうちょっとゴブリンを探してみますか? 今度はちゃんと戦闘をしますから。戦闘するようにわたしが言いますから」
ぼくらの顔色をうかがいながら、レイナは森にとどまることを提案してきた。
しかし、ぼくらの意見は満場一致でジェネイラに帰ることだった。もう早いとこ森から出ていきたい。もっといえば、早くこんな異世界からは出ていきたかった。
◇
ジェネイラに帰ってくると、西街にある酒場に案内される。
並べられた木製テーブルや、カウンター席は古色を帯びていて、いかにもファンタジーっぽい雰囲気がにじんでいる。店内にいる客はみんな異世界人ばかりで、ぼくらの他には冒険者らしき人を見かけない。ほんと現実世界から人気がないんだな、この異世界は。
「ぷはぁ~」
レイナは注文した葡萄酒を一仕事終えたあとの一杯みたいに爽快にあおって飲む。まともな仕事は何一つできていなかったのに。
「あ、みなさんはお酒飲んじゃだめですよ。フィーラルではわたしの年齢でも飲酒が認められていますが、現実世界の人間であるみなさんは未成年扱いになります。お酒は二十歳になってから。ミルクでがまんしてくださいね」
「そこは大丈夫です。わたし実年齢はまだ十五ですけど、自覚年齢は二十二くらいなので、お酒飲めます」
「清音、それはふつうにアウトだよ」
お酒に興味があるのか、清音は椅子の上でそわそわして、レイナが握っている木製コップの中身をしきりにのぞいていた。
輝美と和貴は、薄い肉がはさんであるパンを手にとってかじっている。
「このパン、まずくはないけどふつうだな。学校の売店においてあるレベルだ」
「脂がたりねぇな、脂が。肉はもっと脂ぎっしゅでねぇと」
二人とも、あまりこの店の料理はお気に召さないようだ。
「さて、みなさん。異世界フィーラルでの冒険を終えて、どうでしたか?」
レイナはコップをテーブルにおくと、三者面談をする教師のような生真面目な態度で異世界の感想を尋ねてくる。
「くそつまらなかった。こんな異世界は消滅すればいいと思う」
「一日でも早くVRゲームが進化して、本物の異世界ができてほしいですね」
「圧倒的に筋肉がねぇな。もっと筋肉を増やすべきだ」
和貴の意見はよくわからないが、輝美も清音も評価は星ゼロといったところか。
三人の感想を聞いて、レイナは「ぐはっ」と血を吐いた。実際は血じゃなくて飲みかけの葡萄酒を吐いた。汚いのでやめてほしい。
「ユ、ユウさんはどうでしたか……?」
ダウン寸前のボクサーのようなうつろな目で、ぼくにも感想を求めてくる。ちょっと目がマジすぎてこわい。
「正直言って、少しもわくわくしなかったかな。これなら小説やアニメやゲームのほうが魅力的だよ。この異世界では、時間を忘れて冒険を楽しむことができなかった」
ばたりとレイナがテーブルに突っ伏す。なんか、ぼくがトドメを刺す形になってしまった。でも、レイナが求めていたのは率直な感想だ。オブラートにつつんだ意見じゃない。
そのレイナは、テーブルに伏せたまま「うぅ~」と奇妙なうめき声をあげる。また泣いているようだ。
「……変な虫みたいだな」
「叩き潰しましょうか?」
「叩き潰しちゃダメだよ。それ虫じゃなくてレイナだから」
「虫もこのエルフもそんな変わらないです」
ひどい言われようだ。
突っ伏していた顔をあげると、レイナは目元の涙をぬぐって長嘆息をもらす。
「そうですか……。やはりおもしろくないですか、この異世界は」
「あぁ、もう二度ときたくない」
「そ、そこはそんなにつまらなくなかったよとか、おもしろいところもあったよとか言って、わたしをなぐさめてください!」
「なぐさめられるような言葉が見つからないほど、この異世界はつまらなかった」
輝美の厳しい発言に、レイナはがくりと肩を落とす。
「そ、そうですか……」
力のない笑みを浮かべると、レイナは上目使いでぼくらを見てくる。
「みなさんご存知のとおり、異世界フィーラルは現実世界の人々から人気がありません。訪れるお客様の数は一日五十人以下で、やってきてもジェネイラのなかを適当にうろついてすぐに帰ってしまいます」
日本の各地にゲートがあるのに、一日五十人以下って……すごいな。どんだけ需要がないんだ。その理由も異世界での冒険を終えた今ならわかる。こんな残念な異世界にお客なんてくるわけがない。
「できれば一日十万人くらいはお客様にきてほしいんですけど……」
「無理だろ」「無理です」
言うが早いが、レイナの願望は輝美と清音によって打ち砕かれた。ぼくも無理だと思う。超人気の遊園地でもないかぎり、そんな単位の来客者は集められない。
うぅ、とレイナは両目をさらに涙で湿らせる。
「リアルな痛みや死がともなうので、訪れるのを怖がるお客様もいるみたいなんですよ。安全な観光地もあるにはあるんですけど、そういったところはただ景色がきれいなだけで、きれな景色なら現実世界にも五万とあるので、新鮮味に欠けていて誰も足を運んでくれないんです」
痛いのや死ぬのが怖かったり、武器を使って魔物と戦う勇気がなかったり、そういった理由で異世界の来訪を拒む客もいるらしい。
しかし、お客が来ない原因はもっと別のところにある。
「異世界を楽しんでもらう冒険者の設定を、あそこまでないがしろにしていたら来る客も来ないだろ」
輝美がぼくの言いたいことを代弁してくれた。胸がスッとする。
「そう! まさしくそれです!」
にわかに声のボリュームをあげると、レイナは険しく眉間をひそめた。
「わたしが本日みなさんをフィーラルに招いたのは、折り入って頼みたいことがあるからなんです」
「断る」
「断らないで! せめて話だけでも聞いて! お願いします!」
「輝美、断るかどうかは、話の内容を聞いてから決めてもいいんじゃないかな?」
「本気か、ユウ? たぶんろくな頼みじゃないぞ」
それはなんとなく予感している。
輝美は頬杖をついて唇を曲げると、目線でレイナに先を話すようにうながした。
「わたしの頼みを口にする前に、みなさんにはわたしの正体を明かしておかないといけませんね」
「胸がデカイだけで、なんの取り得もないダメエルフじゃないのか?」
「ちがいます! 胸の他にも、わたしにはいいところがいっぱいありますから! 見つけてください! そこはみんなで見つけてください! わたしのいいところを見つけてください!」
