激怒する鬼
契約先の会社を訪問し、新しいパンフレットを渡し保障内容の変更箇所を説明して回る。
後藤さんはかなりのベテランで、美和子が説明に詰まった時はさりげなくフォローしてくれる。新人の美和子にとっては、頼りになる先輩のようだ。
一度オフィスに戻り、持って来たお弁当でお昼を済ませ、午後からも二人で会社訪問をしていた。
こんなに忙しなく動き回っていたら痩せてしまうのも無理はない。もちろん精神的な物が一番大きな原因だとはよく分かってる。
「苦労かけるな」
聞こえないとは分かっていても、そう言わずにはいられなかった。
夕方になり退社した美和子は、車に乗り朝のコースを逆に辿り敬太を迎えに行く。
保育園の門をくぐり年少さんの部屋の前で待っていると、あのイケメン保育士がキラキラな笑顔で近づいて来た。
「お仕事お疲れ様です」
爽やかに挨拶をするイケメンの左手も確認してみる。やっぱり指輪は無かった。
だよなぁ、まだ若いもんなぁ。
でも、彼女は居るよなきっと! だってイケメンだもん。
わざわざ子持ちの未亡人なんか選ばなくても、より取り見取りだろ。だってイケメンだもん。
でも、美和子に向ける笑顔が気になるような……
う~んと頭を悩ませてる間に、駐車場に来ていた。
敬太は、朝と同じようにチャイルドシートに座らされ足をぶらぶらさせて俺を見て笑っている。
「…………」
俺を見て笑っている??
今朝も思ったけど、やたらと敬太と目が合う気がする。
……視えているのか?
「敬太、今日はニコニコだね。いつもはチャイルドシート嫌がって泣くのに、どうしたの?」
敬太は美和子の問いには答えずに、ニコニコと俺に手を伸ばして来た。
まさか……視えているのか!?
家に入ると、敬太はおふくろにただいまも言わずに仏間に走って行った。美和子もどうしたのか尋ねながらその後に続く。
「パパが、どうかしたの?」
仏壇の遺影をじっと見つめる敬太に、美和子が声をかけると、パパと呟いて俺の方を振り返った。
何も無い空間を指差しながらパパと呼び続ける敬太に、美和子は訳が分からず辺りを見回している。
敬太は俺の目の前に来てしっかりと「パパ」と呼んだ。
「俺が、視えてんのか?」
俺がしゃがんでそう言うと、俺の声は聞こえていないのか、敬太は小首を傾げて不思議そうな顔をした。
「可愛いなぁ」
俺が笑うと敬太も嬉しそうに笑ってくれた。それからも事あるごとに敬太の視線を感じていた。
もしかしたら今朝も見られていたのかも知れないけど、閻魔大王と交信してたから全く気付かなかった。
空中を見つめて「パパ」と呼ぶ息子を見て「きっと、敬一郎さんが傍に居るのね」と二人は結論付けていた。
今日は敬太も一緒に寝るみたいだから、寝顔をたんまりと満喫できるぞ。と思っていたのに、真っ暗い空間にスポットライト。
なんでまたココに居るんだよ……
そう思い空間を睨んでいると、頭上から白い紙がピラピラと落ちてきた。
拾い上げてみるとアラビアン文字? どこの言葉? 全く読めない。
何が書いてあるんだ? と思っていると閻魔大王の咳払いが聞こえた。
『あー それにサインをしろ一番下の場所だぞ、間違えるな』
「……何て書いてあるのか読めませんけど……」
「てか、第一関門て何ですか?」
『……大丈夫だ、大した事は書いてない。ただの契約書だ』
「ちょっと。俺の質問は無視ですか」
『あれは……深い意味は無いのだ、から、気に、しなくて、いい』
閻魔大王の歯切れの悪さよ。何か隠しているのか? 胡散臭いな。でも、もう一度訊いてもはぐらかされるんだろうな。仕方ない。
『早くサインしろ』と催促されて、はいはいと返事をすると、目の前に万年筆が現われた。
まあ、閻魔大王が用意した物だから守護霊になる時に書き忘れた書類か何かだろうけど……信用しても良いんだよな……
早くしろともう一度せっつかれ、万年筆を手にサインしようと構えた時に、目の前の紙が煙のように消えてしまった。
「あっ?」
と出した俺の声に鬼の声が重なる。
『危なかった……。閻魔様! あなたって人は何を考えているんですかっ!! これは補助官の誓約書でしょ!! 全く油断も隙もない!!』
『敬一郎様!!』
また怒られてる。と、ニヤニヤしていたら突然名前を呼ばれ、返事が裏返ってしまった。
『この方がこんな姑息なまねをするとは思いもしませんでしたけど、やたら目ったらサインなんかしないでください!!』
鬼は、鼻息も荒く憤慨している。
『いくらお気に入りだからって、本人の承諾も無しにサインなんかさせないでください!!』
大きな身体を小さく畳んで、仁王立ちの鬼の前で正座をしている姿が、鮮明に脳裏に浮かび上がった。俺は頭を振りその映像を脳内から追い出す。
あ-変なのに気に入られたなぁ。と思いながら、まだまだ続きそうな説教を何となしに聞いていた。
『変なの言うな』
耳元で聞こえた声にびくりと俺の身体が震えた。とっさに振り向いたが、誰もいない。
……びっくりした。
「人の心の中読まないでください。って言うか、読めたんですね」
『造作もない』
閻魔大王はそう呟いたけど、未だに説教中だ。そして、そのまま交信は途絶えてしまった。
煩かった。
静まりかえる空間に居るのに、閻魔大王たちの騒々しいやり取りが俺の耳の中で反響している。
これでやっと夢に入れる。
俺は美和子の夢が見たいと念じ、その中に入りたいと願った。