レイナのいいところか……。うん、おっぱい以外は見つけられる自信がない。
「話を戻します」
浮いていた腰をおろして居住まいを正すと、レイナは自分の正体とやらを明かしてきた。
「フィーラルの地上を支配するホーリス王国の女王陛下、そして天空島で天使たちを統べる女神エリアル様、わたしはこのお二人方からフィーラルの命運を託された特使です」
「うそつけ」
「ほ、ほんとうなんです! 信じてください!」
幼稚園児みたいに両手をグーにしてぶんぶん振るう。ぼくだったらこんなエルフに異世界の命運を託したりはしない。だって明らかに人選ミスだからね。
「あのさ、どうしてレイナが特使に選ばれたの?」
「えっとですね、二年前にイアン大陸にある王都を訪れた際、たまたま女王陛下が事故にあいそうになったところをわたしが助けたんですよ。以来わたしは陛下からはすごく信頼を寄せられるようになりました。それで特使を決める会議で、陛下はわたしを推薦してくれたんです。エリアル様にもわたしでいいよねって陛下が言ったら、エリアル様は女王がそれでいいならいいんじゃないって了承してくださったみたいです」
なんかノリが軽い。もっと慎重に会議を進めるべきだ。
「こういった経緯がありまして、わたしがみなさんのもとに派遣されたんです」
「チェンジで」
「チェンジしないでください! わたしよりもいい子なんていませんから! わたしが選ばれたんだから、わたしがナンバーワンなんですぅ!」
輝美の言葉に、レイナはわんわん泣き出した。いやだな。こんな泣いてばかりいるナンバーワン。
「えっと、それでレイナの頼みっていうのは?」
「あっ、はい」
これでようやく本題に入れる。
レイナは一同に視線を配ると、張りつめた糸のような真剣な声で言った。
「どうかみなさんの力で、異世界フィーラルに冒険者を集めてほしいんです」
冒険者を集める……それは現実世界からやってくるお客を増やしてほしいということだ。
いきなりそんなこと言われても困るというか……ちょっと頭がパニックになる。
「なんでぼくらなの?」
そういうのは大人に依頼すべきだ。ぼくらのような学生に頼むことではない。
「ユウさんたち、ネットに小説を投稿していますよね?」
「まぁ、うん。しているけど……」
それがさっきの話とどうつながるんだ?
「みなさんがファミレスでアイディアを出し合っているのをわたしは耳にしました。ネットカフェや漫喫でサイトを覗いてみたら、話していたアイディアが作品に反映されているじゃないですか。なのでこの人たちが作者で間違いないと確信しました」
異世界のエルフなのにネットカフェや漫喫に行ったんだ……。ちょっと複雑な気分になる。
「ユウさんたちの作品、異世界転生ものの俺TUEEEE、読者にウケてて人気がありますよね」
「そうだね。ありがとう」
「まぁ実際はあんな都合のいい展開なんて起きるはずないんですけどね」
へっ、と小ばかにするようにレイナは鼻で笑う。イラッときた。
みんなもイラッときたようで顔をしかめる。
「清音」
「はい」
例のごとく、輝美に命じられると清音はレイナの豊満な乳房をわしづかみにし、むぎゅ~ともみながら引っぱる。
「痛い! 痛いです! 引っぱらないで! とれちゃいます! わたしのおっぱいがとれちゃいますから! 別にばかにしたわけじゃないんです! ただ他にも似たような作品が山ほど転がってるなって思っただけなんですぅ!」
清音が手をはなすと、レイナは「うぅ」と泣きながら両腕で胸を隠した。よっぽど痛かったらしい。
ぐすんと鼻をすすると、レイナは本筋の話を進める。
「それで人気のネット小説を書けるみなさんなら、フィーラルをおもしろくできるんじゃないかなと目をつけたわけです。女王陛下もエリアル様も、みなさんに賭けているんですよ」
ぼくたちならこの残念な異世界を改善できると見込まれているようだ。
だけどまだ腑に落ちない。輝美もそれは同じのようで、ミルクを一口飲むとレイナに語りかける。
「おまえ、さっき自分が異世界の命運を託された特使だと言っていたな」
「はい。本当ですから。本当にわたしは特使なんです!」
「それはもうどうでもいい。仮におまえが特使だとしてだ。どうしてわたしたちの手を借りてまで、お客を、冒険者を集めようとする? おまえらの商売が繁盛してないのは火を見るよりも明らかだが、それだけの話だろ? この異世界は平和だ。食糧だって十分にある。命運を託した特使を派遣するほど困窮していない」
そのとおりだ。冒険者がいなくても、異世界人たちは平和に暮らしているし、ちゃんとした食事もとれている。現実世界に向けた商売が繁盛していなくても特に問題はない。異世界の運命を左右するほどの影響力が、現実世界から訪れるお客にあるとは思えない。異世界フィーラルにとって、現実世界はそこまで肝要じゃないはずだ。
「それが……だめなんです。お客様が、冒険者が来てくれなくちゃ、わたしたちは非常に困るんです。はっきり言ってピンチです」
「ピンチって……どうしてだ?」
レイナは肩をすぼめると、すがりつくような視線をむけてきた。
「順を追って説明するとですね、異世界人のなかにも、かつては現実世界に行きたがる人たちがいたんです。ですが、みんな現実世界の文化に馴染めず、森や草木など自然が豊かな故郷が肌に合っているので、やはりフィーラルに身を置くことを望んでいます。もう現実世界に行きたがる異世界人はほとんどいません」
ぼくらの町でも異世界人は滅多に見かけない。異世界からきた移民だという人の話も聞いたことがない。やっぱりみんな、生まれ育った故郷が好きなんだ。
それはぼく自身にも言える。もしも本当に異世界へ転生してしまったら、ぼくは現実世界に、みんなのいる町に帰りたいと思うだろう。
「ところがです。今でも現実世界に行きたがる物好きがいるんですよ。それ事態は別にかまいません。現実世界で遊ぶのも、とどまるのも、移民になるのも、自由にすればいいです。ただ居場所を教えてくれないと、非常に困ります」
「……もしかして、現実世界に行ったっきり、どこにいるのかわからなくなった異世界人がいるの?」
はい、と怒気をこめた厳粛な面持ちでレイナは首肯する。
ひょっとしてそれが、レイナがぼくらに頼み事をしなければいけない理由なのか?
「その居場所がわからない異世界人って、だれなの?」
レイナは胸を上下させると、その問題の人物たちの名を告げてくる。
「異世界フィーラルの光の力を司る聖光神リアラ様と、闇の力を司る暗黒神ゴルフィス様、そして土水火風の元素を司る四大精霊です」
なんか、ビッグネームっぽいのが飛び出てきた。
「それって、異世界の上位存在じゃないの? いなくなって大丈夫なの?」
「大丈夫じゃありません! 大丈夫じゃないからめっさ困っているんですよ、もうっ!」
いや、ぼくにキレられても……。とりあえず拳でテーブルをバンバン叩くのはやめてほしい。振動でミルクがこぼれるし、周りの客が不審そうにこっちを見ているから。
「その神様や精霊は、どうして現実世界に行っちゃったの?」
「リアラ様とゴルフィス様は『わたしたちアイドルになります』という言葉を残して、四大精霊は『わたしらバンド組むぜ、ヒャッハ~!』と言って、それぞれ現実世界に旅立っていきました」
夢見がちな若者みたいだな。それで現実世界に行ったきり故郷に帰ってこないとか、自由奔放すぎるというか、どうしょうもない連中だ。
「リアラ教団の信者が時おり現実世界に赴いてリアラ様と、ついでにゴルフィス様と四大精霊の捜索を行っているんですが、一向に手がかりがつかめません。透視魔術も現実世界では効力が薄いので、居所を特定することができないんです」
「……最悪だね。この異世界の上位存在は」
「はい。最悪です」
認めちゃったよ。自分たちの神様や精霊が最悪だって認めちゃったよ、このエルフ。
「ついでに訊いておくけど、勇者や魔王はこの異世界にいるの?」
「勇者ルイシスも魔王サタークも、フィーラルよりも現実世界のほうが性に合っているみたいで、あっちに居着いちゃってます」
マジか。勇者と魔王もいないんだ、この異世界。
「でもでも、あの二人にはちゃんと定期的に連絡をよこすように言いつけてありますから大丈夫です。リアラ様たちのような二の舞にはなりませんよ」
神様や四大精霊みたいに行方知れずということではないようだ。けど連絡がとれるからといって、勇者と魔王が不在なことに変わりはない。異世界としては致命的な欠点だ。
「で、ここからが核心なんですが」
レイナは前のめりになると、内緒話でもするみたいに声をひそめた。
「このまま冒険者がこなくなれば……やがて異世界フィーラルは消滅します」
一瞬冗談かと思ったが……レイナの顔はふざけていない。真剣だ。真剣に警鐘を鳴らしている。
ごくりと唾を飲んだ。唐突に話の規模が大きくなったので思考が停止する。ぼくだけじゃなくて、輝美も清音も和貴も唖然としていた。
「それって……本当なの?」
「はい」
一も二もなくレイナは肯定する。どうやら異世界が消滅するというのは、冗談ではないらしい。
「えっと……どうして冒険者がこないと、そんな大変なことになっちゃうのかな?」
「現在フィーラルは現実世界とつながることで保たれているんです。行方不明になっているリアラ様、ゴルフィス様、四大精霊の力がゲートを通じてフィーラルに流れこんできているからこそ、この異世界は存続できています。光、闇、土水火風の四元素、その力はフィーラルを構築するのに不可欠なものです。力の流れが途絶えてしまえば、フィーラルはその形を保てなくなって崩壊します」
神様と四大精霊の力は、フィーラルにとってなくてはならないもののようだ。人間でいうところの水や酸素みたいなもので、それがなければ生きていけないのだろう。
ではなぜその力が途絶えようとしているのか?
「もしかして、ゲートか?」
「その通りです、輝美さん」
合いの手を打つように、レイナはパチンと指を鳴らす。
「ゲート? ゲートがどうかしたの?」
「空き地にあったゲート、薄かっただろ」
「そういえば、わたしの親戚のおじさんの頭みたいでした」
清音のおじさんのことは知らないけど、確かにあのゲートは後ろの景色が透けて見えるほど薄かった。
「ひょっとしてあのゲート……消えかけている?」
答えを求めてレイナを見ると、こくりと頷いた。
「ゲートをひらいた日本人たちの魔術が影響しているようで、ゲートは現実世界の人間の『異世界フィーラルが必要』という想いによって開通しています。なので現実世界の人たちが異世界は不要だと想えば、ゲートは閉鎖しちゃうんです」
ゲートが閉じれば、現実世界で行方不明になっている聖光神、暗黒神、四大精霊の力はフィーラルに届かなくなる。そうなったらフィーラルに未来はない。
つまり現実世界に行ったきり、居場所も教えずに帰ってこない神様と精霊が元凶だ。彼らさえ帰ってくれば、ゲートが閉じてもフィーラルは存続できる。だが彼らが不在である今は、どうしてもゲートをつないでおかないといけない。そうしなければ彼らの力がフィーラルに流れてこなくなるからだ。
そのゲートをつないでおくためには、現実世界の人間の『異世界フィーラルが必要』という想いがいる。故にレイナは、ぼくらにフィーラルを訪れる冒険者を増やしてほしいと頼んできた。お客が増えればそれだけ異世界が必要だという想いが強くなって、ゲートをつないでおけるからだ。
現在はその想いが弱まっているせいで、ゲートがあんなに薄くなっている。
「この異世界の民衆は、自分たちの世界が消滅することを知っているのか?」
「公表はしてあります。ですが半信半疑の人が大勢いるようです。そういう人たちはゲートが閉じたくらいで滅びたりはしないと高をくくっています。逆に滅びることを過度に信じている人たちは暴動を起こそうとしましたが、そんなことをすれば余計に冒険者がこなくなってしまうので、秘密裏に王国の騎士団が鎮圧しました。そしてフィーラルの住民には、これまでどおりの生活を送るように王命が下されています」
異世界人の心境は十人十色といったところか。みんながみんな、危機意識を持っているわけじゃない。だからやる気のないギルドの受付嬢だったり、やる気のない魔物がいたりする。
「事情はわかったけど、異世界そのものが窮地だっていうのなら、なおさらぼくらのような学生じゃなくて、経済学の教授や経営コンサルタントに相談したほうがいいんじゃないかな? そういう専門家のほうが商売については造詣が深いよ」
「……もう相談しました。相談しましたけど、こりゃあダメですわ、って見捨てられました」
見捨てられちゃったのか。だったらもう救いようがない。
「そもそもですね、あぁいった人種は利益をあげることばかり考えている拝金主義者なんですよ。ロマンがちっともありません! ファンタジーのなんたるかをてんで理解できてないんです! 異世界なのにミリタリー要素を入れようとするんですよ? 意味不明ですよね! そういった意見はことごとく突っぱねてやりましたよ、まったく!」
そのわりには、この異世界はファンタジーがちゃんとできていない。というか、そうやって専門家と意見の対立を繰り返したから、見捨てられたんじゃないのか。たぶんそうだ。
「提携している管理会社は、どう言ってきているんだ?」
「うっ……それが、近頃は契約を打ち切る話ばかり持ち出されて、援助は期待できません。今は新しく契約を結んでくれそうな企業がないか、奔走しているところです」
契約は打ち切り寸前ということか。ゲートが消えかけているので、見切りをつけられたんだろう。
「日本政府も不干渉をつらぬいているので、手はかしてくれないみたいですし……」
「ま、異世界で暮らす全種族を移民として日本に連れてくるのは無理だろうな。正確な人数も把握できてない、一つの世界の人々を養うだけの受け皿なんてないだろ。移民としてくることができるのは、せいぜい神様や貴族連中のお偉いさんだけだ」
「陛下や女神様は、民を見捨てて自分たちだけが助かるような真似はしません」
レイナは頬をむくれさせて輝美を睨んでくる。よっぽど女王や女神を信頼しているんだな。
「わたしの話せることは、これでぜんぶです」
レイナは葡萄酒を一口飲むと、肩の力を脱する。そして青い瞳に誠実な想いをこめるように、ぼくらをジッと見つめてきた。
「改めて、みなさんにお願いします。どうか異世界フィーラルを救うために力をかしてください。できることなら、みなさんのように心からファンタジーを好きでいてくれる人たちに頼みたいです。だからどうか、わたしに協力してください」
レイナは深く頭を下げた。この異世界を救いたいという強い意思が感じられる。必死なんだ。レイナはどんなことをしてでも、フィーラルを守ろうとしている。
ぼくらは顔を見合わせる。どう答えればいいのかわからない。だって責任が重すぎる。人命がかかっているんだ。それも一人や二人じゃない。この異世界にいる全ての命がかかっている。安請け合いはできない。
……断りたい。そういう後ろ向きな考えが、胸中をよぎった。
「無理だな」
輝美が口を切る。
「む、無理って……それはわたしには協力できないってことですか? なんでですか! なんで協力できないんですか! わたしですか? わたしのせいですか? わたしがダメエルフだから! わたしのおっぱいが大きすぎるから!」
「いや、そういう意味じゃない。おまえは確かにダメエルフだけど」
そこは否定しないんだ。ぼくもレイナはダメエルフだと思う。あとおっぱいの大きさは関係ない。
「わたしが言っているのは、この場で答えを出すのは性急だという意味だ。責任重大なだけに、即答はしかねる。おのおの考える時間が必要だ」
「な、なるほど、考える時間ですか。それはもちろん、はい! 好きなだけ考えちゃってください! どんどん考えちゃってください! ほらほら、考えて考えて!」
レイナは両手を広げてはやし立ててくる。断られたわけじゃないと知るなり、図に乗ってきた。それがカンに障らなかったといえば、ウソになる。
「輝美、もうぼく断りたいんだけど」
「あぁ、わたしもだ」
「えぇぇぇぇぇぇ!」
満面の笑顔から一変して、半泣きになるダメエルフだった。
◇
「お母様かしら? えぇ、今から帰宅いたします。いいえ、迎えはよこさなくて結構です。ご心配なさらずに」
ゲートをくぐって空き地に戻ってきたら、すっかり日が暮れて空は暗くなっていた。行きつけのコンビニの前まで来ると、輝美はスマホを取り出して母親に連絡を入れる。
電話を切ると、心配性な母親に輝美はやれやれとかぶりを振った。まんざらでもなさそうなのが微笑ましい。
「なんだユウ? にやにやしてどうした?」
「輝美のそういうお嬢さまらしい口調を聞いたの、ずいぶん久しぶりだと思って。学校ではそういうところ見せてくれないから」
「うちの学校でお嬢さま口調なんて披露したら、引かれるだろ」
むっとしてくる。照れているのか、ほんのり頬が赤い。
輝美の家は何代も前から実業家を営んでおり、いくつもの企業を経営している。いわゆるお金持ちだ。実家は広々とした豪邸で、両手の指では数えきれないほどの使用人を雇っている。ついでに別荘もたくさんある。もう人生の勝ち組決定だな。
ぼくらと一緒にいるときは、一般庶民のような喋り方をするが、家のなかや社交の場では、さっきみたに丁寧な言葉づかいをする。
本来なら高校は教養の高いお嬢さま学校……輝美の談によれば完全幽閉された男子禁制の百合校に進学する予定だったが、幼馴染みのぼくらと一緒に青春を謳歌したいという理由で普通の一般校に入学してきた。
輝美のお父さんは猛反対したけど、そこは輝美が策略をめぐらせて説得した。策略というより暴力だったけど……。素手で勝負して勝ったらぼくらと同じ高校に入学するのを認めてほしいと輝美は父親に持ちかけた。輝美のお父さんはボクシングジムに通って体を鍛えていたので、やる前は自信満々だったけど、ゴングが鳴ったあとは見事にぶちのめされた。ボコボコだった。フルボッコだった。顔の形が変わってしまった。
自分の娘がいつの間にか桁外れに強くなっていたことに感動したのかショックだったのか判然としないが、おじさんは完敗して泣いていた。泣いて輝美のお母さんに慰められていた。ぼくだったら、あんな父親の姿は見たくない。
「とりあえず、コンビニに入ろうか」
自動ドアをくぐって店内に踏み入るとチャイムの音が鳴る。先になかに入っていた清音と和貴は、それぞれ目当ての品を物色していた。
「いらっしゃい。ユウくん、輝美ちゃん」
コンビニの制服を着たきれいなお姉さんが、カウンター越しに爽やかな挨拶をしてくる。
この店には頻繁に立ち寄るので、佐田さんとはすっかり顔なじみになってしまった。
佐田さんは黒髪のポニーテールに知的な黒縁眼鏡をかけた、美人秘書のように容色に恵まれた女性だ。容姿だけでなく、接客態度も礼儀正しくていい。どこかのギルドの受付嬢には佐田さんの爪の垢を煎じて飲ませてあげたい。
年齢は知らないが、たぶん二十代前半だろう。西洋の血が入っているのか、外見はハーフに見えなくもない。
ぼくと輝美は佐田さんに軽く会釈をすると、雑誌コーナーに移動した。
「おっ、そうだ」
輝美はにやりと唇の両端をつりあげる。
「エロ本をカウンターに持っていったら、佐田さんがどんなリアクションをするのか試してみよう」
「ふつうに注意されて叱られるんじゃないの……」
「照れてわたわたするかもしれないぞ。そういう萌えるところが見てみたい」
にやにやしながら輝美は大人の本が陳列された端っこのほうにむかうと、おかれている数々のいやらしい表紙を眺める。……しかし迷っているのか、なかなか手を出そうとしない。
「とらないの?」
「っ……」
どきっとしたように輝美は背筋をまっすぐに伸ばす。
「こういう本をカウンターに持っていって、佐田さんの反応を見るんでしょ?」
「あ、あぁ……そうだな……」
左手で右手をつつみこむようにぎゅっと握ると目をそらしてくる。並んでいる大人な本に視線をむけようとしない。もしかして……。
「恥ずかしくてとれない、とか?」
「そ、そんなわけあるか!」
瞬時に否定してくるが、いつもよりぱっちりと両目が見開いてて頬も赤くなっていた。
輝美は再び大人な本が並んだ棚に目を戻すが、「あっ、う……」と口をぱくぱくさせて後ずさる。全身が凍りついたようなぎこちない挙動でぼくに向き直ると、けふんと咳払いをした。
「あ~、うん。やっぱりこういう悪戯はよくないな。佐田さんの仕事の邪魔になる」
「そうだね。そういうことにしておこうか」
「そういうことってなんだ、そういうことって。わたしは良識ある行動をとっているだけだ」
唇をツンとさせてすねてしまう。普段は平気で下ネタとか言うくせに、こういう現物を前にしたら弱いというか、ウブな少女になってしまうのは輝美の数少ない弱点だ。
ちょっぴり怒った顔をしていた輝美だが、もう一度だけ本棚をちらりと一瞥すると、耳にかかった長い髪をいじりながら、上目遣いでぼくを見てくる。
「ユウも……こういう本を買ったりするのか?」
「いや、さすがに店で買う勇気はないよ」
「そうか……。ふぅん」
訊いてきたわりには興味なさそうにそっぽを向く。だったら訊かないでほしい。
輝美に言ったことはウソじゃない。ぼくにはお店で大人な本を買う勇気はない。そう、お店ではね。ネット通販だったら話は違ってくるからね。だからウソじゃないよ。
とりあえず本棚からはなれると、アイスコーナーにいる清音のもとに向かった。
「やっぱりチョコミントですね。チョコミント最強です。歯磨き粉みたいとかいう人は意味がわかりません。味覚が狂っているんですよ」
よっぽどチョコミントが好きなのか、清音はチョコミントのカップを手にとってその素晴らしさを朗々と語ってくる。
一方インスタントラーメンのコーナーでは、和貴が気に入った商品を手当たり次第にカゴに放り込んでいた。
「へっ、まだまだ足りねぇな。ごっつ盛りじゃあ俺の胃袋は満たされねぇぜ」
自分がいかに大食漢であるかを誰にともなくアピールしている。あれは独り言みたいなものなので触れないでおこう。
清音と和貴が商品をレジに持っていくと、佐田さんが応対してくれた。
「みんな今日はこんなに暗くなるまで遊んでいたの? あんまり帰りが遅いと、家の人が心配するよ」
大人として、ぼくら学生に注意を呼びかけてくる。これが学校の先生だったら説教臭くて嫌気がさすけど、佐田さんなら友達に言われてるみたいで鬱陶しくない。
「わたしたちも、まさかこんなに帰りが遅くなるとは思わなかった」
「そうです。できればさっさと帰りたかったです」
「えっと、みんなどこに行ってきたの?」
佐田さんは小首をかしげて怪訝そうに訊いてくる。
「ここから少し歩いたところに空き地がありますよね。ぼくたち、あそこにあるゲートをくぐって例の残念な異世界に行ってきたんです」
ぼとりと、佐田さんが袋に入れようとしていたチョコミントのカップを取り落とす。
「あああああああああ! チ、チョコミント! わ、わたしのチョコミントが! 大丈夫ですか! しっかりしてください! 息してますか! 死なないで!」
「清音、ちゃんとカップに守られているから大丈夫だよ。あとチョコミントは死なないから」
「ご、ごめんね。清音ちゃん」
佐田さんは落としたチョコミントのカップを拾うと、わざわざカウンターを出てアイスコーナーに行き、新しいチョコミントと取り替えてくれた。形が崩れたわけでもないのに、殊勝なことだ。
「みんな、ど、どうしてそんな、異世界なんかに……?」
「変なエルフに誘われるままついていったら、不毛な時間を過ごした上に厄介な難題まで頼まれたんです」
輝美は肩をそびやかして答える。
「そ、そうなんだ……。みんな、変なエルフにはついていっちゃだめだよ」
チョコミントを落としたことを気にしているのか、さっきからやたらと佐田さんは声をつまらせている。
でも佐田さんの言うとおり、変なエルフにはついていかないほうがいい。おかげでえらい目にあった。加えて責任重大な事案まで持ちかけられた。気が重い。
会計を済ませて、清音と和貴が商品の入った袋を受け取ると、佐田さんに別れの挨拶をした。コンビニを出ようとしたら、自動ドアが開いて外から金色のもじゃもじゃが出現する。ぼくらは一斉に足を止めた。
この幽霊みたいに金髪を長く伸ばした女の人は、コンビニでたまに見かける。そして出会うたびに驚かされる。だって外見がインパクトありすぎだからね。金髪のもじゃもじゃを前にして驚くなというほうが不可能だ。
ぼくらの間では、この人はもじゃ金という愛称で呼ばれている。
もじゃ金はのっそのっそと店内の後ろ側にあるお酒コーナーに歩いていった。あの人、いつも酒やおつまみばかりあさっているな。佐田さんとも知り合いのようで、二人が話しているのを何度か遠目に見かけたことがある。
コンビニを後にして、ぼくらは帰路についた。他愛ない談笑をしながら進んでいくと、なぜかいつもより、別れ道までの道のりが長く感じられた。
輝美は髪をなびかて、くるりと身をひるがえすと、ぼくら一人一人の顔を見てくる。
「各人、レイナに協力するかどうかじっくり考えるように。といってもそんなに気負うことはないぞ。断りたければ断ればいい。異世界のことは異世界の連中の問題だ。わたしたちが無理して責任をしょいこむことはない。やりたいかやりたくないか、そこだけをシンプルに突きつめればいいんだ」
輝美は軽い口振りでアドバイスをくれる。ぼくらを気遣ってくれていた。断ることになったとしても、輝美は誰も責めないし、誰にも責めさせはしない。
「じゃあな」
輝美が別れの挨拶を口にすると、今夜はここで解散となった。
◇
帰宅すると食事とお風呂を済ませて、二階にある自室にむかう。
本棚や学習机の引き出しには、ファンタジー系の漫画や小説、それにゲームソフトやアニメのDVDがおかれている。子供の頃からフィクションの異世界に想いを馳せては、空想にふけっていた。その足跡がこの部屋には色濃く刻まれている。この先の人生でも、ぼくにとってファンタジーは欠かせないものになるだろう。
疲れた身体をベッドに横たえて、天井を見上げる。
レイナの頼みを聞き入れるかどうか。自分なりに考えてみたけど、まだ答えは出せなかった。
レイナや異世界の女王や女神は、ぼくらがネットに小説を投稿しているから目をつけたみたいだけど……。
「そもそもなんでぼく、小説を書くようになったんだっけ?」
そんな自分の原点を回顧するようなことを言ってみる。
わざわざ口にしなくても、小説を書き始めたきっかけは鮮明に覚えていた。
あれは十年前、町の本屋をうろついていたときのことだ。きらびやかなドレスという場違いな格好をした女の子が、やたらきょろきょろしながら店内を歩いているのを見かけた。どうやら女の子は周りにある本を見てまわっているようだった。
好奇心から声をかけてみると、その女の子は異世界の王女様のような丁寧な言葉づかいで返してきたので、ぼくは毒気を抜かれた。詳しく話を聞いてみると、つまらないパーティー会場から抜け出してきたそうだ。
それが輝美との出会いだった。輝美というか、あの頃のかわいいロリロリした女の子はロリ美ちゃんだ。今の輝美にロリ美ちゃんなんて言ったらキレられるので、絶対に言わないけど。
輝美は本屋を訪れるのはあのときが初めてだったらしく、並べられた本に興味を示していた。ぼくは当時読んでいた漫画や児童書、ゲームの攻略本についてたくさん教えてあげた。輝美はぼくの話を一言一句聞き逃すまいと、しきりにうなづいて耳をそばだてていた。
しばらくすると、スーツを着た男性が輝美を迎えにやってきた。さびしそうな顔を見れば、輝美が戻りたがっていないのは明白だった。
咄嗟にぼくは、ついさっき買ったばかりの児童向けファンタジー小説を輝美の胸に押しつけて「それ、かしてあげる」と言った。目を白黒させている輝美に「次あうときにちゃんとかえしてね」と一方的に伝えた。
呆気にとられていた輝美は胸に押しつけられた本をぎゅっと抱くと、夏の日差しをあびたひまわりのようなまぶしい笑顔を咲かせて、精一杯にうなづいてくれた。
数日後、その本屋に行ってみたら庶民的なワンピースを着た輝美が貸していたファンタジー小説を両腕にかかえてぼくを待っていた。
小説の感想を尋ねてみたら、「とても素敵でした。時間を忘れて読みふけってしまいました」と微笑んで絶賛してくれた。まだぼくはその小説を読んでなかったけど、輝美が気に入ってくれたなら満足だった。
それから輝美とよく遊ぶようになり、お気に入りの小説や漫画、ゲームやアニメなどを教えてあげた。そういった作品から一般的な庶民の喋り方を学んだようで、お嬢さま口調が段々と砕けたものになっていった。
そしてある日、輝美はぼくに訊いてきた。
「ユウは小説を書かないの?」
書かない。ていうか書いたことがない。ぼくがそう答えると、輝美は両手を合わせて無垢な笑顔で言ってきた。
「なら書いて。ユウならきっと、おもしろい小説が書けるから」
そんな笑顔をむけられたら、断るわけにはいかない。それに小説を書いてみたいという衝動は、ずっと前から心の片隅で眠っていた。輝美の一言で、ぼくはその気持ちを芽吹かさせることができた。
あの頃はまだパソコンの使い方がわからなかったので、買ったばかりの自由帳にシャーペンを走らせて下手な文字を書き連ねた。
いざ書きはじめたら妄想がどんどんふくらんでいき、書くのを止められなくなった。手首が痛くなっても、かまわずに書き続けた。これはすごい作品ができてしまう。こんな展開を考えつくなんて、ぼくは天才だ。少なくともぼくにとって自分が書いている物語は、世界中のどんな作品よりもおもしろいものだった。
そうして小説らしきものが完成すると、さっそく輝美に手渡した。あまりのおもしろさに感涙すること請け合いだと、ぼくは心のなかでほくそ笑んでいた。
翌日、輝美に小説の感想を訊いてみたら、
「おもしろくない。読み終えたあとに捨てた」
全否定された。
ひっくりかえった。子供ながらにぼくはひっくりかえった。そのせいで尻餅をついた。痛かった。ケツと心が痛かった。
そんなバカな。あの名作がおもしろくないとはどういうことだ? 当時のぼくは予想だにしなかった結末に愕然となり、現実を受け入れることができなかった。これは何かの間違いだと自分に言い聞かせた。きっと夢に違いない。でなきゃあの名作がおもしろくない説明がつかない。夢なら早く覚めてほしい。そう何百回も祈った。
いま思い返してみたら……キャラ崩壊やありえない展開のオンパレードで、小説としては破綻した作品だったな。
ショックを受けたぼくに、輝美はまた小説を書くように叱咤してきた。
ぼくは再起すると、今度こそ「おもしろい」と言わせてやると意気込んで前作を上回る作品を書きあげた。だがそれも「おもしろくない」と一刀両断された。その次も、その次も、その次の次も、輝美は「おもしろい」とは言ってくれなかった。
感想を聞かされるたびに心がくじけそうになったけど、輝美はすぐにまた新作を書くように要求してきた。「おもしろくない」って否定するくせに、「もう小説を書かなくていい」とは一度も言わなかった。
そのおかげで、ぼくは小説を書き続けることができた。輝美がいなかったら、ぼくは小説を書かなかっただろうし、挫折を味わうことも、挫折から立ち直ることもできなかった。
小此木悠太にとって、明坂輝美は小説を書くきっかけであり、最初の読者でもある。
結局、輝美を満足させられるようになるまで、途方もない時間と労力を費やした。三年以上かかってやっと「おもしろい」の一言を引き出すことができた。輝美の口からその言葉を聞いたとき、じんわりと胸にしみこむものがあった。全身にまとわりついていた重みが消えていって涙腺が熱くなった。あれが達成感というやつだ。
その頃には、自分は天才でもなんでもない凡人で、プロの小説家になれるだけの資質がないんだと、ぼくは身の程をわきまえていた。
それでもぼくは、今も小説を書いている。輝美や清音や和貴にアイディアをもらって、作品を生み出している。
本物の小説家にはなれない。それだけの才能も実力もない。そのことを十分わかっていても、小説を書くことはやめられない。
きっとそれは、好きだからだ。小説を書くことが好きだから。自分たちの手で空想の世界を創作することがおもしろくてたまらないからだ。
だからぼくは小説を書いている。そしてこれからも書き続ける。
ぼくにとって小説を書かないなんて選択はありえない。それが一つの絶対的な答えだ。
自分の原点を顧みると、ベッドに転がっていた身体を起こした。
輝美に初めて会ったときに貸した児童向けのファンタジー小説は、いつでも読めるように今も本棚においてある。
ぼくが小説を書いているのは、それが好きで、おもしろいからだ。
じゃあ異世界を手がけるのはどうだ? そう自問してみる。
責任は重大だ。異世界フィーラルに住まう全種族の命がかかっている。失敗は許されない。正常な判断力を持っているのなら、断るべきだとわかる。
けど輝美はシンプルでいいと言った。ぼくがやりたいかやりたくないか、そこだけを突きつめればいいと。
そのとおりだ。余計な不純物はいらない。自分のなかにある、素直な気持ちだけを取り出せばいい。
そうしてみたら、答えはすでに決まっていた。
みんなでアイディアを出しあって小説を書くのはおもしろい。
それと変わらない。確信をもって、そうだと言える。
みんなと力をあわせて異世界を手がけるのは、とてつもなくおもしろいに決まっている。
ぼくはやりたい。そこに胸が躍るような楽しいことが待っているのなら、思いきって飛び込んでみたい。
「……ほんと、どうしてやるほうを選んじゃうかな」
やめておくべきだ。絶対にそのほうがいい。やらなきゃよかったと後悔するはめになる。
それでも困ったことに、ぼくの心は答えを出してしまった。だからもう変更はできない。きっと輝美や清音や和貴が幼馴染みじゃなかったら、こんなバカな選択はしなかっただろう。友人に恵まれているのか恵まれていないのか、よくわからないな。
ベッドから腰をあげる。学習机に乗っているスマホを手にとって電話をかけた。
数回のコールが鳴ってから、輝美は出た。
「あらあらユウったらどうしました? こんな時間に電話をかけてくるなんて? まさかモンモンしてきたのかしら?」
ピッと通話をきる。
二秒とせずに、輝美から折り返しの電話がかかってくる。
「なに?」
「なに? じゃない。こんな時間に電話してきておいて、いきなり切るとはどういう了見だ」
「それはこっちのセリフだよ。モンモンしてきたのかしらってどういうこと? モンモンしてきたらぼくは輝美に電話をかけるの? それって凄まじい変態だよ。ぼくの脳内に出てきたロリ美ちゃんは、そんなことを言う子じゃなかったよ」
「モンモンしてきたら電話をかけるやつは間違いなく凄まじい変態だが……ロリ美ちゃんってだれだ?」
「あっ、いや、なんでもないよ。気にしないで」
やばかった。電話じゃなくて、面と向かいあって話していたら、動揺が顔に出てばれていた。
「気にするなと言われても、気になるんだが?」
勘が鋭い。やはりさっきの説明では釈然としないみたいだ。
本当のことを言うわけにもいかない。叱られるのこわいしね。……しょうがない。こうなったら……。
「ロリ美ちゃんっていうのは、ぼくが作りあげた架空の人物だよ。今度書こうと思っている小説の登場キャラなんだ」
「なんだ、そうだったのか。しかしロリ美って……ロリキャラなのか?」
「あぁ……うん。ロリキャラだよ。上品なお嬢さま口調で喋る小さな女の子」
「そんな妄想を自分の部屋で繰り広げていたユウに、わたしはいま引いている」
引かないでほしい。だってロリ美の正体は輝美なんだよ。自分で自分に引かないでほしい。
「けど珍しいな、巨乳好きのおまえが、ロリキャラを生み出すなんて。ロリキャラを生み出すとしても、巨乳なロリキャラを生み出すと思っていた」
「ぼくもそこまでキャラクターに巨乳であることを強要しないよ」
そもそもおっぱいだけが大きくたってだめだ。ちゃんと肉体とおっぱいのバランスがとれてこそ巨乳は輝く。肉体が幼くておっぱいだけが突出しているなんて、そんなのぼくは認めない。それは真の巨乳じゃない。
「んで、どうしてこんな夜更けに電話してきたんだ? まさかロリや巨乳について話すためじゃないだろ?」
「わざわざロリや巨乳について、電話で女子に話そうとするのはやばい人だから」
もちろんぼくはやばい人ではない。
「だいたい察しはついているけどな。レイナに頼まれた件についてだろ?」
「まぁ……うん」
「そうか。ユウは答えを出したんだな」
「……なんでわかるの?」
「長い付き合いだからな。考えていることはわかる。それに、わたしたちのなかで一番異世界が好きなのはおまえだ。たぶんユウは反対しないだろうと思っていた」
他のみんなだって、ぼくに負けず劣らず異世界が好きだと思う。小説のアイディアを出すのに協力してくれているのが何よりの証拠だ。
なんにしても、輝美はぼくの思考を読んでいたみたいだ。
「輝美は、どうなの?」
「わたしか? そうだなぁ……」
ふふっ、とくすぐったそうな笑い声がスマホから聞こえてくる。
「ちょうどいま、本棚から取り出して読んでいたところなんだ」
「読んでいたって……なにを?」
「ユウからはじめて貸してもらったファンタジー小説」
そういえば、ぼくに返したあとに自分で購入したと言っていた。あの思い出の本を、輝美は手元において読み返しているんだ。
「どうして、いまになって読む気になったの?」
「わたしがファンタジー作品に夢中になったのって、この本をかりたのがきっかけだろ。だからあの頃の気持ちを思い出していたんだよ」
ぼくと同じで、輝美も自分の原点を顧みている。そうすることで自問自答し、答えを出そうとしている。
「輝美は……もう答えを見つけたの?」
「あぁ、どうやらそうみたいだな」
輝美は事もなげに言った。そして胸に秘めていた理想を語るように、よどみない声で述懐する。
「ユウ、わたしはやりたい。みんなと一緒に、異世界を手がけてみたい。それって絶対におもしろいだろ? 一つの世界を丸ごとひっくり返すようなことなんだぞ。そんなスケールのデカイことは、何度人生をやり直したってできることじゃない」
「うん、そうだね」
絶対におもしろい。楽しいに決まっている。
そしてみんながいてくれるなら、やれる気がする。成し遂げられる。そう信じることができる。
ぼくの頭のなかは、もうそのことでいっぱいだ。
「輝美、ぼくはみんなとやりたいよ。一緒に異世界をつくりかえてみたい」
「わたしもだ。さっきから体がうずいてしょうがない」
新作ゲームの発売を明日にひかえた子供みたいに、ぼくたちは居ても立ってもいられなくなっていた。
「あんまり興奮すると、眠れなくなるかもよ」
「そういうユウこそ、興奮して眠れないんじゃないか? それこそモンモンして」
「いや、モンモンはしないから」
でも体は火照っている。おかげで眠気がふっとんだ。スマホを握る手に自然と力がこもる。どうしよう、どきどきが止まらない。本当に今夜は眠れないかも。
「えっと、あんまり長話するのも迷惑だろうから、そろそろ切るね」
「そうか? わたしは迷惑じゃないぞ。ユウとだったら、いつまでだって話せて……」
と言いかけてから、なかなかおもはゆいことを口にしている気づいたようで、小さく息を飲む音が聞こえた。
「いまのは変な意味じゃないからな。その、友達として……話してても退屈しないという意味だ」
「うん、わかってるよ」
「……なんかその余裕な態度がムカつく」
フンと輝美が鼻を鳴らすのが聞こえた。ヘソを曲げてしまったらしい。
「もう切るぞ。わたしは読書の続きがしたい。ユウにかまっているヒマはないんだ」
さっきと言っていることが百八十度変わっているけど、ツッコまないであげよう。
「うん。じゃあおやすみ」
「あ、あぁ…………おやすみ」
輝美は弱々しい声音で眠りの言葉をささやくと、通話を切った。おやすみなんて、幼馴染み同士でも滅多に使わない言葉だから照れくさかったのかもしれない。
スマホを学習机におく。
体の火照りは、まだ冷めてくれそうにない。このままベッドにもぐっても、夢路をたどることはできないだろう。
ぼくも本を手にとった。
眠くなるまで、輝美と同じ、あの児童向けファンタジー小説を読むとしよう。
◇
異世界に行ってから、一週間後の休日。例のごとくぼくらは昼下がりのファミレスにいた。ただいつもと面子が違っていて、対面に座る輝美と清音の間にレイナがはさまれている。
「なんといいますか……敵に捕まって取り調べを受けるスパイの気分です」
パーカーのフードをかぶってとんがり耳を隠しているレイナは、げんなりしている。逃げ場を失ったチェスの駒みたいに窮屈なのだろう。もっとも、ぼくらはレイナに危害を加えるつもりはない。
ぼくらが今日集まったのは、全員の総意を伝えるためだ。
「わたしたちの答えを告げる前に、おまえに訊いておきたいことがある」
「は、はい。なんでも訊いちゃってください。どんな質問にも答えちゃいますよ。それこそスリーサイズから性癖まで」
「そういうのは知りたくない」
「うっ……そうですか」
レイナはがっくりと首を垂れてうつむく。そんな落ち込まないで。ぼくはレイナのスリーサイズを知りたいよ。特にバストのサイズとかね。性癖は遠慮したいけど。
「わたしが訊きたいのは、レイナ、おまえがどうして異世界フィーラルを救いたいのかだ。生まれ故郷だからとか、そういった民衆に向けた大義名分じゃなくて、おまえ個人がどうしてフィーラルの救済を願うのかを知りたい」
異世界を救うために派遣された特使としてではなく、レイナという一人の少女としての真情について輝美は言及している。
「わたし個人としてですか……。わかりました」
レイナは一度だけ深くまばたきをすると、コップを手にして唇を水で湿らせる。
「あれはそう……わたしが幼少のみぎりに」
「ちょっと待て」
「え? あっ、はい。ちょっと待ちます」
「その話、長いか?」
「はい、めっちゃ長いです。それこそ一両日ではとても語りきれません」
「そうか。じゃあやっぱいいや。聞くのめんどうくさいから」
「えええええ! そんなぁ! 聞いて! 聞いてください! お願いします、どうかわたしのバックボーンを聞いてください!」
「あなたのバックボーンとか、興味ないです」
右隣に座っていた清音の心無い言葉に、うぐぅとレイナは涙目になる。
「しょうがないな。じゃあ聞いてやるから、コンパクトにまとめろ」
「コ、コンパクトにですか? えっと……」
レイナは目元の水滴をぬぐうと、指折り数えながらぼそぼそと語りだす。
「幼少のみぎりに書物で読んだ古代のフィーラルが大好きだから、わたしは現在のフィーラルをあの時代のような素敵な異世界にしたいです」
「なるほど。おまえの情熱はしっかりと伝わった」
「え? 本当ですか? 本当にしっかりと伝わりましたか? すっごいコンパクトにしすぎてぜんぜん語り足りないんですけど? 重要なストーリーとか端折りまくったんですけど? 本当にわたしの情熱は伝わったんですか?」
「あぁ、コンパクトに伝わった」
それは正確に伝わったと言えるのだろうか?
「んで、わたしらの解答だが」
「あっ、はい」
レイナは膝の上に手をおいて居住まいをただす。
輝美はぼくらを代表して、異世界を救う手助けをするか否か、その答えを口にした。
「悪いが協力できない。自力でがんばってくれ」
「……すみません。よく聞こえなかったので、もう一度言ってください?」
「協力はできない。テメェらのことはテメェらでなんとかしろ」
一度目よりも言い方がきつくなっている。
レイナは眉間に人差し指を当てると渋面になって考え込む。ようやく輝美の言葉を咀嚼できたのか、両目を見張ってわなないた。
「な、なんでぇ! なんでダメなんですかぁ! そこは引き受けてくれる流れじゃないんですか! 引き受けてくれなかったら何も始まりませんよ! ここでエンディングになっちゃいますよ! いいんですかそれで!」
「べつにいいが」
「な……なにぃ……!」
へなへなとしおれた花のように脱力して、レイナは背もたれによりかかる。この世の終わりみたいな顔になって、テーブルの上に指で渦巻きを描き始めた。よほどショックだったみたいだ。
「うそだが」
「へ? う、うそ? 今のもしかしてうそなんですか?」
「あぁ、うそだ」
「な、なんで? なんでそんなうそを? 最初から本当のことを言ってくれればいいじゃないですか! うそついたらダメじゃないですか!」
「おまえの絶望する顔が見たかった」
「しどいっ!」
ほんとにしどい。下手をしたら悲しみのあまりレイナは命を絶っていたかもしれない。
「と、ということは……みなさんの答えは……?」
青い瞳を星のようにきらめかせて、期待に満ちた熱い視線を向けてくる。
「異世界を手がけるのはおもしろそうだからね。ぼくはかまわないよ」
「わたしもファンタジーファンの端くれとして、あんな残念極まりない異世界は捨ておけません」
「強いヤツに、俺は会いにいく」
和貴だけ理由がずれているが、よくあることなので気にしない。
「というわけだ。わたしらは満場一致で、レイナ、おまえに協力する」
ぼくらの出した答えを聞くと、レイナは全身を小刻みに震わせて試合終了間際にゴールを決めたサッカー選手のように両手を握りしめて、ガッツポーズをとった。
「みなさん…………ありがとうございましゅっ!」
……噛んだ。
「ありがとうございます!」
言い直すとレイナは深々と頭を下げる。まだ何も感謝してもらえるようなことはしてないし、それに周りのお客さんがいぶかしげにこっちを見ているから、そういうことはやめてほしい。
「いや~、一時はどうなることかと焦りましたよ。もうマネーで解決するしかないんじゃないかって」
顔をあげると、レイナは屈託のない笑顔を見せてくる。マネーで解決って、なかなかにゲスいことを考えていたな。
「わたしの家はお金持ちだから賄賂で買収されたりはしないぞ」
「ぐっ……そうでした」
監視している間にぼくらの身辺情報を洗っていたらしく、輝美の家のことも調べがついているみたいだ。
「ではみなさん、これからよろしくお願いします」
ぼくたち一人一人の顔を瞳に映しながら、レイナは改めて友好的な笑みをたたえた。
「あぁ、わたしはやるからには徹底的にやるからな。覚悟しておけ」
「は、はい……ど~んときちゃってください」
凄絶な笑みを浮かべる輝美に気合負けしたようで、レイナの声は震えていた。
最後まで締まらないエルフだ。




